日本の重大海難のページへ  トップページへ
機船りっちもんど丸機船ときわ丸衝突事件

 貨物船りっちもんど丸(総トン数9,547トン)が、砂糖及び雑貨計約6,600トンを載せて神戸港第三突堤を発し、名古屋に向け航行中、昭和38年2月26日午前1時6分半ころ和田岬灯台から196度4,300メートルばかりの地点において、鳴門、阪神間の定期航路就航中の旅客船ときわ丸(総トン数238トン)と衝突した。
 りっちもんど丸は、同37年5月に進水した新鋭船で同日午前0時30分前示突堤を出港後出港部署を解き、機関用意を解除して約17ノットの全速力で航行中、ときわ丸と衝突の危険を感じ、全速力後進を令したが機関が後進にかからないうち衝突したもので、一方のときわ丸は、建造後26年を経過したレーダーや無線電話を持たない老齢船で、同25日午後8時10分船長ほか11人が乗り組み、旅客54人、雑貨等約100トンを載せ、鳴門港桑島岸壁を発し神戸に向かって航行中に衝突したもので、旅客は船室で仮眠中であった。このため旅客の救助作業は困難を極めた。
 衝突の結果、りっちもんど丸は船首材等に軽微な凹傷を生じたのみであったが、ときわ丸は右舷船尾付近がほとんど切断される状態まで圧壊して衝突後6分ばかりで沈没し、旅客40人及び乗組員7人が死亡し、旅客3人が負傷した。
 ときわ丸は、事件当時利用者の便益をはかって夜間航行をしており、乗客は仮眠中であったため多数の遭難者をだす結果となり、海上交通ラッシュの内海一帯を走る小型客船利用者に大きなショックを与えた。
 本件については、昭和38年8月27日、神戸地方海難審判庁で裁決があったが、これを不服として、理事官及び受審人から第二審の請求があり、翌39年9月24日高等海難審判庁で裁決された。
ときわ丸損傷状況
ときわ丸損傷状況


神戸地方海難審判理事所の調査経過
 神戸地方海難審判理事所は早速調査にとりかかり、事故発生当日の26日には、ときわ丸の船長、甲板員、翌27日には、りっちもんど丸の船長、二等航海士等同船乗組員の事情聴取を行い、その後、3月6日、8日ぶりに引揚げられたときわ丸について、船体検証を行った。また、同理事所は、鳴門市に理事官を派遣して、救助されたときわ丸の乗客数名から、事故当時の模様について事情聴取を行うなどし、これらの証拠を基に理事官は海難関係人として、りっちもんど丸船長、りっちもんど丸二等航海士、ときわ丸船長をそれぞれ受審人、また、ときわ丸甲板員を指定海難関係人に指定するとともに、本件の審判には、参審員の参加を必要と認めるから、これを請求するとして、事件発生からわずか1か月足らずの昭和38年3月23日神戸地方海難審判庁に審判開始の申立を行った。

神戸地方海難審判庁の審理経過
 神戸地方海難審判庁では、参審員の参加を決定して昭和38年4月30日第1回の審判を開廷し、第8回から第12回審判にかけて理事官論告及び各補佐人の弁論が行われて結審となり、申立から5か月後の昭和38年8月27日裁決の言渡が行われた。
 当裁決に対し不服があるとして、理事官、りっちもんど丸船長、ときわ丸船長からそれぞれ第二審の請求が行われた。

高等海難審判庁の審理経過
 高等海難審判庁では、第1回審判を昭和39年2月5日開廷することになったが、参審員の参加はなく5名の審判官による合議体で審判が行われ、その後第2回、第3回審判が開廷されて結審となり、同年9月24日裁決の言渡が行われた。
第二審における裁決の要旨は、次のとおりである。

裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船りっちもんど丸 機船ときわ丸
総トン数 9,547トン 238トン
長さ 151.20メートル 40.45メートル

 (関係人の明細)
受審人 りっちもんど丸船長 りっちもんど丸二等航海士 ときわ丸船長
指定海難関係人 ときわ丸甲板員

 (損 害)
りっちもんど丸 船首材及びこれに接する右舷側外板軽微凹傷
ときわ丸 右舷側船尾圧壊沈没、 旅客40名死亡3名負傷、 乗組員7名死亡


主文
 本件衝突は、主としてりっちもんど丸船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したが、ときわ丸航海士及び船長の運航に関する各職務上の過失もその一因をなすものである。

