第2節 公共事業における公共の福祉の優先

 戦後の住宅・社会資本整備は着実に大きな成果を挙げてきた反面、私権と公共事業の関係には大きな課題が残されている。この点について、特に公共事業を実施する際の用地取得に焦点を当ててみてみよう。
 そもそも、社会資本整備や都市計画は、安全で快適なまちづくりや道路・河川など社会経済基盤の整備を通じて『公共の福祉』(個々の人間の個別利益に対して、それを超え、ときにそれを制約する機能をもつ公共的利益)を増進するために行われるものである。しかしながら、現実には、公共事業における一坪地主運動に見られるように、事業に反対する立場から、事業の遅延を意図して用地買収を手間取らせるような活動が行われ、公共事業の進捗に大きな障害となっているケースも見受けられる。事業の公共性及びその結果としての私権に対する公共の福祉の優先・尊重に関する意識を国民全体が向上させ、一定の公正な手続きに基づいて適正に決定された事業に対してはその決定を尊重する、という認識を持つことが期待される。
 今日、公共事業における私権と公益の問題を明確に示している一例が土地収用制度をめぐる問題である。我が国の公共事業が計画通り進まない理由の一つとして、用地等の取得に当たり、一部の地権者の反対に対し事業者側が法の定める手続きによる収用を行うことを回避しているためとの批判がある。この批判の立場からは、積極的に土地収用の制度を活用し、公共事業を速やかに進めるべきであるということになる。
 公共用の用地の取得のあり方として、事業の実施に際して前提となる用地の取得に当たっては、民間が所有している土地を公共事業用地として取得する必要が生じる場合があり、その際は、1)所有者による任意の売却、2)土地収用法に基づく強制収用による手段のほか、3)関係者の同意を得て地方公共団体や民間が施行する、土地区画整理事業による土地の換地処分を通じた公共用地の創出が考えられる。
 2)による強制収用のための手続きによると、土地収用事業を行う起業者が建設大臣又は都道府県知事に対して事業認定の申請を行い、その認定が告示されてから1年以内に収用委員会に対して土地を収用するための裁決(権利取得裁決・明渡裁決)を申請し、裁決を受けた後に、起業者は補償金を支払った上で、土地に対する権利を取得し、明渡しを受けることとなる(図表1-2-1)。
 土地収用制度の積極的活用を図るため、平成元年には建設省直轄事業(ダム事業は除く。)については、用地取得が当該公共事業に必要な土地の80%になったとき、又は用地幅杭打設から3年経過したときのいずれか早い時期に、土地収用事業認定を申請し、収用手続に移行することをルール化したが、実際に手続きに移行した事業は約2割に留まっている。
 これは、事業者が「強制収用する」と言った段階で地元住民や地権者は態度が軟化することなどにより、強制収用をする必要がなくなることや、強権的手法であるため、住民との軋轢を起こしかねないことから、事業者が敬遠してきたことや、事業認定の告示から原則1年以内に収用委員会に土地収用を申請しなければならないため、補償金支払いに関する財政的措置がなされていることが必要である等の理由によるといわれている。
 通常、地権者が収用に対して反発を感じるのは、自分の貴重な財産を収用されてまでその事業が公共の利益のために必要なものかどうか、本人にとって納得のいく説明が得られない場合が多いからと考えられる。公共事業が計画され、実施に移される場面で土地収用に関する争いが起こった場合、収用手続が対象となった公共事業の必要性を最後にチェックする役割を果たしている。しかしながら、強制収用の公益性を認定する事業認定の際には、その理由が開示されるなどの情報公開手続を踏むことは法律上要求されていない。
 また、土地収用法は、一坪運動等により権利者が千人を超えてしまうような多数当事者が存在する案件については、適切に対応するための手続きを予定しておらず、収用手続において多くの労力とコストが費やされている。このように、現行土地収用法は、実態に十分に対応できる制度とはいい難い状況となってきている。
 他方、地域に密着した町村道などは、その整備効果が地域の住民にも分かりやすいので、強制収用に及ぶことはない。しかし、大規模な幹線道路など国家的・広域的利害に関する事業になるほど、その必要性や緊急性が高くても地域住民にとっては抽象的、間接的なものと感じられ、直ちには事業に賛成できず多大の時間コストを費やすというケースが多い。
 このように、公共事業に臨む行政側の姿勢としては、事業の計画段階から、関係する情報や行政の方針を公開したり必要な説明を行い、意見聴取や住民参加など住民と対話する機会を設けるとともに、事業の採択等においては整備効果の定量分析等の事業評価などを併せて進めていく必要がある。
 同時に、地域住民の側としても、事業が実施されたことによって地域全体あるいは国全体の国民の暮らし・経済に与える影響など、一個人の私権を超えた公共の問題についても考慮するという「公の精神(パブリックな問題についてパブリックな立場で考える視点)」を醸成し、そうした意識を持ちながら事業に積極的に関わっていく姿勢が大切である。
 社会資本整備の歴史を振り返ると、戦後復興から高度経済成長、それに伴う人口の急増と大規模な人口移動など、経済社会の変化に応じて次々に現れる課題に緊急に対応することに追われてきたというのが実態である。こうした中で公共事業を早急に進めるために、社会の中にある複雑な利害を調整していくという努力が必ずしも十分でなかったということは否めない。現実に空港建設などに際して、激しい摩擦を引き起こした事例も存在する。近年、公共事業をめぐる争いは私権対公共の利益というような単純な対立関係ではなくなりつつある。事業主体対関係住民の争いに見えるものも、環境、歴史、風土、景観も含めた多様な価値観の違いから、地域でもコンセンサスが得にくい、という場合が多い。後でも触れるが、例えば緊急整備が必要な大都市圏の広域的な環状道路のように、欧米諸国に比べて極端に整備のスピードの遅いものがある。その関係者は、住民だけでなく、広域的な利用者、企業等多岐にわたることからその合意形成は容易ではないが、国民生活や社会、経済に与える影響も大きく、また、世代間の受益と負担の公平性を考慮すると、早急に整備する必要があることから、国民の意見を反映する仕組みを整えていくことが重要である。

 次節以降においては、戦後から一貫して着実に積み重ねてきた住宅・社会資本整備の現在の姿を考えてみよう。

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