第2節 国土のすがたの変化

コラム 明治時代の社会資本

 平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から満150年にあたります。明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、明治期において多岐にわたる近代化への取組みを行い、国の基本的な形を築き上げてきました。ここでは、こうした近代化への取組みのうち、本文中で述べた社会資本ストックの形成に関連して、明治期当時の社会資本整備の状況について紹介します。
 まず、鉄道整備について、我が国の鉄道は明治5年の新橋・横浜間の開通を第一歩として、明治末期までに、ほぼ全国の幹線網が整備されるに至りました。この間、明治14年に発足した日本鉄道会社をはじめとした私設鉄道も多数建設され、明治20年代には私設鉄道ブームが訪れることとなりましたが、明治25年に設立した鉄道敷設法により、鉄道建設は官設を建前とし、長期的展望にたって、これを推進する方針が確立しました。さらに、日露戦争後、明治39年の鉄道国有法により私設鉄道の買収が実施され、明治末期においては全国の鉄道の9割余を官設鉄道が占めることとなり、鉄道線路は8,047km(明治39年度時点)に達しました。
 次に、道路整備について、明治政府は鉄道優先策をとったため、鉄道整備に比べて後れを取ることとなりました。最初の道路法制は、明治4年(1871年)に太政官により出されたものと言われており、料金徴収を認めることにより、私人による道路や橋梁整備を促しました。明治9年(1876年)には、道路の分類が国道、県道、里道の3種類となり、明治18年(1885年)までに40路線の国道が認定されました。その後、明治29年(1896年)より帝国議会において道路法案が審議され、大正8年(1919年)の旧道路法が制定されるに至り、昭和27年(1952年)に現在の道路法が制定されるまで、我が国の道路行政の中心として重要な役割を果たしてきました。
 続いて、港湾整備について、安政6年(1859年)に開港した横浜港は、明治期に入り、新橋・横浜間の鉄道開通に伴う貨物輸送量の増大を背景に、大型船が直接繋船できるよう、施設の整備要請が高まりました。しかし、当初は財政難から事業に着手することができず、明治22年(1889年)になってようやく、我が国における近代的港湾の修築事業が始まりました。さらに、日清・日露戦争後には、重工業の進展等により産業構造の転換が促され、時代の変化に対応できる港湾の政策的導入が必要とされたことから、内務大臣管轄下の「港湾調査会」による重要港湾の指定を背景に、港湾整備がさらに進められていくこととなりました。
 最後に、空港整備については、明治44年(1911年)に埼玉県所沢に軍用の飛行場が設置されたのがはじまりであり、本格的に空港整備が進められたのは、昭和初期以降になります。
 以上、現在の我々の暮らしを支える社会資本について、明治期当時の整備状況を振り返りました。先人たちのこれまでの努力の恩恵を受けてきた我々は、この恩恵を確かなものとして次世代へ引き継げるよう、今後も社会資本整備を重点的、効果的かつ効率的に進めていく必要があります。
 
図表1-2-3 「明治150年」関連施策ロゴマーク
図表1-2-3 「明治150年」関連施策ロゴマーク

 
図表1-2-4 我が国初の鉄道(汐留駅の様子)
図表1-2-4 我が国初の鉄道(汐留駅の様子)


注 政府では、「明治150年」を迎える平成30年(2018年)を節目として、改めて明治を振り返り、将来につなげていくために、地方公共団体や民間企業とも一緒になって様々な取組みを行っている。


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