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吉川 真嗣(きっかわ しんじ)

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最終更新日:2010年4月12日

味匠喜っ川 専務取締役(新潟県村上市)
吉川 真嗣(きっかわ しんじ)

主な経歴

1964年
新潟県村上市に生まれる
1988年
早稲田大学商学部卒業後、商社に勤務
1990年
村上に戻り家業である「味匠 喜っ川」に勤務
1998年
村上町屋商人会会長に就任
2002年
チーム黒塀プロジェクトを設立
2004年
むらかみ町屋再生プロジェクト会長に就任

カリスマ名称

「光かがやく町屋再興カリスマ」

選定理由

城下町・村上に残る昔ながらの町屋を舞台に、生活空間である「町屋の中の公開」をはじめ「町屋の人形さま巡り」「町屋の屏風まつり」の企画や、景観の再生に取り組み、町屋の歴史的価値と魅力を全国に広め、多くの観光客が訪れるなど村上の活性化に貢献した。  

具体的な取り組みの内容

村上市は新潟県の北部に位置する人口3万1千ほどの小さなまちである。県下で最も古い城下町であり、全国的にも貴重な城跡や武家屋敷、町屋、寺町の面影が今なお残る。
中でも旧町人町と呼ばれる中心市街地は、かつて村上の商業の中心だった地域で、現在は商店街を形成しているが、昔ながらの町屋が数多く残されている。

序章

以前から観光文化都市を謳う村上市であったが、主な観光地は、武家屋敷や郷土資料館(おしゃぎり会館)などの施設や、郊外の瀬波温泉などのスポット的なものにとどまっていた。80~90年代にかけ郊外型の大型店が進出し、中心市街地の商店街を訪れる地元の人々も減少していった結果、村上の中心市街地は、地方の都市によく見られるような寂れた商店街になってしまっていた。

村上の商店街が活気を失っていた1997年頃、商店街の道路拡幅などを含む近代化計画が持ち上がった。商店街の商店主たちは、大型店に対抗するための商店街再生の起爆剤としてこの事業を当初は歓迎していた。
 

出会い、そして決断

村上は古くから鮭のまちとして知られ、百種類もの鮭料理が伝承されており、特色ある食文化が残されている。その村上の中心市街地の商店街に、伝統的な鮭の加工品である塩引鮭などを製造・販売する店「味匠喜っ川」がある。その次男である吉川真嗣氏は、大学を卒業したのち商社マンとして東京で働いていたが、1990年に実家の店の跡取りとして村上に戻ることとなった。

村上に戻った吉川氏が、東京のある百貨店の催し会場で自らの店の商品を並べて出店した時、吉川氏に声を掛けてきた男性がいた。それが、全国町並み保存連盟会長(当時)の五十嵐大祐氏であった。五十嵐氏は会津若松で菓子屋を営んでおり、同じ百貨店の催しに出店していたのだった。その時吉川氏は、村上の中心市街地の商店街で、道路拡幅などの近代化計画が進みつつあることを話したところ、それを聞いた五十嵐氏はこう語った。

「村上がすばらしいのは城下町を構成する武家町と町人町の両方が残っているからだ。この一方の町人町を近代化すれば城下町としての価値を著しく失うことになる。商店街にとっても道路を拡幅して栄えたまちは全国どこにもない。ただ車が通り過ぎるだけとなり、それまで一体だった商店街も、拡幅された道路で分断され、賑わいが無くなり衰退してしまう。まちを近代化してしまっては取り返しがつかないことになる。あなたがそれを止めさせなさい。」

五十嵐氏のこの話に大きな衝撃を受けた吉川氏はその夜、近代化計画に期待する商店街の人々の想いと、五十嵐氏のはざまで揺れ動いた。「計画をこのまま進めれば、取り返しがつかない。」 そう考えた吉川氏は悩み抜いた末、「道路拡幅による商店街の近代化計画をなんとかしてとめよう。そして近代化ではない、それ以外の方法で何とか村上のまちを活性化させよう。」 と決心したのだった。

