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筑波研究学園都市の歴史にみる都市づくりのあり方

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岩崎 洋一氏の写真岩崎 洋一氏 国立大学法人筑波大学 学長

1941年生まれ。1964年東京大学理学部物理学科卒業、1969年東京大学大学院理学研究科物理学専攻修了。理学博士。1984年筑波大学物理学系教授、1992年同計算物理学研究センター長、1998年同副学長、2004年同学長。

1994年、仁科記念賞(仁科記念財団)を受賞。

公職として、筑波研究学園都市交流協議会会長を務める。


<要約>

  • 移転を円滑に進めるには、創成期をいかに乗り越えるかが鍵になる。筑波研究学園都市において創成期を乗り越えられたのは、困難を乗り越えるだけのモチベーションがあり、情熱や一体感等が生まれたことが大きい。
  • 研究学園都市内では、「新住民」「旧住民」がお互いに自然に交流できるようになるまで時間がかかった。まちづくりにあたっては、人と人が交わる場が必要。
  • 都市づくりにおいては、しっかりとしたマスタープランを作成することが重要。都市は時代とともに変化するので、基本構想とフレキシビリティを併せ持ち、都市の発展に合わせて柔軟に対応できるようにしておく必要がある。
  • 都市はつくればそれで終わりではなく、使っていくことが大事なので、つくることと使うことの両方を考えておくことが必要。
  • これほどの研究機関が集まっているわけだから、その集積効果を十分に発揮していくことで研究学園都市そのものの存在価値を高めていけるはずだが、これまではいくつかの要因により、集積効果が十分に発揮できていない面があった。
  • 連携・協力を強めて集積効果を発揮していくため、多数の機関が集まりいくつかのプロジェクトを立ち上げていく予定。民間企業との連携もこれからの課題であり、公的機関との違いを踏まえて効果的な連携のあり方を模索している。
  • 首都機能を移転するのであれば、新しい都市にこそ、長年かけて蓄積された文化のシンボルが必要であり、日本の文化や香りがするような施設をつくるべき。 

筑波研究学園都市の概要

つくば市全域で構成されている筑波研究学園都市(以下、研究学園都市)は東京の北東約60キロメートルに位置し、面積は約28,000ヘクタール、人口は約20万人です。研究教育機関や住宅、公共施設等が一体的に整備された区域を「研究学園地区」、それ以外の区域を「周辺開発地区」と呼んでいます。研究学園地区の面積は、研究学園都市全体の10分の1、約2,700ヘクタールを占め、地形的には山手線の内側の大きさとほぼ一致します。研究学園地区にある研究所の数は172を数え、約1万3000人の常勤の研究者が従事していますが、外国人研究者が多いことも特徴の一つです。現在、研究学園地区には約8万人が住んでいます。

研究学園都市の建設は、科学技術の振興と高等教育の充実、および東京の一極集中の緩和を目的としており、東京にあった国の教育機関や試験研究機関等が計画的に移転してきました。その中で筑波大学は、東京教育大学の研究学園都市への移転を契機に大学の抜本改革を行い、1973年に総合大学として開学しました。

私は1975年に筑波大学に赴任し、家族とともにここに居を構えて32年半経ちました。
その間、最初は公務員宿舎に16年間住み、その後自宅を建てここに住み続けています。

現在は、筑波大学の学長の他、筑波研究学園都市交流協議会(以下、協議会)の会長を務めています。この協議会には、研究学園都市の研究機関や民間企業、NPO、そして市、県などが加盟し、研究学園都市の今後のあり方を考えています。

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研究学園都市の歴史的経緯

【筑波研究学園都市の経緯】
<第1期>
1963年(昭和38年) 研究・学園都市の建設地を筑波地区とする閣議了解
1969年(昭和44年) 新住宅市街地開発事業着工
1970年(昭和45年) 「筑波研究学園都市建設法」制定・施行
1973年(昭和48年) 筑波大学開学
1980年(昭和55年) 43の試験研究・教育機関等の移転完了
1985年(昭和60年) 国際科学技術博覧会開催、常磐自動車道開通
<第2期>
1986年(昭和61年) 周辺開発地区の工業団地の整備に着手
1987年(昭和62年) 町村合併によりつくば市誕生
1996年(平成8年) 第1期科学技術基本計画
2001年(平成13年) 第2期科学技術基本計画
2005年(平成17年) つくばエクスプレス開通
<第3期>
2006年(平成18年) 第3期科学技術基本計画

私なりに研究学園都市の歴史を3つに整理すると、研究学園都市の建設地が筑波地区に決まった1963年から国際科学技術博覧会(以下、EXPO'85)が開催された1985年あたりまでを第1期、つくばエクスプレスが開業した2005年までを第2期、国が第3期科学技術基本計画を策定した2006年以降を第3期と考えています。

