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漁船第八優元丸貨物船ノーパルチェリー衝突事件

 本件は、第八優元丸が、かつお一本釣り漁業の目的で金田湾内を発し、伊豆諸島東方沖合を漁場に向けて航行中に、空倉のまま京浜港川崎区を発し、野島埼南東方沖合に向かうノーパル・チェリーが、平成2年6月7日午後1時30分第八優元丸を追い越す態勢で衝突した。
 衝突の結果、ノーパル・チェリーは、球状船首部と左舷船首部に擦過傷を生じたのみであったが、第八優元丸は、衝突と同時に転覆し、船体が前後に二分されて沈没した。
 また、優元丸の乗組員のうち、船長ほか3人は、衝突と同時に海中に投げ出されて重軽傷を負い、衝突当時、各船員室で休息中であったと思われる機関長ほか10人は行方不明となった。
 本件については、平成3年9月19日横浜地方海難審判庁で第一審の裁決があったが、これを不服として、受審人及び補佐人から第二審の請求がなされ、平成4年11月27日高等海難審判庁で裁決された。

横浜地方海難審判理事所の調査経過
 横浜地方海難審判理事所は、事故当日「重大海難事件」に指定し、その後第八優元丸及びノーパル・チェリー乗組員ほか残存船橋の揚収を行った潜水艦救難母艦艦長に事情聴取し、第八優元丸の残存船橋及びノーパル・チェリー等の実地検査を行って、理事官は、第八優元丸船長を受審人に、第八優元丸操舵手を指定海難関係人に指定して、平成2年9月28日横浜地方海難審判庁に対して審判開始の申立を行った。
第八優元丸の残存船橋実地検査模様 錨泊中のノーバルチェリー
第八優元丸の残存船橋実地検査模様 錨泊中のノーパルチェリー

横浜地方海難審判庁の審理経過
 横浜地方海難審判庁は、3回の審判をもって結審し、平成3年9月19日裁決言渡を行ったが、受審人及び補佐人は、当裁決に対し不服があるとして、高等海難審判庁に対して第二審の請求を行った。

高等海難審判庁の審理経過
 高等海難審判庁では、第1回審判を平成4年5月22日開廷し、1回の審理を経て、平成4年11月27日裁決の言渡しが行われた。
 裁決の要旨は、次のとおりである。

裁決
(船舶の要目)
船種船名 漁船第八優元丸 貨物船ノーパル・チェリー
総トン数 59トン 10,986トン
機関の種類 ディーゼル機関 ディーゼル機関
出力 350馬力 5,884キロワット

(関係人の明細)
受審人 第八優元丸船長
指定海難関係人 第八優元丸操舵手

(損害)
第八優元丸 船体は転覆の後、沈没、乗組員のうち11人が行方不明、4人が重軽傷
ノーパル・チェリー 船首球状部と左舷船首部に擦過傷

主文
 本件衝突は、第八優元丸を追い越すノーパル・チェリーが、見張り不十分で、その進路を避けなかったことに因って発生したが、第八優元丸が、見張り不十分で、警告信号を行わず、衝突を避けるための協力動作をとらなかったこともその一因をなすものである。
 