吉川氏はまず「道路を拡幅して栄えた商店街はない。」と言う五十嵐氏の言葉を、実際に自分の目で確かめるべく、仕事の合間を縫って全国のまちを見てまわることにした。それは同時に村上のまちの活性化に向けたヒントを探すことでもあった。
 

「反対運動」から「意識変革」へ

吉川氏が全国のまちを見てまわる中で導き出した答えは、「道路の拡幅による衰退」ということであった。一方で、歴史的な街並みなどを活かしたまちづくりで成功しているまちがあることも知った。
道路を拡幅して活性化した商店街はないという事実を改めて確認した吉川氏は、とにかく近代化計画を止めなければとの想いから、近代化反対の署名活動を始めた。しかし吉川氏のこの行動は、村上のまちに思わぬ波紋を投げかけた。近代化推進は商店街の意向であったが、商店街にいながら商店街の活動は何もしていなかった吉川氏の突然の行動に、厳しい非難の目が向けられた。噂はまち中に広まり、この反対運動はすぐさま潰れてしまったのである。

吉川氏は、この時の失敗をきっかけに方針を改めた。「単に古い町を残しても死んだようなまちでは意味がない。反対運動という否定的なやり方ではなく、実際に町屋など歴史あるものを活かしてまちを活性化することにより、人々に村上の持つ価値を示し、村上の進むべき方向を変えていこう。」と決意を新たにしたのである。

日常に埋もれた財産の発見

しかし、歴史あるものに対する人々の価値観を変えるといっても、町屋の魅力とは一体どこにあるのだろうか。日頃なにげなく目にしているものや、毎日生活している場所の良さというものはなかなか見えにくい。吉川氏の店も昔ながらの町屋の建物であるが、村上の人々にとって、町屋とは寒くて暮らしづらい単なる古い家に過ぎなかった。

現在残されている町屋は、その表通りに面した部分はアーケードやアルミサッシなどによって近代化されており、一見しただけでは伝統あるつくりの建築物に見えないものがほとんどである。

典型的な町屋のつくりは、うなぎの寝床のように間口は狭いが奥行が長く50~70メートルほどある。通りに面した部分は店舗の空間になっており、店舗部分から奥にはずっと「通り土間」という廊下のような土間がのびている。店舗部分のすぐ奥は、上がりかまちと自在鈎のさがった囲炉裏のある茶の間で、茶の間の上は吹き抜けになっている。

ある時吉川氏は、遠方から店を訪れた旅の客を、特別に奥まで通したことがあった。その客の町屋への反応は吉川氏の予想しないものだった。客は茶の間の上がりかまちに腰を下ろして、町屋の内部を見て驚いて言った。 「すばらしい、こんな家に住めるなんて羨ましい。」この時吉川氏の心にひらめくものがあった。「これだ。この町屋の中こそが村上のシンボルであり財産だ。」


これを契機として吉川氏は、村上の町屋に光をあて、町屋を軸にしたまちの活性化にむけた取組みを始めるのである。
 

町屋に光をあてる取組み

吉川氏は町屋に光をあてるべく、店を訪れた客を店の一歩奥の生活空間である茶の間まで通して、町屋の中を見せるという取組みを思いついたのだった。吉川氏は一人で、商店を営む町屋を一軒一軒訪ね、この取組みに参加してくれないかとお願いしてまわった。外観からではわからない「町屋の中の公開」を依頼したのである。この吉川氏の熱心な呼び掛けに22の店舗が応じ、吉川氏が会長となって1998年7月、「村上町屋商人会」が発足した。これが吉川氏がたった一人から始めたまちの活性化の第一歩だった。
「町屋の中の公開」を開始(平成10年より)
「町屋の中の公開」を開始(平成10年より)
商人会の活動は、町屋の中を見せること、それだけのこととして始まった。吉川氏はこの活動のアピールのため、自身の手で「村上絵図」を作成した。この「絵図」は、行政がつくる観光施設中心の案内図とは違い、まちの中を歩き、実際に町屋のなかを見学できる店舗を紹介した手作りマップである。ハコモノの施設だけを車でまわるというのではなく、村上のまちを実際に歩き、そして村上の財産である町屋の中を見てもらいたい、という吉川氏の想いがこもった暖かみのある絵図となった。

