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機船南海丸遭難事件

 南海丸(総トン数494トン)が、昭和33年1月26日午後5時30分、旅客139人を載せて小松島を発し、和歌山に向けて航行中、同日午後6時28分ごろ無線電話で危険を知らせる連絡をしたのち消息を絶った。当時付近海上には強風注意報が発令されており、平均風速17ないし20メートル、平均波高4ないし5メートルであったものと推定されたこともあって、直ちに救助体制がとられたが、翌々28日午後4時紀伊水道沼島の南西端から260度2.4海里の水深約40メートルの地点に沈没している船体が発見され、旅客及び乗組員167人全員が死亡又は行方不明となった事件である。
 洞爺丸をはじめとする旅客船の相次ぐ重大海難に、社会の関心は非常に高いものがあり、本件は遭難現場が目撃されずその消息を断ったのでより世間の関心を寄せるところとなった。
 本件については、昭和35年3月8日神戸地方海難審判庁で裁決された。


神戸地方海難審判理事所の調査経過
 神戸地方海難審判理事所では、発生翌々日には徳島市方面、和歌山市方面へとそれぞれ出向き、南海丸の運航や無線電話の状況などを、また、常々紀伊水道で操業している漁船の乗組員等に対しては、紀伊水道付近の気象・海象などについて、更に、1月26日午後7時ころ航行中の南海丸を目撃した他船の乗組員に対しては、その時の南海丸の状況などについて、それぞれ事情聴取を行った。
 今回の南海丸の遭難では乗組員を含め生存者がいないため、理事所の調査は多方面にわたることになり、前述の関係者の外、本船建造時の設計担当者、船舶検査官、気象関係者、潜水士、本船の船長経験者等に事情を聞き、また、南海丸の姉妹船を使っての船体検査や2月10日には水中テレビを使用して南海丸の沈没地点及び同船の船橋、機関室等の検査を行うなど8回の実地検査を重ねた。
 調査は更に引揚げられた南海丸について、「同船の傾斜試験及び動揺試験を施行して同船建造当時の復原性及び動揺周期の算出」鑑定を依頼し、これらの証拠を基に、事件発生から3か月後の昭和33年4月26日審判開始申立を行い、海難原因に係りのある審判関係人の指定は当初行われなかったが、後日、船舶所有者取締役技術部長が指定海難関係人に指定された。

神戸地方海難審判庁の審理経過
 審判開始の申立を受けた神戸地方海難審判庁では、早速、学識経験者である2人の参審員を任命して昭和33年7月30日第1回の審判を開廷し、重ねること15回の開廷を経たが、そのほとんどが証人に対する尋問で33人に対し延べ34回の証人尋問が行われ、第1回審判から1年7か月余後の昭和35年3月8日裁決が言渡された。
 裁決書の要旨は次のとおりである。

裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船南海丸
総トン数 494トン
長さ 46.50メートル