理由
(事実)
 第八優元丸(以下「優元丸」という。)は、船長及び操舵手ほか13人が乗り組み、かつお一本釣り漁業の目的で、船首1.60メートル船尾2.80メートルの喫水をもって、平成2年6月7日午前7時金田湾内北下浦のえさ場を発し、八丈島東方沖合の漁場に向かった。
 優元丸船長は、発航後間もなく、漁労長から目的地が八丈島東南東方約150海里の地点にあたる北緯32度東経142度30分の漁場であることを告げられ、自ら運航の指揮に当たって東京湾を南下し、同8時40分ごろ野島埼灯台から南87度西(磁針方位、以下360度分法によるものは真方位、その他は磁針方位である。)7海里ばかりの地点に達したとき、船橋当直を操舵手に任せることとしたが、外洋においては後方から接近する船舶が避航するものと思い、操舵室外の左右舷甲板に出て後方の見張りをするなど、周囲の見張りについてなんらの指示を与えることなく、同灯台に並航したあたりで針路をほぼ目的地に向く南40度東に定めるよう告げたのみで、操舵室後方の自室に退いて休息した。
 同9時ごろ野島埼灯台から南59度西6.5海里ばかりの地点に達したとき、操舵手は、船長の指示どおり、針路を南40度東に定めて自動操舵とし、機関を約10ノットの全速力前進にかけ、折からの東南東方に流れる海流に乗じ、1度ばかり左方に圧流されながら、約10.8ノットの航力で進行し、同時10分ごろ船橋当直を次直の漁労長と交替したが、船長から見張りについてなんらの指示も与えられていなかったことから、針路を引き継いだのみで上甲板下の船員室に退いて休息した。
 漁労長は、単独で船橋当直に当たり、同一の針路、速力で続航中、同11時ごろ船位を測定したところ、予定針路線より半海里ばかり左方に偏位しているのを認めたので、同時30分ごろ北緯34度31.5分東経140度10分の地点で、自動操舵のまま針路を南30度東に転じ、その後も1度ばかり左方に圧流されながら続航し、同日午後0時ごろ北緯34度27分東経140度15分の正午位置を航海日誌に記入し、船橋当直を次直の操舵手に引き継いだが、船長の指示がなかったことから、針路を告げたのみで操舵室後方の自室に退いた。
 操舵手は、単独で船橋当直に従事し、操舵室前部の台板上に上がり、操舵スタンドと左舷側レーダーの間に位置して、同台板上にあぐらをかいた姿勢で前路の見張りに当たり、約11.2ノットの航力で進行するうち、左方に圧流されているのを知り、同0時30分ごろ北緯34度22.5分東経140度19分の地点で、自動操舵のまま針路を南25度東に転じ、左方へ3度半ばかり圧流されながら同航力で続航した。
 その後操舵手は、操舵室外の左右舷甲板に出て後方を見回すなど、後方の見張りをすることなく進行中、同1時ごろロランCにより北緯34度18分東経140度23分の船位を得て、針路を南30度東に復し、これらを航海日誌に記入したのち、操舵室前面の窓から魚倉を見回したところ、2、3匹の死魚を見付けたので取り除くこととし、同時2分ごろ操舵室左舷側後方の出入口を出てこれに続く階段から船首方の左舷側上甲板に赴き、死魚を取り除くとともに各魚倉内の生きいわしの状況を点検し、同時5分ごろ逆経路を通って昇橋した。
 操舵手は、昇降の際も昇橋後も後方を見回すことなく再び降橋前の位置に戻り、あぐらをかいた姿勢で前路の見張りに当たったところ、同1時6分ごろ右舷正横後約4点2海里ばかりにノーパル・チェリー(以下「ノーパル号」という。)を視認し得る状況となり、その後同船が自船を追い越す態勢で接近したが、依然後方の見張りが不十分で、これに気付かず、同船に対して警告信号を行うことも、間近に接近したとき機関を停止するなど衝突を避けるための協力動作をとることもないまま続航中、同1時30分北緯34度13.5分東経140度27分の地点において、原針路、全速力のままの優元丸の右舷船尾部に、ノーパル号の船首が、後方から約14度の角度で衝突した。
 当時、天候は晴で風力1の東南東風が吹き、視界は良好で、衝突地点付近には南東方に向かう微弱な海流があった。
 船長は、自室で休息中、衝突の衝撃で目覚めたが、瞬時に海中に投げ出された。
 また、ノーパル号は、船長ほか20人が乗り組み、石炭揚荷後の船倉清掃の目的で、空倉のまま、船首2.79メートル船尾4.59メートルの喫水をもって、同日午前6時31分京浜港川崎区の岸壁を発し、野島埼南東方沖合に向かった。
