国土交通No.133
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17建築全般にわたるものづくり政策を規定するものでした。 現在の国土交通省大臣官房官庁営繕部の系譜となる組織は、明治政府の創設直後に生まれました。組織は時代とともに変化しましたが、一貫して、官庁施設の整備などの役割を担っています。国の威信をかけた官庁集中計画 霞が関地区の原型は明治時代にさかのぼります。近代国家として歩み出した明治政府にとって、治外法権を撤廃し、諸外国との対等な国交を樹立するための不平等条約の改正は大変重要な課題でした。 当時の外務大臣だった井上馨かおるは交渉を有利に進める方策の一つとして、壮麗な中央官庁街を建設し、国会議事堂を含む近代的な官庁建築の姿を諸外国に示そうと考えました。 明治19(1 8 8 6)年、内閣直属の「臨時建設局」を設置して自ら総裁に就任し、政府の中枢機関を霞が関に集中させる「官庁集中計画」を実行するために、ドイツで活躍していた建築家ヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデを招へいしました。ベックマンは、東は築地本願寺、西は日枝神社にわたる壮大な計画を立てました。その後日本側の財政事情も考慮して、エンデによって、日比谷練兵場周辺に官庁施設を集中配置する縮小案に変更されま せん。災害対策活動拠点としての機能も着実に果たされるように、現在、第4号館の免震改修工事などを進めています。また、バリアフリー化、省エネ化、再生エネルギー活用などの社会的要請に応えるための機能向上や改修工事にも取り組んでいます。 霞が関地区は、明治から戦前、戦後を通じて、国政の重要な機能が集積され、その存在自体が歴史的な意義と価値のあるものになっています。国土交通省では、今後とも品格を備えた地区となるよう心がけるとともに、国家機関の機能向上に資するための整備・活用を進めていきます。した。 その案に基づき、最初に司法省庁舎(現・法務省赤れんが棟)が整備されることになりましたが、計画地が軟弱地盤であることが判明したために、桜田通りに面する現在地に変更され明治28(1 8 9 5)年に竣工しました。軟弱地盤の区域は公園(現・日比谷公園)とされました。これが現在の霞が関地区の骨格となりました。現在の霞が関地区の成立 大正12(1 9 2 3)年の関東大震災で、多くの施設が焼失してしまいました。震災後、応急復旧として大手町に仮設の官庁街がつくられました。昭和に入り、官庁施設の霞が関地区への集中配置が本格化しました。昭和4(1 9 2 9)年竣工の総理大臣官邸を皮切りに、警視庁、内務省、文部省、会計検査院の庁舎が次々に建設されました。昭和11(1 9 3 6)年の国会議事堂の竣工によって、官庁集中計画は目に見える形になりました。 戦後は、土地の高度利用、建築費の節減、利便性の向上のために、庁舎の合同化を進めることになりました。農林水産省が入居する中央合同庁舎第1号館の建設(昭和32(1 9 5 7)年竣工)に始まり、現在、内閣府が入居する第8号館まで完成しています。 国の機能は、どの時代であっても、一瞬たりとも停止することは許されま官庁営繕の歴史 「営繕」とは、あまり聞き慣れない言葉ですが、「営」は建物を建て、「繕」は修繕する(メンテナンス)ことを意味しています。 その語源は千年以上もさかのぼるもので、701年の大宝律令に営繕令という用語が使われています。この営繕令は、建物のみならず、武器の製造、船や橋、堤防の造営など、現代の土木・エンデの計画図。計画で最初に着工した司法省は、計画地の地盤が弱いと判明、現在の桜田通りに面した敷地に変更された。予定していた土地は日比谷公園になり、現在の霞が関地区の官庁街の骨格ができた。藤森照信「明治の東京計画」(岩波書店 1982)より霞が関地区(正式名称「霞が関団地一団地の官公庁施設」)は、皇居に隣接し、江戸時代から続く大きな敷地割りが数百年維持されてきた地区。現在は約103万m2の土地に、延べ床面積約226万m2に及ぶ官庁施設が形成されている。

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