最終更新日:2010年4月12日
一般社団法人飛騨・高山コンベンション協会会長
高山商工会議所会頭
主な経歴
1932年 |
岐阜県高山市生まれ |
1951年 |
岐阜県立斐太高等学校在学中父死亡につき家業を継ぐ |
1953年 |
家業を「(株)みの谷」とし代表取締役に就任 |
1964年 |
高山青年会議所第9代理事長 |
1967年 |
高山市議会議員(一期) |
1970年 |
高山商工会議所議員 |
1971年 |
高山青年会議所第16代理事長 高山市教育委員(~1975) |
1972年 |
(社)日本青年会議所岐阜ブロック協議会会長 |
1982年 |
(社)飛騨高山観光協会会長 現在に至る |
1997年 |
(株)飛騨高山テレ・エフエム代表取締役社長 現在に至る |
1998年 |
高山商工会議所会頭 現在に至る |
カリスマ名称
選定理由
地域経済における観光産業の重要性に着目し、住民の参画意識を持った観光事業の推進に努め、飛騨高山観光協会の会長に就任し官主導の組織から民主導となる地域密着型の観光協会の運営に改め、社団法人化による民間主導の観光協会を実現させた上で、観光魅力を継続・維持・発展させる取り組みに努めている。
具体的な取り組みの内容
飛騨高山は、従前から「飛騨の小京都」と称され、観光産業の盛んな地であった。1934(昭和9)年の高山本線の全線開通によりアクセスの改善がされ、さらに戦後世相の落ちついた1960年代以降、多くの観光客が訪れるようになり、1970(昭和45)年には当時の国鉄が企画した「ディスカバージャパン」キャンペーンのブームに乗って、観光客数は年間100万人を超えた。さらに1976(昭和51)年には205万人と初めて年間200万人を突破、1980(昭和55)年にも再度年間200万人を超えるまでに至った。

飛騨高山 古い町並み

春の高山祭
こうした状況の下、いつの間にか観光客は放っておいても自然に増えるという慢心が関係者の間に拡がっていた。そうした中、1981(昭和56)年の大豪雪 (いわゆる「56豪雪」)によって、観光客数が前年比で15%減の170万人にまで落ち込むという厳しい現実が突きつけられた。関係者は、慢心を悔いるとともに、改めて観光産業が高山の地域経済に与える影響の大きさを再認識したのである。
官主導から民主導へ

官主導から民主導へ
この「56豪雪」による観光客の激減により、高山における観光産業の影響力の大きさを再認識した蓑谷氏は、観光が地域経済に活力を与えるということを突き詰めれば、観光協会の運営を行政主導から、自由な発想の民間主導に移行することが必要と考えた。
そこで、任意団体に過ぎなかった観光協会の社団法人化に向けて運動を開始し、15名の発起人の筆頭として「民間活力をより引き出し、官民一体となった強力な観光事業を推進し、また、任意の団体から脱却し法人化することによる対外的な信用性の確保を得る組織づくり」の実現に奔走した。その結果、翌1982(昭和57)年、社団法人飛騨高山観光協会が発足、その会長として就任した。
以後20余年を経て今日に至るまで会長の職にあり、行政の枠に囚われないその強いリーダーシップの下、常に時代を先取りした企画、情報発信、誘客事業などを積極的に展開している。
昭和57年、社団法人飛騨高山観光協会が発足
観光を通じたもてなしの心と、やすらぎの空間づくり、継続的な発展へ
蓑谷氏は、地域における観光関連業者や市民の意識の啓発に努め、奇をてらうことなく、飛騨地域に存在する美しい自然や長い歴史に育まれた伝統・文化を守りつつ、やすらぎと感性豊かな地域づくりを目指した取組みを、常に官民一体となって進める努力をしている。
特に平成のバブル崩壊以降、我が国の経済構造の変化、今後訪れる我が国の少子高齢化等に伴い交流人口の低下が懸念されるなど、観光産業を取り巻く状況はいっそう厳しいものとなってきた。全国各地でテーマパークの衰退など国内観光の停滞も見られることから、観光を基幹産業とする「高山」も安泰という時代ではなくなってきた。
蓑谷氏は、現在まで続く「我楽多市(5月から10月の7日に実施)」や「飛騨高山陣屋前夜市(8月の旧盆の時期に陣屋前で開催)」、「ギャラリーのまち飛騨高山(市民等による絵画などを商店に掲示し販売も行う)」、「飛騨高山観光大学(夏の時期に2~3日集中開催)」など、町並みを知ってもらう、観光客にも参加してもらうといったイベント等の事業を立ち上げてきた。

