ホーム >> 政策・仕事 >> 国土計画 >> 国会等の移転ホームページ >> 国会・行政の動き >> オンライン講演会 >> 国際競争力向上の視点からの大都市政策を

国会等の移転ホームページ

国際競争力向上の視点からの大都市政策を

講演の一部を音声でお聞きいただけます

(注) 音声を聞くためには、Windows Media PlayerまたはRealPlayerが必要です。
Windows Media Playerのダウンロードページへ real playerのダウンロードページへ


市川 宏雄氏の写真市川 宏雄氏 明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科長・教授

1947年東京都生まれ。早稲田大学理工学部(建築学科)、同大学院修了後、カナダ政府留学生として、ウォータールー大学大学院博士課程(都市地域計画)修了(Ph.D.)。(財)国際開発センター、富士総合研究所などを経て、1997年明治大学政治経済学部教授(専門:都市政策)。2004年より現職。2003年より明治大学危機管理研究センター副所長も兼務。

公職では、東京都の都市外交における一連の国際会議の専門委員、「生活都市東京」懇談会の専門委員、「都市白書2000」の座長、「都市づくりビジョン」作成の都市計画審議会のコアメンバー等多数歴任。現在は「東京自治制度懇談会」の委員として東京発「自治論」の展開と巨大都市東京の政策立案に立ち向う。

東京と首都圏の将来を述べた著書に『しなやかな都市東京』(都市出版)『東京都を読む事典』(東洋経済) 『首都圏自治体の攻防』(ぎょうせい) 『「NO」首都移転』(光文社)『成熟都市東京のゆくえ』(ぎょうせい)『東京はこう変わる』(東洋経済)など多数。


<要約>

  • 首都機能移転に関する論議は、当初、一極集中の弊害に対する不安感などから盛り上がり、その後、移転の論拠のぶれや、バブル経済の崩壊による財政の逼迫などにより低下し、現在では既に化石化してしまっているのではないか。
  • 日本全体を平等に育成しようという「均衡ある発展」という偉大なるテーゼは、戦後50年を経て、発展・拡大する経済成長のもと、国際競争力で優位に立っているときのみ可能な国内的議論であることがわかった。
  • 成熟社会、成熟型経済に移行する日本にとってこれから必要なことは、限られた資源を集中的に投下して、効率性の高い生産を行い、成果を生み出すことである。それを最も効率的に、かつ最も多く生み出すことができる場所は東京しかない。
  • 都心回帰の現象が起きている状況で、戦後の分散政策がなぜ現実のものとならなかったのか、なぜ東京への集積がますます進むのかを冷静に判断することが不可欠である。
  • 都市問題を考える場合、大都市への集積が高まれば必ず問題が起きると考えて、その問題をどう解決するかに主眼をおくべきで、問題が起こるのであれば分散させようという議論は今や意味がない。
  • その時代における要請と本来あるべき価値観の保持との相克は常に避けられない、持続性を持つ政策立案と実施をいかに現実のものとしていくかが大都市東京の課題である。
  • 日本は国際社会という弱肉強食の世界の中で、弱者救済のセーフティーネットを整備しつつ国際競争力を常に高めていかなければならない。国際競争力を高めるという視点で、日本の大都市政策と国土のあり方を考える必要がある。
  • 首都機能移転にもメリットはある。海外や国内の人々に安心感を与える象徴としてのバックアップ都市はあってもいいと考える。

首都機能移転に関する論議の変遷

まず簡単に私なりの解釈でこれまでの首都機能移転に関する論議の変遷を総括します。衆・参両院において1990年11月に行われた「国会等の移転に関する決議」からもう16年がたちますが、その間の社会の激変とこのテーマにはとても大きな関係があると思っております。結論から言えば、首都機能移転に関する論議は、「当初盛り上がり、その後低下し、現在では既に化石化している」と考えています。

当初、移転論議が盛り上がりを見せたのは、日本経済がその頂点に向かっていた1980年代後半からです。当時の東京は国際金融センターとして世界の三極構造の一角を担っており、ヒト・モノ・カネの東京への一極集中が激しく進んでいました。しかしながら、首都東京が繁栄する一方で、地方の衰退が進み、一極集中の弊害に対する不安感が高まりました。このような状況で1990年11月の国会決議が行われ、92年には「国会等の移転に関する法律」が公布・施行され、96年には改正法もできました。当時は、首都機能の地方分散がテーマとして受け入れられやすいタイミングであったと思います。首都機能移転は歴史に残る一大プロジェクトであり、日本の戦後2回目となる経済成長の頂点におかれるものとしての象徴性もありました。ある意味、非常にエポックメーキングなことであったと思っております。