 船長は、自ら運航の指揮に当たって東京湾を南下し、同10時30分ごろ野島埼灯台から209度13.8海里ばかりの地点で、針路を130度に定めて自動操舵とし、機関を約14ノットの全速力前進にかけ、折からの東南東方に流れる海流に乗じ、半度ばかり左方に圧流されながら、約14.9ノットの航力で進行し、間もなく船橋当直を三等航海士に任せ、自室に退いて休息した。
 同日午後0時ごろ二等航海士は、北緯34度27.5分東経140度6.2分の地点において、三等航海士から130度の針路で船橋当直を引き継いだが、視界も良く海上も平穏であったことから、副直の操舵手を船倉内の清掃作業に従事させ、単独で船橋当直に当たっていたところ、同時30分ごろ昇橋した船長から、翌朝7時ごろ浦賀水道航路南方の水先人乗船地点に戻るための折返し地点を計算して報告するよう指示を受け、同時35分ごろレーダーで船位を求め、操舵室左舷側後部にある海図台の後方に立ち、前方に向いた姿勢で折返し地点の計算に取りかかった。
 二等航海士は、その後同計算に気をとられ、前路の見張りを行わないまま続航中、同1時6分ごろ左舷船首約3点2海里ばかりのところに優元丸を視認し得る状況となり、その後同船を追い越す態勢で接近したが、これに気付かず、同船を確実に追い越し、かつ、十分に遠ざかるまで、その進路を避けることなく進行した。
 同1時29分半ごろ二等航海士は、計算を終え、操舵室前面に出て前方を見回したが、このころすでに優元丸が自船の船首から60メートルばかりまで接近し、船首死角に入っており、同船を視認することができないまま再び海図台に戻ろうとしたところ、船長が再度昇橋してきたので、同船長に対し、海図台付近で折返し地点の計算結果を報告中、突然衝突の衝撃を感じ、同船長が急いで機関用意に続いて停止を令したが、原針路、全速力のまま、前示のとおり衝突した。
 衝突の結果、ノーパル号は、球状船首部と左舷船首部に擦過傷を生じたのみであったが、優元丸は、衝突と同時に左舷側に傾斜して転覆し、船体が前後に二分されて船橋部を除く船体後部は瞬時に沈没し、船体前部は船首部を上に向けた状態で暫時浮上していたものの、間もなく衝突地点付近で沈没し、船橋部のみが付近海域を浮流した。
 優元丸の乗組員のうち、船長、漁労長、操舵手及び操舵室内で漁具の補修作業をしていた操舵手の4人は、衝突と同時にいずれも海中に投げ出され、浮流している船橋部につかまって救助を待っていたところ、引き返してきたノーパル号によって同2時ごろ救助された。
 船長は、衝突時の衝撃で頭蓋底骨折等の重傷を負い、来援した海上保安庁のヘリコプターで病院に移送され、残る3人は、同8時ごろ巡視船に移乗したが、漁労長が腰部、下肢等の打撲を、操舵手のうち1人が胸部打撲を、1人が両膝打撲、挫創などの傷を負い、のちそれぞれ病院において治療を受けた。
 一方、衝突当時上甲板上下の各船員室で休息中であったと思われる機関長、甲板長、操機長、操舵手、甲板員4人、機関員2人及び事務員は、巡視船延べ34隻、海上保安庁の航空機延べ22機、漁船延べ60隻及び自衛艦1隻による6日間にわたる付近海域の捜索によっても発見されず、いずれも行方不明となり、のち死亡と認定された。
 また、付近海域に浮流していた優元丸の船橋部は、潜水艦救難母艦によって同5時40分ごろ揚収され、横須賀港に揚陸された。

 (原因)
 本件衝突は、伊豆諸島東方沖合において、第八優元丸を追い越すノーパル・チェリーが、見張り不十分で、第八優元丸の進路を避けなかったことに因って発生したが、第八優元丸が、後方の見張りが不十分で、ノーパル・チェリーに対して警告信号を行わず、同船が間近に迫ったとき機関を停止するなど衝突を避けるための協力動作をとらなかったこともその一因をなすものである。
 第八優元丸の運航が適切でなかったのは、船長が無資格の船橋当直者に対し、周囲の見張りについて指示を与えなかったことと、船橋当直者が後方の見張りを行わなかったこととによるものである。

 (受審人等の所為)
 第八優元丸船長が、伊豆諸島東方沖合を航行中、無資格者に船橋当直を行わせる場合、船橋当直者に対し、後方から接近するノーパル・チェリーを見落とさないよう、操舵室外の左右舷甲板に出るなどして、周囲の見張りを行うよう指示すべき注意義務があったのに、これを怠り、外洋においては後方から接近する船舶が避航するものと思い、周囲の見張りについて指示を与えなかったことは職務上の過失である。
 第八優元丸操舵手が、単独で船橋当直中、後方の見張りを行わなかったことは本件発生の原因となる。
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