飛騨高山観光大学

平成9年、長野県と飛騨地域を直接結ぶ
「安房トンネル」の開通

北海道での誘客キャンペーン
この状況を千載一遇のチャンスと捉えた蓑谷氏は、観光客誘致キャンペーンの推進のため、JR各社の協力を得て関東・関西地区の主要駅や友好都市である神奈川県平塚市での誘客キャンペーンに奔走した。
また、日本航空・日本エアシステムの協力を得て北海道・東北・九州地区の主要都市での誘客キャンペーンに出向き、自ら率先してPR活動に努めた。
また、高山市のノベルティーであるオリジナルの夏の「うちわ」と冬の「タオル」を発案したのも蓑谷氏である。
こうした蓑谷氏の取組みなどにより、高山市の観光入り込み客数は堅実な伸びを示し続けており、1989(平成元)年には200万人台を回復し、2001(平成13)年には初めて300万人台に達した。2002(平成14)年の観光入り込み客数は320万人を数えている。蓑谷氏が主導して年間150を超える継続的なイベント・事業が行われていることが、高山市が持続的に観光客数を伸ばし続けている大きな要素である。
世界文化遺産都市を目指して

「飛騨高山の旧城下町を世界文化遺産に!
次の、次の世代のために」を提言した
平成13年1月1日付社団法人飛騨高山観光協会会報
さらに蓑谷氏は、地域における啓発活動にも目を向け、観光産業を衰退させることなく次の世代に引き継ぐべく、2001(平成13)年の年頭に、提言「飛騨高山の旧城下町を世界文化遺産に! 次の、次の世代のために」を起草した。これを具体化するために、同年5月には観光都市高山の原点である古い町並みに代表される川東地区など旧城下町地区の3,40歳代の次世代を担う若手も交えた40人による、「飛騨高山伝承空間まちづくり推進委員会」を発足させ、自ら会長として就任した。
委員会においては、近い将来訪れる少子高齢化による交流人口の減少による観光客の減少をくい止めるためには、世界文化遺産の指定を受けることが観光都市高山の生き残る道であるとして、織田、豊臣、徳川の三英傑に仕えた戦国大名「金森長近」の築いた城下町「高山」以来、長い年月の間に培われ受け継がれてきた伝統・文化・生活習慣に根付いたまちづくりを、若い世代の参画も求めた上で継承して実施していくという将来を見据えた地道な取組みを行っている。
具体的には、世界文化遺産や、旧城下町の歴史に関する調査・研究、指定に向けた啓蒙活動、同地域の住民や関係機関との連絡、協調に取り組んでいる。ちなみに、世界文化遺産にと提言している地域は金森藩から天領の時代にかけて商人町として栄えた地域で、我が国に唯一現存する陣屋「高山陣屋」や春秋の高山祭の際に繰り出される屋台の屋台蔵などに近接する地域である。
国際観光都市高山を目指して
蓑谷氏は、高山商工会議所会頭として、地域経済の牽引役としての立場から、産業と観光・商・工業・文化の調和のあるまちづくりを目指して『ひとづくり』『ものづくり』『まちづくり』『みちづくり』『情報発信』の5本の柱を立て、これらを実践している。
常日頃から「住みよいまちは行きよいまち」であり、住民が満足できるまちづくりがひては交流人口である観光客にも楽しみ、受け入れられるまちづくりにつながるとの持論を実践し基幹産業たる観光産業を総合的な観点から発展できるよう官と民のパイプ役として取組みを実践している。
『ひとづくり』⇒愛情、思いやりの心、いたわりの心等地域の連帯意識の高揚・相互扶助・共生等
『ものづくり』⇒木工・家具等伝統工芸、地酒、漬物等食品類の販路拡大等飛騨ならではのベンチャービジネスの育成
『まちづくり』⇒住んでよいまち、賑わいのあるまち、交流人口(観光客)をまきこんだ中心商店街の活性化等
『みちづくり』⇒東海北陸道、中部縦貫自動車道の早期完成、国道41号線バイパスの早期着工、JR高山本線のダイヤ改正等
『情報発信』⇒国内はもとより世界に向けての情報発信(IT)、地域エフエムを通じての地域への情報発信、マスコミ各社、新聞、雑誌等出版物へのPR、協会誌の発行、多言語化した観光パンフレットの発行等
飛騨地域の明日を目指して
また蓑谷氏は、市町村合併問題では合併審議会の会長を務めている。当初高山市、大野郡、吉城郡の1市14町村の大合併を視野に入れて審議会がスタートしたものの、結果としては高山市を中心とする1市9町村の合併が決定し、平成17(2005)年2月に約10万人の人口を有する新生高山市として発足することとなった。
この議論の経過には各市町村のそれぞれの思惑が入り混じり、当初考えられた大合併は実現しなかったものの、合併を通じた飛騨地域発展への蓑谷氏の思いは強いものがあり、合併問題を通じて、市民各層に対して市の基軸産業である観光関連産業だけでなく飛騨地域の将来を見据えたあり方を考える機会をつくり、次の世代に向けたまちづくりの重要さを認識させる引き金となった。

飛騨地域合併協議会の
まちづくり審議会会長を務めている