しかし、90年代後半に向かって、その盛り上がりは冷や水をかけられ始めます。その一つが首都機能を移転すべきという議論の「論拠のぶれ」です。1990年の国会決議の論拠は、本質的には「東京への一極集中の是正」であると思っております。ところが、1995年に阪神・淡路大震災が起きると、今度は「都市の脆弱性」が移転の論拠として強調され始めました。移転の目的・論拠がぶれたのです。2つ目が、「公共事業に対する認識の変化」です。バブル経済が崩壊し、財政に余裕がなくなると公共事業に対する社会の認識が変わりました。それまでは、社会も公共事業には楽観的でしたが、この時期から悲観的な見方になり、公共事業のあり方が問われ始めました。「考えてみれば、首都機能移転も大規模な公共事業である」という認識に変わりはじめたのだと思います。3つ目が反対論の盛り上がりです。1999年12月に国会等移転審議会の最終報告が出されますが、最終報告の発表に合わせて1万人都民集会が行われ、反対論が一気に盛り上がりました。それまではあまり関心のなかった人々が興味を持ち始め、政府側の動きに目が注がれるようになったのです。

そして、現在の首都機能移転論議は既に化石化してしまっていると思っております。これまでの議論や例えの中には、「最先端の技術を使って都市を変える」「日本は首都機能移転のたびに国家が蘇った」「アメリカのワシントンとニューヨークの例が参考である」などが挙げられましたが、これらの論拠は既に失われています。特に、アメリカの例について申し上げると、連邦国家の典型であるアメリカの首都機能を、中央集権制である日本のモデルにするのは順番が逆です。日本が連邦国家になった後で参考にするのであれば良いのですが、これは非常に苦しい例えだと思いました。移転論議にはさまざまな議論があったのですが、時代の流れもあり、結果的にはうまくいかなかったというのが私の印象です。

ページの先頭へ

東京の存在の意味

ここで東京という存在の意味を考えてみたいと思います。そもそも日本の国家運営は、都市部が稼いで、その稼いだ分を中央政府が国全体に還元するという仕組みで成り立っていると思います。都市部は、当初、第2次産業である製造業を主体に産業育成を図りました。そのため、都市部に大量の労働力需要が生じ、結果として地方や農村部から若年労働者を奪い取ることになりました。衰退が進んだ農村部、地方中小都市は、「労働者を奪い取られた」と被害者意識を持つようになりましたが、そうした不満に対し国は地方交付税や補助金などにより、地方の産業育成のための基盤整備、自立のための財政支援を行ったのです。その結果、東京都では納めた税金の3分の1しか戻らないけれども、地方のある県では倍以上が還元されるという現象が起きたのです。

しかし、地方の産業育成のための基盤整備、すなわち地方に工場を立地し、製造業を主役に起業するという目論見はもろくも崩れ去りました。多くの製造業は日本に比べはるかに安い立地コストと労働力を求めて海外に出ていってしまったからです。第1次産業が崩壊していく中で、貴重な基盤整備もやむを得なかったのかもしれませんけれども、やはり日本を牽引する産業構造の変化を的確に読み取れていなかったのではないかと思います。そして、現在の日本経済を牽引する産業は、もはや第2次産業ではなく第3次産業に移っています。就業者数の7割近くが第3次産業ですが、第3次産業は地方では成立しにくい産業です。なぜなら、サービス業などは資源が集積している大都市に立地した方が効率的であるからです。

このような状況の中で、地方での産業が発展しないまま、地方は国からの地方交付税や、補助金等によってなされる公共事業に頼るという構図が固定化してしまったのです。しかも受益と負担という議論がないまま、バブル経済の破綻で稼ぎ頭である東京の稼ぎが減り、地方への還元も減るという事態になりました。

こうして、日本全体を平等に育成しようという「均衡ある発展」という偉大なるテーゼは、戦後50年を経て、発展拡大する経済成長のもと、国際競争力で優位に立っているときのみ可能な国内的議論であることがわかりました。したがって、「均衡ある発展」という面から言えば、首都機能移転を進める要素は既に消滅しているのではないかと思っております。