私が研究学園都市に来た当初は大通りも貫通しておらず、民家が道路をふさいでいたので車が迂回している状況でした。道路は未舗装でしたから、当時は「長靴と星空」がうたい文句で、雨の日には泥にはまって動かなくなった車が何台も乗り捨てられている光景をよく目にしました。

1977年にようやく東大通り(ひがしおおどおり)が貫通、79年に東西のメイン道路(通称、学園線)が完成し、研究学園都市内部の幹線道路の整備が完了しました。1985年のEXPO'85の開催に合わせて常磐自動車道が開通し、「陸の孤島」という感もようやく薄れてきました。1983年につくばセンタービルが完成、85年にはデパートもオープンしました。それまでは買い物をするにもわざわざ土浦市まで出かけていましたから、人が生活する場としてようやく自立できたと思います。

第1期を創成期とすると、第2期はインフラが充実してきた発展期といえます。1987年にはつくば市が誕生しました。文化施設や国際会議場、外国人向けの宿舎も完成し、都市としての機能が一層整備されました。医療面では筑波メディカルセンターが完成するなど、生活する上で欠かせない施設が整ってきました。研究学園都市には大学の付属病院以外に医療機関がほとんどなく、ちょっとした病気でも大学病院に行かざるを得ない状況が続いていましたが、同センターの完成で随分と便利になりました。

2005年には研究学園都市と秋葉原を最短45分で結ぶつくばエクスプレス(TX)が開通し、東京からのアクセスも飛躍的に向上しました。都市として第3期に入り、これから都市をどう熟成させていくかが課題ですね。

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インフラが整っていない創成期をいかに乗り越えるかが鍵

研究学園都市の建設には東京への一極集中を緩和するという目的もありましたから、首都機能移転と共通する点も少なくありません。

私なりの考えとしては、移転を円滑に進めるには創生期をいかに乗り越えるかが一つの鍵になります。創成期においては、インフラが十分に整っていない中で生活することになりますから、実際に生活する人間はとても大変です。

生活面でのキーポイントとして、「交通網」「住居」「食」が挙げられます。研究学園都市の場合、内部の交通網は整備されていましたが、外部との交通網が十分でないことが大きな難点でした。「住居」に関しては、東京への一極集中を緩和するという目的のためか、公務員住宅などは間取りも広くそれなりに整っていましたが、「食」に関しては、充実しているとは言い難い状況でしたね。食堂は2軒程しかなく、しかも週末は研究機関の食堂は営業していなかったので単身赴任や独身の人、特に車を所有しない独身男性にとっては悲惨な状況でした。

研究学園都市において創成期を乗り越えることができたのは、人々の間に新しい大学、都市をつくるという目標に向けた情熱や連帯感のようなものが生まれたことが大きいと思います。困難を乗り越えるだけのモチベーションを持てるかどうかはとても重要です。首都機能移転の場合にも関係者がそうした使命感や連帯感を持てるかどうか。逆に使命感を持てるような都市づくりをすることが大切だと思います。

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まちづくりにおいては人と人が交わる場をつくることが必要

人の定着という観点からみると、最近は研究学園都市に定住する人が増加しています。理工系で実験をする分野では、近くに住まないと研究活動ができませんから、多くの研究者が移り住んできたと思います。逆に、文系の先生達の中には、東京に生活拠点を置きながらこちらへ通ってくる人もいましたね。

TXが開通する際には、ストロー効果(注)について随分と議論がなされましたが、今のところその心配はなさそうです。TXの開通によって都心へのアクセスが容易になり、子育てをする環境としても東京より適しているということで、こちらへ住居を定める人が増えています。ここで育ち、進学などで外へ出て行った人の中にも結婚して戻ってくる人も出始めました。当初は私も含めて多くの人は、あくまでここは仮の住まいと考えていたと思いますが、ちょうど第3期に入った頃からここへ定住しようと考える人が増え始めたようです。

研究学園都市の周辺開発地区には以前から住んでいる住民がいますが、移転後初期の頃は、お互い「新住民」「旧住民」と呼ばれていて、コミュニケーションを図る機会はあまりありませんでした。相互の交流に向けた動きも見られましたが、そうした点の動きが面の広がりに至るまでには時間がかかりました。今では、そうしたボランティア的な取組や研究者達の居住区が周辺開発地区へ広がったこともあって、以前に比べるとお互いが自然に交流できようになってきました。

まちづくりにおいては、人と人が交わる場をつくるということが非常に重要です。研究学園都市は車社会ですから、人が歩いている姿をあまり見かけませんし、仕事帰りに一杯飲むということが非常にしづらい。これは研究学園都市の欠点だと思います。お酒を飲む場合には、車を自宅に置いてきて帰りはタクシーを利用するか、車で行く場合は運転代行を頼まなければいけません。新しく都市をつくる場合は、例えば駅の周辺に自然に人が交われるような空間をつくるなど、公共交通機関とコミュニティづくりの場を併せて考えておくことが非常に重要だと思います。

