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下水道

江戸時代以前の下水道

わが国は古来、農をもって基本とし、最近まで、し尿を有力な肥料としてこれを有償化し、農地に施肥して来た習慣があった。したがって、便所の構造は汲取式であり、溝渠にし尿が流出することはなかったので、水路や河川がし尿によって汚濁される程度も比較的軽微であった。これらの事情が下水道施設の整備が遅れた主な原因ともなった。

しかし、歴史を顧みると、下水道の概念の登場は、弥生時代までさかのぼることができる。弥生時代には、稲作技術の渡来などの理由により大きな集落が形成され、防御、用水、排水等を兼ねた水路が造られるようになった。

次に、古墳時代には、掘立柱形式の建物の屋根から落ちる水を受ける雨落溝が存在した。これは、雨水排除に大きい役割を果たしていた。藤原京の時代には、かなり大規模な排水施設が存在した。藤原京は道路側溝が発達しており、その総延長は約200kmにも及ぶものであった。平城京においては、藤原京以上に大規模な都市となり、きちんと計画された道路側溝網が存在していた。

また、平安時代には、高野山に水洗便所が存在した。これは、井戸水や沢水を用いた水洗便所で、排出されるし尿は有田川に放流されていた。

さらに、安土桃山時代には、「太閤下水」と呼ばれる背割下水が存在した。これは、大阪城築城に伴う町づくりのひとつとして行われた事業であった。この一部は現在でも使用されている。

 

太閤下水
太閤下水

このように町づくりとともに主として雨水の排除を目的とした下水道整備は全国各地で行われていたが、やはり近代的下水道の登場は明治時代に入ってからのことであった。