ページの先頭へ

新たな価値観の芽生え

20世紀と21世紀では、価値観が変わったと思っております。私のイメージでは、21世紀はリセットから始まったと考えればよいと思います。バブル経済崩壊後、企業や公的セクターは一所懸命リストラを行うなかで人びとの価値観が「寄らば大樹の陰」という企業や組織主体の価値観から、組織に頼らず個人でやらなければならないという個人主体の意識に変わったと思っております。

リセットということで非常に象徴的なことは、2002年7月の工業等制限法の廃止です。この法律は、東京23区とその周辺の主要な市で工場と大学の新・増設を禁止するというものでした。これは1959年につくられ、40年以上、三大都市圏への集中を抑制する代表的な政策であったのですが、それをとうとう放棄したのです。このように21世紀に入って、人びとの価値観や政策が変わり始めましたが、その背景には日本が発展型経済から成熟型経済に移行していることが挙げられると思います。

発展型経済の思想から分散政策、均衡ある発展という考え方が生まれました。経済発展が続く限りは、一極集中を抑えて地方分散するという話に納得する人は多いでしょう。ところが、今は確実に成熟社会に移行しています。2005年末に日本の人口は減少局面に入り、2050年には2〜3割減少すると言われています。外国人労働者を受け入れれば労働力人口は保てるかもしれませんが、そのようなことを行っても以前とは違う社会になると考えるべきでしょう。これからの時代、首都機能移転や都市部と地方の関係を議論する場合には、社会・経済、人びとの価値観が変わったことを前提に議論しなければならないと思います。

成熟社会、成熟型経済に移行する日本にとってこれから必要なことは、限られた資源を集中的に投下して、効率性の高い生産を行い、成果を生み出すことです。これからは労働力が減ると予想されるわけですから、国民が生み出した成果としての付加価値を高めるしか国の豊かさを維持する方法はありません。付加価値を最も効率的に、かつ最も多く生み出すことができる場所は東京しかないと思います。

このように申し上げると、「再び東京への集中を促すことになるのではないか」という問いが出るかもしれません。ここで重要なのは、それがなぜ悪いのかということです。今まで「集中は悪」と言われていました。しかし、21世紀の今、なぜ悪いのかということに対する説明が必要であろうと思っております。

集中が悪いと言っているだけでは、いつまでたっても問題が解決しないどころか、かえって全体の足を引っ張ることになってしまいます。いかにしてその呪縛を解くかが課題であろうと思います。2002年6月に施行された都市再生特別措置法はこのような課題意識から作られたものであろうと考えています。

ページの先頭へ

独自の大都市圏モデル構築の必要性

日本は明治維新以来、多くの仕組みを海外から学んでいます。明治時代の法律体系も、フランス法をもとにつくられ、その後ドイツ法に変わっていきました。大都市政策も同様で、ロンドンやニューヨークの実例を常に参考にしてきたといえます。例えば1958年の第1次首都圏整備計画はイギリスの大ロンドン計画を参考にしたと思われます。今までの日本においては都市問題を解決する前例、先行事例が常にあったということです。

ところが、今や一都三県の東京圏の人口は3,350万人を超します。3,350万人もの大都市圏を持つ先進国はありません。ニューヨークやロンドンの都市圏でも人口は2,000万人までいっていません。先進国で3,350万の人口集積もつ東京にはもはや先行事例はなく、独自の大都市圏モデルを持たねばならないと思っております。

東京圏の人口はこれから2015年頃までは依然として漸増傾向で、現在の水準に戻るのは2025年頃と予想されています。つまり、これから20年間は現在以上の人口を抱えて都市圏を運営しなければならないことになります。しかも、都心回帰の現象が起きています。そういう状況の中で、戦後の分散政策がなぜ現実のものとならなかったのか、なぜ東京への集積がますます進むのかを冷静に判断することが不可欠であろうと思っております。

最近の道州制の論議のなかには財政の均衡に目を奪われるあまり、東京圏を分割すべきという議論があります。東京は日本を引っ張っていく唯一貴重な都市圏であるのに、相変わらず東京を分割しようとする議論は非常にナンセンスであると思います。東京という巨大都市圏の管理・運営を真剣に考えていないといえるのではないでしょうか。

東京圏のうち、都心からほぼ60キロ圏は居住と就業が稠密しており、この圏域は一体として考えるべき空間であると思います。ところが、現在東京圏の中でも地方分権の議論があるのです。確かに、広域圏行政と圏域内での自治体の自治・自立は東京圏の政策テーマではありますが、大都市圏においては、はたして従来の細分化された行政区界がふさわしいのか、大都市圏の中における基礎自治体の意味とは何かという議論は行うべきではないでしょうか。基礎自治体という既存の仕組みを無理に主張することが大都市圏経営にとって必ずしもよい結果を生まないことは明らかであると思いますし、新たな行政体のあり方を検討することが必要であると思います。

