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この地域の歴史にゆかりの深い人物を
ご紹介します。





藤山 雷太 (フジヤマライタ)
文久3.8.1(1863.9.13)〜昭和13(1938).12.19明治大正期の実業家。肥前国松浦郡(佐賀県伊万里市)に生まれる。明治25(1892)年福沢諭吉の紹介で三井銀行に入行し、抵当係長として実績を挙げ、芝浦製作所支配人を経て、29年王子製紙専務に就任。42年には過剰生産設備を抱え、日糖疑獄で揺れた大日本製糖の社長に就任し、経営再建に成功。その後日糖を中心に関連企業を派生させ、藤山コンツェルンと呼ばれる企業集団を築いている。晩年には貴族院勅選議員や東京商工会議所会頭となった。
(佐賀県 伊万里市)


スペックス 
1585頃〜1645頃江戸前期の平戸の初代オランダ商館長。ドルレヒト生まれ。慶長14(1609)年、平戸にオランダ商館が開設されると、その最初の商館長となる
(長崎県 平戸市)


稲垣 満次郎 (イナガキマンジロウ)
文久1.9.26(1861.10.29)〜明治41(1908).11.25明治期の外交官、南進論者。肥前国松浦郡平戸町(長崎県平戸市)出身。外交官としても活躍したが、著書「東方策」(1891)その他の言語活動により日本の太平洋進出を唱えた南進論者の先駆けとして著名。
(長崎県 平戸市)


橘 三喜 (タチバナミツヨシ)
寛永12(1635)〜元禄16.3.7(1703.4.22)江戸前期の神道家。生まれは肥前国(長崎県)平戸、江戸に出て活動した。吉田神道家宮内昌興および吉川神道家吉川惟足の教えを受け、江戸浅草に住して橘神道を創唱した。
(長崎県 平戸市)


三浦 按針 (ウィリアム・アダムス)
1564.9.24〜元和6.4.24(1620.5.26)日本に来た最初のイギリス人で、徳川家康の政治顧問。平戸のオランダ商館を設置させたのも彼の力によるもの。平戸で病死。
(長崎県 平戸市)


菅沼 貞風 
平戸に生まれる。「平戸貿易史」の著者。日本の海外発展を策し、先ず自らフィリピンに渡り種々調査研究を進めたが、惜しくも1889年25歳でマニラで客死した。
(長崎県 平戸市)


菅沼 貞風 (スガヌマ テイフウ)
慶応1.3.10(1865.4.6)〜明治22(1889).7.6明治前期の南洋貿易史学者。肥前国松浦郡平戸(長崎県平戸市)に生まれる。大学の卒業論文に古文からの外交・貿易史の研究を選んで、この分野の先駆的業績をあげた。雄図があり、南洋植民思想を普及し、フィリピンに実践しようと企画してマニラに渡航したが、客死した。わずか25歳であった。
(長崎県 平戸市)


西 トマス (ニシトマス)
天正18(1590)〜寛永11.9.22(1634.11.12)ドミニコ会司祭。殉教者。長崎16人聖人(1981年列福)のひとり。肥前平戸領生月(長崎県)出身。慶長19(1614)年の大追放(キリシタン禁教令)によりマカオに赴き、翌年ベトナムの布教に従事し、フェフォの日本人町で働く。元和2(1616)殉教。
(長崎県 平戸市)


石本 新兵衛 (イシモトシンベエ)
生年不詳〜正保2.10.22(1645.12.10)江戸前期の貿易商人。長崎平戸町(平戸市)乙名(町の代表者)。壱岐国(長野県)生まれ。長崎代官末次平蔵船の客商であったといわれる。町乙名拝命以後は、キリシタンの改修など鎖国形成期の町政を担った。
(長崎県 平戸市)


鄭 成功 (テイセイコウ)
中国福建省出身の貿易商・鄭芝龍と平戸藩川内浦の藩士の娘・田川マツとの間に生まれるやがて、父芝龍は明朝の招きに応じ福建総兵となり富と権力を掌中にいれる父の招きにより7歳で渡海。21歳の時、明王隆武帝に拝謁し明王朝の国姓である「朱」を与えられる。以後、人々は彼を「国姓爺」と敬称した。1646年、清軍の台頭に明朝は滅び、1647年鄭成功は“抗清復明”の旗印を揚げ、南京を目指す。1658〜1659年にかけて南京に迫るが思わぬ敗北を喫し、台湾進攻を余儀なくされる1661年、当時の台湾はオランダに占拠されていたが、これを解放し政府を置き、法律を定め学校を起こし国の基礎を築いた。翌年熱病のため39歳で没す。
(長崎県 平戸市)


篭手田 安定 (コテダヤスサダ)
天保1.3.21(1840.4.23)〜明治32年(1899).3.30明治期の地方行政官。肥前国北松浦郡平戸村(長崎県平戸市)に生まれる。明治1年大津県判事試補となり、2年大参事、8年滋賀県権令、11年県令と滋賀県政を担当。現実重視派で勧業・教育に力を入れた。
(長崎県 平戸市)


ガスパル西玄可 
領主・篭手田氏が棄教せず追放された後、生月キリシタンの指導者であったガスパル西玄可は、信仰を捨てず1609年に妻子とともに処刑された。処刑が行われた場所、通称「黒瀬の辻」(一説にはクルスが訛ったものという)には、現在カトリック教徒が立てた十字架がそびえている
(長崎県 生月町)


益富又左衛門(初代・五代) 
生月島近海には古来多くの鯨が回遊してきていた。18世紀初頭、初代益富又左衛門は捕鯨業をおこした。当時の捕鯨は、食用の肉としての利用はもとより皮・骨から油を採取、蝗を退治する農薬として使用され莫大な利益をあげた。歴代の益富当主・又左衛門は、福岡や長崎、江戸の文人と好みを通じたが五代目益富又左衛門は科学的知識をもとに捕鯨絵巻「勇魚取絵詞(いさなとりえことば)」を制作し江戸時代の捕鯨の様子を詳細に記録した
(長崎県 生月町)


西六左衛門(聖トマス西) 
西玄可の次男で、禁教の厳しくなった日本を脱出し、ベトナム・マニラに移り修道院に入り司祭となった。1629年には帰国・伝導をおこなったが、1634年には捕らえられて処刑され、後にローマ教会より列聖をうけた。
(長崎県 生月町)


寺山 団助 
松浦一族、志佐純意の侍大将の一人で、鍋串城にあって、島を治めた。文武に勝れた武将として勇名を馳せていた。しかし、天正17年(1589)志佐勢の夜襲を受け、無念の最期をとげた悲劇の武将である。本町には団助および妻の墓のほか、一族の武具、家宝などを埋めたという伝説の石積(御道具山)がある。
(長崎県 福島町)