 (関係人の明細)
指定海難関係人 船舶所有者取締役技術部長

 (損 害)
南海丸 船体沈没、 旅客全員139名、 乗組員全員28名死亡又は行方不明

主文
 本件遭難は、その発生原因が明らかでない。

理由
 南海丸は、昭和33年1月26日午後1時54分下り2便として和歌山を発し、ほぼ定刻の同4時23分小松島に入港し、船舶所有者小松島港営業所前に左舷を横付けして次便に備えた。本船は小松島入港前午後4時20分ころ同社和歌山港営業所からの無線電話により、和歌山地方気象台午後4時発表の「低気圧が日本海を通過する見込です、県下全域とも風が強くなります、今夕から強くなり明日もまだ続きます。南西の風後北西の風で陸上の最大は10メートルないし15メートル、海上の最大は15メートルないし20メートルの見込です。」との強風注意報を入手した。また、入港後同5時ころ小松島港営業所から「徳島気象台発表、概況、低気圧が東支那海から対馬海峡の方に進んでいる、この低気圧は今夜対馬海峡を通って山陰沖に進む見込み、今夜は南よりの風強く天気は雨、明日朝は西寄りの風に変る見込み、本日の風は南の風10メートルないし15メートルの見込み、午後5時徳島気象台発表、低気圧が山陰沖を北東に発達しながら進行中、今夜半前から南の風が強くなる明朝頃より西に変り海上15メートルないし20メートルの風がふく」と記入したメモを入手した。しかし、本船は、定期どおり同5時30分上り3便として、旅客139名、郵便物5個、小荷物3個を載せ、船首及び船尾水倉を各満水し、飲料水倉には清水約3トン、燃料油倉には重油約6トンを保有し、和歌山に向け小松島を出港した。当時新港南岸壁附近では風速6、7メートルの南東風が吹いていて、小雨が降ったり止んだりの天候で、入港時の状況と変りはなかった。
 船長は解らんと同時に機関を種々に使用して一旦船尾を港内北北方に振り、その後左回頭して同5時35分港口を通過し、機関を1時間13.5ノットばかりの全速力にかけ、レーダーを発動した。従来本船は、南寄りの風波が強いときは港口通過後和歌山に向け直航する針路をとらないで、沼島の北側をう回する北方航路をとるのを常としていたが、同時40分ころ「沼島まわりをするから和歌山到着は約10分遅れる」旨を無線電話で小松島港営業所に連絡し、同時48分於亀瀬灯標を右舷側近距離に並航後ほぼ沼島の北端に向かう北東4分の3東の針路で進行した。その後本船から何らの連絡もなかったところ、同6時28分ころ突然「南海丸危険」を約20回、続いて「南海丸エス・オー・エス」を約10回無線電話で発信したまま消息を断った。小松島港営業所長は、本船の遭難信号を聞き、「南海丸位置知らせ」を繰り返し発信したが応答がなかったので、直ちに本社及び営業所に連絡するとともに関係方面に救難を依頼した。社船のわか丸は、沼島附近海上一帯を捜索したが南海丸の乗客及び乗組員を発見することができず、その後も捜索が続行され、翌々28日午後4時ころ、沼島南西端から260度2.4海里、水深約40メートル、底質軟泥のところに沈没している南海丸を発見した。
 遭難の結果、旅客139名乗組員28名全部が死亡または行方不明となった。

 本件遭難は、その原因を探究すれば次のとおりである。
 南海丸は、船舶安全法上沿海区域を航行区域とする第3級船の資格の船舶であって、成規の検査に合格しており、同法上何ら違反の事実はなく、船体若しくは機関の構造、材質及び工作、若しくは性能に運航上特に適当でないと認められるものはない。本船の船体、機関又は操舵機等に事故を生じて遭難したものでないことは、遭難後の本船の状態から認め得るのである。
 本船が小松島を出港する前に和歌山及び徳島両地方気象台から強風注意報が発せられているが、それによると当日夕刻若しくは夜半前から本船航路附近に南寄り後西寄りの15ないし20メートルの風が吹くこと及びそれは日本海を通過する低気圧によって生ずることは知り得る内容のものではあるけれども、その低気圧の南南西方、瀬戸内海西部の閉塞点に低気圧が新らたに発生し、その低気圧から東方に温暖前線及び南西方に寒冷前線が延びて、その両前線が通過する間が南方の風が強吹するということは何ら示されていなかった。本船は強風注意報発令下の海域を航行して海上の模様を知って小松島に入港したものであり、注意報の内容が前記のごとく日本海の低気圧によるものであり、新しく発生した低気圧の暖域内の南風が強吹するという状況は知るよしもないのであって、本船が通常の航海を取り止めねばならぬ程の具体的事実はなかった。本船が小松島を発して和歌山に向かうに当り、通常の航路をとらないで沼島の北方を通過する針路をとったことは、当時の海上の模様を考慮してとられたものと考えられる。附近航行中の船舶及び陸上の気象観測資料を総合すれば、本船遭難地点附近において、当時風向南ないし南南東平均風速17ないし20メートル、平均波高4ないし5メートルの風及び波があったことは推定できるが、実際本船が遭難当時如何なる状態の風波にどのように遭遇したか詳らかでない。航行中の船舶が風波による危険があるとき、この危険を避けるため一般的にとる運用の方法としては、自船の大小、構造、強度、耐波性、復原性及び速力等の風波の状況を考慮の上、風波を船首或は船尾方向に受けて、風波との角度又は速力を調節して航行或はちちゅうして転覆、船体及び機関の損傷等の事故を防止するものであるが、南海丸船長が当時発生した危険な風波をどのように認知し、対処したかは明らかにすることができない。即ち当時の危険な風波が予知し得るものであって、注意して適当な運航がなされたが遭難を免かれ得なかったのか、それらが不注意にもなされないため遭難するにいたったのか、或は予知して対処するいとまもなく突如として起った風波が本船の性能を超えて遭難するにいたったのかそれを認定するにつき証拠が十分でなく、従って本件が人の過失によるものか異状な風波によって遭難したものか明らかでない。
 以上述べたところにより、結局本件遭難の発生原因を明らかにすることができない。

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