1.皇居への官庁集中計画
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維新政府は天皇親政の目的のため、諸官庁を皇居周辺に配置しました。明治3年には皇城内本丸跡に諸官庁を集中するよう大蔵省に命じましたが、実際には着工されませんでした。その後明治6年皇城は焼失し、皇城の再営と本丸に諸官庁を集中することを計画しました。しかし、地質不良により計画は実現をみませんでした。
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2.井上馨の欧化政策
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明治政府にとって、治外法権を撤廃し、諸外国との対等な国交を樹立するための条約改正が大きな課題でした。明治19年5月の条約改正会議を控えて、外務大臣井上馨は欧化政策をとり、明治16年にはジョサイア・コンドルの設計で鹿鳴館が建設されました。さらに井上は、近代的な国会議事堂、裁判所、司法省を含む諸官庁建築が整備された姿を諸外国に示そうと計画しました。明治18年にはコンドルに官庁集中計画を二案作成させますが、実施には至りませんでした。
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3.ベックマンの来日
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明治19年ドイツ人技師ベックマンが来日し、官庁集中計画を作成しました。本計画は、東は築地本願寺から西は日枝神社に及ぶもので、中央には四角く博覧会場がとられ、日本大通りが東西軸をなしています。また東からは、天皇通りと皇后通りが結集し、西へは国会大通りが延びています。現在と同じ場所に計画された国会議事堂からはヨーロッパ通りが南を走り、これらの道路沿いに官庁建築が配置されています。
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官庁集中計画(ベックマン案)
『明治の東京計画』
(藤森照信著,岩波書店)より |
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4.ホープレヒト案とエンデ案
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ベックマンが帰国した翌年、ドイツ人技師ホープレヒト、エンデが相次いで来日しました。ホープレヒトは、ベックマンの案に大幅に手を入れ規模縮小を図り、日比谷練兵場跡を60m幅の並木通りで囲んだ内側に諸官庁を並べ中心を庭園とするロの字型のホープレヒト案が生まれました。その後具体的な官庁の配置とデザインはエンデに任されることとなります。エンデは、美術上の不都合と地盤の問題からホープレヒト案の実行に不安を述べていますが、最終的には同意しました。エンデ案は一辺およそ600mという広大な正方形の敷地にまとまりを与えるため、四隅に建つ内務、大蔵、海軍、農商務及び文部の各省は同一形にして全体を一つの巨大な建物のように据えていました。
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官庁集中計画(ホープレヒト案)
『明治の東京計画』より

官庁集中計画(エンデ案)
『明治の東京計画』より |
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5.山尾庸三案(現在の霞ヶ関の基本形)
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明治21年山尾庸三が内務省臨時建築局総裁に就任し、ホープレヒト及びエンデにより立案された日比谷練兵場跡の計画に従い、司法省を起工しましたが、敷地は劣悪を極めたため、計画の全体を変更するに至ります。日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省は残り半分の敷地の裁判所の隣地に、残りの官庁は議院、参謀本部、外務省、裁判所、司法省に囲まれた敷地へと変更しました。これが官庁集中計画の実現案となり、現在の霞が関官庁街の骨格となっています。
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官庁集中計画(山尾庸三案)
『明治の東京計画』より |