この商人会の取組みは、人が住まない保存されただけの無味乾燥な建物を見るというのではなく、人々の生活が息づく生きた町屋を見せるという「本物感」がうけて、訪れた人々にたいへんな評判となった。新聞・雑誌などのメディアもこの取組みを取り上げ、徐々にその評判は広がっていった。商人会の取組みが始まって一年もすると絵図を手に村上のまちを歩く人たちの姿が見られるようになったのである。

こうして町屋の内部に光が当たり始めた。それは村上の人たちの町屋に対する価値観が、変わり始めた瞬間でもあった。しかし、吉川氏はこれだけでは満足していなかった。さらに町屋に光をあてる手段を考えていたのである。
手作りマップ「村上絵図」を作成し町屋を紹介(平成10年より)
手作りマップ「村上絵図」を作成し
町屋を紹介(平成10年より)

「町屋の人形さま巡り」

吉川氏は、全国のまちを見てまわった中で、ひな人形を蔵に展示したところ人が大勢集まったところがあったことを思い出した。吉川氏はこれにヒントを得、村上の町屋にひな人形を飾り、訪れた人々に無料で見てもらうことを思いついたのである。歴史ある城下町である村上の家々には江戸期など古い立派なひな人形が数多く残されている。そのひな人形を店先ではなく、その一つ奥の茶の間に飾ることによって、訪れた人々に人形とともに町屋の中も見てもらおうというのである。これであれば今すでにある人形を飾ってもらえばよく、新たな資金も要しない。

吉川氏はまた自らの企画を説明しながら、一軒一軒人形を出してくれる店を訪ねてまわった。そうして何軒もの店を訪ねるうち、村上のまちには市松人形や武者人形、大黒様や布袋様の人形など、ひな人形以外の人形も数多くあることがわかり、参加できる店舗も増えるなど利点も多いと考え、展示をいろいろな人形にも広げることにした。最終的には一人で100軒近くをまわり、うち60軒がこの取組みに賛同してくれたのである。

吉川氏はこの町屋で人形を飾るイベントを「城下町村上町屋の人形さま巡り」と銘打ち、開催期間は2000年3月1日から旧暦のひな祭りにあたる4月3日までとした。

このころにはまちの名士といわれる有力者も、吉川氏の村上のまちに対する情熱とひたむきさを理解し、吉川氏の取組みを陰から支えてくれるようになり商人会の後見役のようになってくれていた。また商人会の中でも、元銀行員が会計を担当したり、人形さま巡りのマップやポスターの作成では、絵の得意な吉川氏がマップを担当し、染物屋の若女将がポスターの切り絵を担当したりと、商人会メンバーのそれぞれが得意分野を活かした役割を果たすという協力体制が出来上がっていた。村上のまちで吉川氏を中心とした商人会のネットワークが広がりを見せていたのである。

また、吉川氏は、このイベントを番組で取り上げてくれるようにと、一年がかりでテレビ局に何度も赴くなど精力的に広報活動を行ったところ、マスコミでも大々的に紹介された。
このような地道な活動も奏功し、第1回の人形さま巡りの期間中には全国各地から村上の人口に匹敵する3万人もの観光客が訪れた。参加店では展示している人形についていきいきと説明するお年寄りの活躍も話題となった。