ページの先頭へ

大都市圏の変質と必要な大都市政策

都市問題を考える場合、内部・外部経済と外部不経済という視点が重要と考えています。都市が肥大化する中で、都市問題は避けて通れません。都市問題とは、集積が生み出すスケールメリットという内部・外部経済に対して発生するいわゆる外部不経済であると考えています。集積が高まれば必ず外部不経済が起きます。この場合、集積する以上は必ず問題が起きると考えて、その問題をどう解決するかに主眼をおくべきであり、集積することで問題が起こるのであれば分散させようという議論は今やナンセンスであると思っております。

現状の外部不経済、都市問題では東京の道路網が挙げられます。その整備は大変おくれていますが、鉄道網は相当なレベルで整備されています。例えば地下鉄の相互乗り入れは世界で一番進んでいます。また、大気汚染も問題ですが規制をかけて抑えています。日本は都市問題を、完全に解決とまではいかなくても、人々の許容範囲に入るまでのレベルにおさめていると思います。もし都市問題を解決する努力を怠っていれば、これほど東京への集積は進まなかったかもしれません。日本人の優れた英知が、先進国に例のない巨大都市圏を生み出した理由であるということかもしれません。逆の言い方をすれば、もし、外部不経済が内部・外部経済よりも高ければ、自然と集中は止まると思います。今でも人口が増えているということは、まだその分岐点まで来ていないのだと判断できるのではないでしょうか。

ただし、東京への集積という現象は都市圏全体というマクロのレベルでは認められる一方、ミクロで見れば、東京圏の中でも集積が進む地域もあれば、衰退が進む地域もあるということに気をつけなければなりません。要するに、大都市圏の収縮が始まっているのです。

現在、大都市圏では都心回帰の現象が起きています。これは都心への回帰ではなく、都心方向への回帰です。都心周辺から都心3区に移る、郊外から都心の外側の区に移る、その両方が起きています。その結果、通勤が大変である郊外では衰退が始まっています。衰退の中身としては、人口が減少したところ、人口増が止まったところなどさまざまですが、いずれにしろ郊外の都市圏が衰退していることは確かであると思っております。

現在の都心回帰の状況は、かつて東京都が推計した数字を超しています。例えば東京都の人口は現在1,200万人を超していますが、あと100万人ぐらいは増えるかもしれないという想定が必要になると思います。100万人を受け入れるためには医療、教育、公園などの生活基盤施設がもっと必要となってきます。そして当然、それを支える都市構造、インフラ整備が必要です。安心・安全対策も差し迫った課題ですし、木造密集市街地の不燃化やオープンスペースの設置、多様な犯罪に対する治安の強化なども不可欠です。これらが優先順位の高い課題であろうと考えます。

いずれにしても、整備を速やかに、しかも美しく高質な都市空間をつくらなければならないと思います。この理由は簡単で、居並ぶ世界の強豪に伍していける都市でなければならないからです。今や先進国に限らず、例えば上海なども強豪です。世界の強豪に伍し、歴史に残る都市政策が望まれます。

歴史に残る都市政策は、それを必要とする社会的背景と、その時々の先駆的テーマによって産み出されてきたと思います。首都機能移転についても、このような大きな政策の遂行には、それを必要とする社会の背景とその後のプラスの展開が必要となります。政策を立案・実行する側と、それを見守る住民に夢を彷彿とさせる何かがなければなりません。国会等の移転の決議から16年もたつにもかかわらず動きが停滞しているのは、当時はそれなりに根拠があると思ったけれども、後から見ると、それらが決定的なものではなかったということと、描かれた夢が前時代的なものであったということではないでしょうか。

その時代における要請と本来あるべき価値観の保持との相克は常に避けられないものとも言えます。どれぐらい先を見るかという価値観の問題もありますが、持続性を持つ政策立案と実施をいかに現実のものとしていくかが大都市東京の課題であろうと思っています。

ページの先頭へ

21世紀を生き抜く都市と国土のあり方

拡大発展から縮小均衡する経済の中で、巨大都市・東京が効率性を高めるコンパクト化を成し遂げることができたとき、再び提起されるテーマは衰退を続ける地方の問題であると思います。

