日本近代のオピニオン・リーダーのくにづくり・まちづくりへの提言

内村鑑三(思想家;1861〜1930)
東京都出身。農商務省勤務後、渡米。帰国後、社会評論など行い、足尾鉱毒事件を批判し、日露戦争時は非戦論を唱えた。

 内村鑑三は講演録『後世への最大遺物』の中で、普通の人間として生まれて、価値のあるものを後世に遺したいと考えるのは当然のことではないか、何を遺すかと問われれば、勇ましい生涯と事業ではないかと訴えている。そして、建設行政や設計・工事に携わる事業者に、大和川などの事例を挙げて、「土木事業の貴さ」を謳い、「精神を籠めて」品質の優れた仕事をして欲しいと語りかけている。

 「私は土木学者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでございます。一つの土木事業を遺すことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。」
 「また土木事業ばかりでなく、その他の事業でももしわれわれが精神を籠めてするときは、われわれの事業は、…一つの事業がだんだん大きくなって、終りには非常なる事業となります。」
内村鑑三「後世への最大遺物・デンマルク国の話」(岩波文庫)

幸田露伴(小説『五重塔』などで知られる小説家;1867〜1947)
東京都出身。電信技師として勤務後、文筆活動を行う。
1937(昭和12)年文化勲章を授章。

 下記の記述は著作『一国の首都』の中の一節であり、明治になって30年経過し、日本は世界的な大競争の中に身を置いていることを認識し、深謀遠慮の上、世界の中の日本であることを自覚すべきだと述べた上で、こうした大局観(「着眼大処」)に立って東京を「世界の東京」にしようという理想を掲げ、これを国家戦略とした基本構想や整備方針の確立が必要であると説いている。そして枝葉の施策を変更することはあっても、これら首都経営の基本設計は将来も堅持することが大切だと愛情を持って訴えた上で、脱武家社会化による都市の無秩序な拡大を批判し、高度利用の促進や土地利用区分の実施、さらには社会資本など(道路、下水、塵芥排除、公園、神社、市場、劇場等)の整備方策を説いている。

 「首都は実に一国の運命の枢機のかゝるところ…」
 「往時のいはゆる江戸児が江戸を愛したる如き、燃ゆるが如き意気熱情を以て今の市民は我が東京を愛せるや、否や。」
 「我が東京をして世界の東京たらしむべしといへる理想及び方針標準を確立して、仮令ひ我が東京の施設経営するところの一事一件につきてはあるいは廃棄あるいは変更することあるとも、この理想この標準この方針は長へにあるいは廃棄あるいは変更することなきを要す…。」
 「平面にして厚さなき都市の不便不利は、なほ長さありて幅なき市の不便不利なるが如くなるのみ。…厚さなるかな、厚さなるかな、予は東京がその厚さを加へ、その実質の堅厚豊富を加へんことを祈るもの也。」
幸田露伴「一国の首都 他一篇」(岩波文庫)