また、伝統の鮭料理や地酒など特色ある食文化が残る村上に数多くある町屋の料亭も、それまではなかった伝統の食文化を活かしたランチメニューを新たにつくるなどの戦略を展開することによって、訪れた観光客のニーズをつかみ、このイベントとうまく結びついて集客に成功をしたのである。こういったものを含めた「町屋の人形さま巡り」による経済効果は1億円以上ともいわれている。一方、これにかけた費用は、マップとポスター代のたった35万円だった。
「町屋の人形さま巡り」を開始(平成12年より)
「町屋の人形さま巡り」を開始(平成12年より)
一ヶ月の間全国より大勢の人が訪れ、
春を告げる村上の風物詩として定着
そうして「町屋の人形さま巡り」は大成功のうちに幕を閉じた。この成功によって参加店の人々、さらには村上の人々の中には、村上にこれほど多くの人が来るだけの魅力があるという認識と、村上に対する誇りがうまれたのである。このことは祭りの成功以上に大きな成功であった。
人形さま巡りは、その翌年の2001年にも第2回が開催され、前回の約2倍にあたる5万人が訪れるほどの村上を代表するイベントとなった。
第2回の人形さま巡りが成功を収めた頃、吉川氏は新たなる町屋を活かした催しができないかと思案をめぐらせていた。それが秋に行われる「屏風まつり」であった。これもお蔵入りになってしまった古い屏風や道具類を町屋の茶の間に飾ってもらい、訪れた人々に見てもらうというものである。
その秋に行われた「町屋の屏風まつり」は、人形さま巡りほどの人出ではないだろうという事前の予想を覆し、人形さま巡りを上回る人出となったのである。
「町屋の屏風まつり」を開始(平成13年より)
「町屋の屏風まつり」を開始(平成13年より)
春の「人形」に対して秋の「屏風」、
こちらもすっかり秋の風物詩として定着
吉川氏は、いずれの催しにおいても、城下町・村上の家々に眠っていた宝を掘り起こすことによって、費用もかけずに、また行政にも頼ることなく村上に多くの人々を呼ぶことに成功した。またそれによって村上に大きな経済効果をもたらし、まちの活性化に大きく貢献したのである。いずれの催しも以降毎年開催されており、現在では10万を超える人出となっている。そして村上の名は、県内はもとより全国的に知られるようになってきたのである。

周囲との連携

このような村上のまちの動きの中、2001年に村上駅長に赴任したのがJR東日本の平原悟氏である。平原氏は、新任地である村上で「人形さま巡り」など吉川氏を中心としたまち全体を挙げた取組みを知り、強い感銘を受けたという。

そんな平原氏は、村上で営まれる昔ながらの町屋での生活に触れ、「村上には旅の原点がある。そんな村上にはきっとSLが似合う。」と感じ、第3回の「人形さま巡り」に合わせてSLを運行するというアイデアを思いついたのである。平原氏は、いわく「惚れた弱み」で、JRへの働きかけを行い、SLが通る市町村からの分担金はゼロという異例の条件でそのアイデアを実現させ、2002年の第3回「人形さま巡り」のオープニングに合わせて「SL村上ひな街道号」を運行させるに至ったのである。これをきっかけに平原氏の吉川氏達との連携は一層強まっている。

また、村上の中心市街地から車で10分ほどの日本海に面したところに瀬波温泉がある。村上の観光の中心であった瀬波温泉であるが、町屋のある中心市街地が新たに注目を集め始めたことによって、「泊・食分離」を行って料亭が多く残る中心市街地との役割分担を行ったり、旅館やホテルに町屋案内の「村上絵図」を置いたりするなど、町屋の観光と連携した活性化策に取り組み始めている。
周囲とのこのような連携も、村上のまちの活性化の大きな支えとなっているのである。