理由
 りっちもんど丸は、船長及び二等航海士ほか41人が乗り組み、砂糖及び雑貨計6,587トンを積載し、昭和38年2月26日午前0時30分神戸港第三突堤M岸壁を発し、名古屋に向かった。
 船長は、神戸港第一航路防波堤入口のほぼ中央を通過したとき、機関を約14ノットの港内全速力にかけ、針路を友ヶ島水道に向かう207度とするため右舵を令し、出港部署を解いた。
 同0時56分ごろ船長は、機関用意を解除し、やがて予定の針路に向くころ、前路にあたり機附帆船らしい船の紅燈が見えたので、これを避けるため同0時57分ごろいったん210度の針路とし、同紅燈が左舷にかわる見込がついた同1時少し前針路を207度に定め、17ノットばかりの全速力で進行した。
 船長は、船橋中央にあるジャイロレピーターの右側に立って操船の指揮にあたっていたところ、同1時2分ごろ左舷船首約22度1海里半ばかりのところに、一機附帆船の白緑2燈を認め、やがて相手船において本船の進路を避けるものと考え、一方、そのころ二等航海士は、当直につくため昇橋し、ジャイロコンパス、コースレコーダーなどの作動状況を調べ、海図にあたって針路を確かめ、レーダーにより前路に4、5隻の船の映像を認め、別に気にもとめず、見張について続航した。
 同1時4分ごろ右舷船首約30度1,500メートルばかりのところに、ときわ丸が白緑2燈を表示しながら来航しており、両船が原針路のまま続航すれば、互いに右舷を対して無難に航過できる態勢にあったが、船長、二等航海士ともこれに気づかず、船長は、前示機附帆船が避航する気配がないので、同時刻長音1回を鳴らし、右舵を命じたが、二等航海士は、このときはじめて前記機附帆船の燈火に気づいた。
 こうして右舷に回頭を続けているうち、同1時6分ごろ船長は、左舷船首間近かに迫ったときわ丸の白緑2燈をはじめて認め、衝突の危険を感じ、微速力前進、停止、右舵一杯を命じ、短音1回を吹鳴し、ついで全速力後退に令したが、機関が後退にかからないうち、同時6分半和田岬燈台から196度4,300メートルばかりのところにおいて、りっちもんど丸とときわ丸が衝突した。
 また、ときわ丸は、鳴門、阪神間の定期旅客船で、船長ほか11人が乗り組み、旅客54人、雑貨など約100トン及び生豚12籠を載せ、同月25日午後8時10分鳴門港桑島岸壁を発し、神戸に向かった。
 同8時50分ごろ船長は、一等航海士に当直をゆだね、操舵室後方の自室に退いて休息した。同10時30分ごろ航海士は一等航海士から当直を引き継ぎ、船長に報告しないまま、従前の例にならい、北東微北の針路とし、甲板員と10分ないし15分ごとに操舵を交替し、操舵していない者が船橋で見張にあたり、8ノット半ばかりの全速力で進行した。
 翌26日午前1時ごろ右舷船首約1点2.4海里ばかりのところに、りっちもんど丸が白白緑3燈を示して来航しつつあって、同1時5分少し前紅燈をも示すようになったが、見張中の甲板員は、これに気づかず、同1時5分ごろ右舷船首約4点900メートルばかりのところに、りっちもんど丸の白白紅3燈を初めて認め、その旨を航海士に報告した。
 甲板員は、航海士がうなずいたのみで転舵する模様がないので、不安を感じ、かわるかかわるかと同航海士に呼びかけているうち、同1時6分ごろ右舷船首約5点300メートルばかりに相手船が迫り、このままでは衝突の危険があり、かつ、そのとき相手船の短音1回を聞いたが、航海士は、機関も舵も使用することなく、甲板員に対し、投光器を点滅するように命じ、同人が投光器を相手船に向け点滅していたところ、両船急速に接近し、航海士は、左舵を取ったが、前示のとおり衝突した。
 衝突と同時にときわ丸は、左舷に2、30度傾斜し、船尾部が圧壊して機関の運転は止まり、船内の浸水は激しく、午前1時13分ごろ和田岬燈台から196度半4,300メートルばかりのところで、船尾から沈没し、旅客40人と同船の乗組員7人が死亡し、旅客3人が負傷したが、りっちもんど丸は船首材と船首右舷外板を凹傷したのみであった。

 本件衝突は、主としてりっちもんど丸船長が、夜間神戸港沖合を航行中、他船と互いに右舷を対して無難に航過できる態勢にある場合、見張り不十分のため、他船の来航に気づかず、その前路に向け転舵進出し、かつ、衝突により相手船が沈没のおそれがあることを知りながら、これを見失った場合、すみやかにレーダーにより他船のゆくえを追跡看視したり、船位を確認したり、救命焔を投下したりして、救助活動に万全を期すべきであったのに、これを怠り、衝突現場に引き返す措置が当を得なかった同人の運航に関する職務上の過失に因って発生したが、ときわ丸航海士が、衝突の危険が切迫した場合、臨機の措置が緩慢であった同人の運航に関する職務上の過失及びときわ丸船長が船員法による非常配置表を定めず、かつ、操練の実施不十分のため救助措置が適切に行なわれなかった同人の運航に関する職務上の過失もその一因をなすものである。

 ときわ丸のような旅客船にあっては、救命胴衣の格納場所、出口などを示す非常用点燈装置を備え、かつ、夜光塗料によりこれを標示し、また、沈没の際自動的に浮揚して、燈火を示し、電波を発する装置をした浮標を備え、膨脹式救命筏を設備することが望ましい。

日本の重大海難のページへ  トップページへ