(注)ストロー効果:交通ネットワークを整備した結果、経路上の大都市が繁栄し、人口等がストローで吸い取られるように小都市が衰退してしまうこと。

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教育環境は充実しているものの画一的すぎる面も

新しい都市に移り住むかどうかを決める際に、「教育面が充実していること」はとても重視される点ですが、研究学園都市の場合は教育環境が充実していると思います。私も2人の子供をここで育てましたが、子供が遊べる空間も豊富ですし、子育てをする上では、まさに望ましい環境ですね。学校の生徒は研究者や公務員の子弟がほとんどで、いじめなどの問題もありません。研究学園都市には外国人の研究者も多く住んでいますが、インターナショナルスクールがないのでその子弟も日本人と同じ学校に通っています。しかし、日本の学校としては保護者のボランティア活動も非常に盛んなこともあり、外国人の受け入れ体制が整っていて、国際色豊かな学校になっています。

一般論でいうと、研究学園都市はいい教育環境といえますが、マイナス面を挙げるとすれば画一的すぎるということですね。都市の形成過程からしても、どうしても画一的になるのでしょうが、アグレッシブ(積極的)さがないというか、都会に出て行ったときにそれがひ弱さとして現れるかもしれませんね。教育とはなかなか難しいもので、今の社会の良し悪しは別として、実際にその社会の中で生きていくわけですから、うまく社会に適応できるかという点では心配な面もあります。

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都市計画には基本構想とフレキシビリティを併せ持つことが重要

都市づくりにおいては、しっかりとしたマスタープランを作成することが重要です。都市は生き物ですから時代とともに変化し発展します。だからこそ、基本構想とフレキシビリティ(柔軟性)を併せ持ち、都市の発展に合わせて柔軟に対応できるようにしておく必要があります。基本構想とフレキシビリティは、ある意味相反するものですが、そこをうまく折り合わせてマスタープランを作成することが非常に重要だと思います。

研究学園都市の場合、幹線道路や公園、遊歩道などを最初からきちんと整備し、それが今では大きな財産になっていますが、今後更に人口が増加することを考えると、道路網などはこれで本当に大丈夫なのかと不安も覚えます。何十年も先の道路網を計画することは非常に困難ですし、最初から道路を整備しておくことも無理だとは思いますが、それでも、将来の道路予定地を確保するなど、都市の発展に合わせて整備していけるような都市づくりをすることが大切だと思います。

また、住宅地や商業地においても、基本構想とフレキシビリティをマッチさせて、何十年経っても本当に住みよい街であるためのコンセプトを確立しておくことが重要です。例えば、このあたりにも高層マンションが建ちはじめたことで住民運動が起こり、市がようやく高さ制限の条例を制定することになりましたが、本当に住みよい街を目指すなら、例えば第1種低層住居専用地域を最初から十分に確保しておくことも必要だと思います。

都市づくりの基本コンセプトとして最も大事な点を一言で言うと、今はやりの「エコシティ」ということになります。エコシティは単なる経済性やCO2の削減といった観点のみから考えるものではなく、「人に優しい街」「人が安心して安全に住める街」ということが基本ではないでしょうか。この地球上でどうすれば人類が快適に生きていけるのかという問いに対して、私はやはり人と自然が共存していくことが大切だと思います。

エコシティを目指す上で交通の問題も避けては通れません。新しい都市の場合、最初のうちは公共的な交通網が未発達ですから、どうしても車社会になってしまいます。採算の問題もあって難しいことは分かりますが、エコシティという観点からも最初から公共的な交通網を整備しておくことが必要だと思います。

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都市はつくって終わりではなく使っていくことが大事

通常の都市づくりの過程では、初期の段階では行政中心で進められ、途中から民間の力が加わりますから、基本的には行政主導の時期と民間が加わる時期にズレが生じます。そのズレをどう埋めていくのかが鍵となります。

今はPFI方式などもありますから、初期段階は公的負担で賄うにしても、例えば都市のコアの部分について、民間から20年、30年にわたるプランを出してもらい、最初からきちんと整備するというのも一つの考え方ですね。しかし、利益が見込めない間は民間企業は入ってきませんから、民間だけに頼るのではなく、そこをいかにして公的に負担するかが一つのポイントでしょう。

また、都市はつくればそれで終わりではなく、それを使っていくことが大事ですから、つくることと使うことの両方を考えておく必要があります。

今、大学も含めて研究学園都市内の研究機関では施設の老朽化対策が大きな課題になっています。研究学園都市だからといって国の予算上の特別枠もなく、あくまで一般的な公共事業としての位置づけにすぎませんから、予算的に今は非常に厳しい状況を迎えているわけです。研究学園都市の誕生から30年が経過し、これから都市が大きく成熟し発展していくというときに公的な予算が打ち切られてしまうと大きな痛手となります。