景観の再生

人々の町屋に対する意識が芽生えてきたことを感じた吉川氏は、次に村上の景観の再生に取り組んだ。アーケードやアルミサッシなどによって近代化されて魅力を欠いてしまった村上の街並みに必要なのは歴史的景観の再生だと考えたからである。このため吉川氏は、二つの新しいプロジェクトチームを結成した。
その一つが2002年から始めた「黒塀プロジェクト」である。ブロック積みになってしまった塀を、かつての黒塀に戻そうという取組みである。これはブロック塀の上に黒く塗った板を張り付け、黒塀に変えてしまうというものだ。これにも行政の力を借りることなく、黒塀一枚千円運動を展開し、市民から寄付を集めた。黒塀の製作は子どもから大人まで有志が自ら大工仕事をするなど、完全な市民活動として行っている。これまでに約150メートルの黒塀が完成している。
「黒塀プロジェクト」開始(平成14年より)
「黒塀プロジェクト」開始(平成14年より)
平成16年現在150mの黒塀が完成
この黒塀を活かした新たな取組みとして、2002年の秋に「宵の竹灯籠まつり」が行われた。これは黒塀を背景に、斜めに切った竹の中にろうそくを灯した竹灯籠を並べ、その灯りの誘導で小路を回遊してもらおうというものである。

回遊ルートの中にはお寺や料亭を組み込み、それらの場所で雅楽や三味線、琴やピアノなどの演奏会を催した。その演奏はほとんど地元村上の人たちが無償で行い、竹灯籠の準備も多くの市民が無償で行った。吉川氏が始めた村上の活性化への取組みの輪は、こうして多くの市民に広がっていたのである。この歴史的景観と光と音が一体となった催しには2日間で約4千人が訪れた。
「宵の竹灯篭まつり」を開催(平成14年より)
「宵の竹灯篭まつり」を開催(平成14年より)
4000本の竹灯篭に灯りがともる
幻想的な光と音の芸術祭として定着
吉川氏はさらに新たな取組みとして、2004年に「町屋の外観再生プロジェクト」を立ち上げた。これは市民が10年計画で1億円の町屋再生基金をつくり、アーケードやアルミサッシで近代化されてしまった町屋の外観を、昔ながらの格子や板戸に戻そうというものである。

この取組みは、歴史ある景観をただ保存するのではなく、新たにつくり出し、さらにはかつてその名を馳せた「村上大工」の伝統的技術の伝承・復活まで視野に入れたものである。まさに動き出したばかりのこのプロジェクトがまちをどこまで再生できるか、今後の成果に期待が寄せられている。
「町屋の外観再生プロジェクト」(平成16年より)
「町屋の外観再生プロジェクト」(平成16年より)
10年計画で市民基金を設立し、
外観再生に補助金を出し市民の力で
村上の景観を整えていく取組み
(左:改修前、右:改修後)

おわりに

村上に戻った当初、吉川氏は商店街の寄合などでは隅に座り、発言することなど殆ど無かったのだという。しかし今や吉川氏は、活性化に向けて走り出した村上のリーダーとして押しも押されもせぬ存在となっている。その吉川氏は、
「まちを良くしようと思えば、まずは市民こそが行動すべきである。何かしなければと思いついた時、自分以外の『他の誰か』がそれを言い出してくれるのを待っていても『他の誰か』は現れてはくれない。思いついた本人が自ら行動をおこさなくてはならない。『人形さま巡り』や『屏風まつり』は一定の成果を挙げることができた。肝心なのはこれからだ。今後は景観形成こそやってのけなければならない挑戦だ。」
と言う。
吉川氏の村上の活性化に向けた取組みは歩みを止めることなくまだまだ続いていく。
このような吉川氏の卓越した企画力や行動力、そして何よりも熱意が、城下町・村上の多くの人々の「心意気」を味方につけ、かつて吉川氏がたった一人で始めた村上の活性化に向けた活動は、村上全体の大きなムーブメントとなって、まちを輝かせているのである。

参考資料

・村上市の活性化への挑戦〔吉川美貴 BSN新潟放送ドキュメント賞〕
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