1962年の第一次全国総合開発計画以来、過去に5回策定された全総計画で常に前提となったのは、地方の活性化を促そうとする政策です。工業化やリゾート開発、第四次の計画では多極分散型国土というコンセプトで、小さい東京を地方の要所にいっぱいつくろうとしたのですが、うまくいきませんでした。さらに、かつての発展型経済から、今は成長が止まり成熟型経済になっています。少子・高齢化や環境問題、外を見れば国際競争というサバイバルもあります。その中で地方は浮上するきっかけをつかめずにいるのです。

過去に行った政策では、基盤整備の水準を上げるために新幹線や高速道路を開通させると、日本はドイツと違い、ストロー効果によって大都市がさらにヒトとモノを吸い上げる結果に終わっています。また、分散政策の切り札として多大な期待をかけられた情報化の進展も、やはりフェース・トゥ・フェース・コンタクトのメリットを打ち破るところまではいきませんでした。

パラダイムシフト、価値観の変化がおきている現在、非常に難しい政策テーマは、従来型の「都市対地方」、つまり加害者と被害者、富める者と貧する者という対峙的発想ではなく、何とか両者を融合させるということです。融合に一番成功するのは、敵がいる場合です。この場合、向かうべき敵は国内ではなく、国外にあります。外に向かうべき敵があれば、都市と地方は一心同体になるわけです。そういう風潮が生まれない限り、富める者からとろう、我々は被害者だという議論が永久に続きます。この加害者と被害者の関係をどうやってなくすかということが今後の課題であると思います。

都市部と地方が融合するためには、これは難しいのですが、相互に密な交流を持つということです。人の居住を含めて、地方にパッケージで都市部の機能すべてを埋め込む必要性は今や見当たりません。これは交流人口という考え方で、定住人口は増えなくてもいい、人が来て、交流できればいいという風潮に変えていくことが重要であると思っております。今や定住人口は減るだけです。減るからかわいそうだという話ではなく、どうすれば交流できるかということを考えることが重要です。

先進国最大の都市圏として東京の盛衰は国家の盛衰そのものと考えざるを得ないと思っております。巨大都市・東京は、世界に例を見ないまでの高度なコントロール能力を持って、これからも走り続けなければなりません。日本は国際社会という弱肉強食の世界の中で国際競争力を常に高めていかなければなりませんが、これからのパラダイムは、弱者救済のセーフティーネットをいかに整備していくかにかかっていると思います。国際競争力を高めるという視点で、日本の大都市政策と国土のあり方をどうすべきかを考える必要があります。

ページの先頭へ

これから考えるべきバックアップ都市のあり方とは

今まで大都市東京の重要性を述べてまいりましたが、私は、首都機能移転に全く反対ということではなく、危機に対するバックアップ機能を持つという議論はすべきであると思っております。日本の大都市圏の危機管理という問題は避けて通れません。今は危機が増えつつあります。危機は自然災害から社会災害、テロなど多岐に渡るわけですから、大都市運営は危機管理と一体です。それらの危機に対する整備は必要であると思います。だからといって、首都機能を遠くに移転するという議論はまた別であると考えています。

かつて日本には、東京と大阪という二眼レフのような構造がありました。東京に何かが起こったら大阪がバックアップするという相互バランスがよかったのですが、戦後の日本はそれをなくしてしまいました。東京の部分的なバックアップはやらなければならないと思いますが、大都市は東京だけです。東京全体のバックアップはできないであろうと考えています。

バックアップ機能をどう持つかということについて、まず、量より質といいますか、限られたヘッドクオーター機能、指令塔のバックアップをとっておけばよいと思います。また、効率性から考えれば、やはりそれは首都圏の中におくべきと考えます。今も立川市やさいたま市などを想定しておりますが、何かがあったとき、同時被災せず、短時間で移動できる場所に準備しておけばいいと思っています。

ただ、首都機能を遠くに持っていくことのメリットもあります。そのメリットとは人びとに安心感を与えることです。対外的には、東京に何かがあった場合、日本のヘッドクオーターは他にもあり、混乱することはないということを示すことができますし、国内的にも、国民に安心感を与えるでしょう。安心の象徴としてのバックアップ都市はあってもいいと考えます。

危機の事象はさまざまです。何の危機に対するバックアップなのかをはっきりさせた上で、実利性や、象徴性を軸に分類すれば、つくるべきバックアップ都市の形が決まるのではないかと思っております。

ページの先頭へ