国の予算における一般論として、施設をつくる予算はそれなりに頑張ればつくものの、それを維持し発展させていくというコンセプトが行政側に欠けているように思います。都市づくりにおいては、つくる費用だけではなく、それを維持、発展させていくための費用が必要です。国もこれほど大規模な国家プロジェクトを行ったわけですから、つくるだけではなく、使うところまで考えなければ投資効果も薄れてしまうのではないでしょうか。

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これまでは十分に発揮できていなかった研究機関の集積効果

これまでは国や自治体の力、各研究機関の努力もあって、研究学園都市としてそれなりにうまく発展してきました。しかし、いろいろな問題点も抱え、これから第3期に向けてまさに岐路に立っているといえます。特に研究学園都市の建設当初の狙いでもあった集積効果については、まだ十分に発揮できていない面もあります。これだけの研究機関が集まっているわけですから、その効果を十分に発揮すれば研究学園都市そのものの存在意義が更に高まっていくはずです。

これまで集積効果を十分に発揮できていなかった要因はいくつかありますが、その一つとして、初期における「縦割り行政」が挙げられます。

1985年頃までは、例えば一つの省庁から補助金を受けると、他の省庁は補助金を出さないと言われていたほど、省庁の縦割りが非常に強かった。そのため、個人ベースでの共同研究や連携は行われていても、表立ったことはできない時代でした。

第2期に入った頃から省庁間の垣根も低くなり、それに伴って共同研究の動きもいくつか出てきました。筑波大学でも他の研究機関と協定を結び共同研究を行っています。

また、連携大学院方式といって、当該研究機関の研究者に本学の教授や准教授として本学の大学院生に講義や当該研究機関で研究指導をお願いしたり、最近では、研究機関に大学院後期課程の専攻を設置し、専攻全体の教育を委ねる取組も行っています。

また、省庁間の壁を打ち破る象徴的な出来事として、江崎学長の頃に研究学園都市内の公的研究機関を高速ネットワークで結ぶ「つくばWAN(Wide Area Network)」を構築したことが挙げられます。それまでは各研究機関がそれぞれのネットワークを利用していましたが、当時世界最高速の10ギガビット級のネットワークを構築できたことによって、研究学園都市において相互乗り入れするようになりました。

そのように、これまでも各研究機関同士で全く交流がなかったわけではなく、着実に連携や協力は進んでいました。しかし、どちらかというと二者間の交流にとどまり、多角的な交流はそれほどありませんでした。その歩みも遅く、目に見える集積効果にまでは至っていなかったことを考えると、まだ努力も足りなかったのかもしれません。

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連携・協力を強めて集積効果を発揮していくための取組

研究学園都市のこれからのあり方については、第3期科学技術基本計画で言及されているように、一つは連携・協力を強めて集積効果を発揮していくこと、もう一つは、国際的な研究開発拠点としてさらに成長することが大事です。

集積効果を高める上では、皆が共通の課題に取り組むことが重要ということで、環境問題が具体的な例として挙がり、「つくばエコシティ構想」を推進しようということになりました。つくば市をエコシティとして、安全で安心なまちづくりに向けて、いくつかのプロジェクトを立ち上げていく予定です。その一つが「つくば3E(environment、energy、economy)フォーラム」です。2030年につくば市の二酸化炭素排出量を50%削減するという目標に向けて、各研究機関や市、県が連携し合い、それぞれが保有する技術、英知を結集しようということで、2007年12月に第1回目のフォーラムを開催しました。研究学園都市における連携を更に強めていく取組は、まさにキックオフしたばかりです。

研究学園都市には、公的な研究機関以外にも、民間企業も多く集まっています。また、筑波大学や産業技術総合研究所などが中核となって生まれたベンチャー企業も100社を超えています。そうした民間企業との連携もこれからの課題です。筑波大学でも各研究室が民間企業と連携してきましたし、複数の民間企業との連携によるプロジェクトも生まれていますが、一方で大学や公的機関と民間企業との連携には難しい面もあります。一般的には連携による効果は大きいと思いますが、一歩間違うと、企業秘密を抱える民間企業にとっては死活問題にもつながります。

協議会にも様々な民間企業が参加していて、環境問題などについても異なる視点からアイデアを出してくれることを期待していますが、企業には公的な機関とは違う論理もあります。その違いを踏まえ、どうすれば効果的な連携ができるかがこれからの課題です。

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移転先の都市には長く蓄積された文化のシンボルが必要

首都機能移転論議では、よくワシントンとニューヨークの例が出てきますが、我々研究者から見たワシントンの魅力というのは、やはりスミソニアン博物館があることではないでしょうか。博物館がある意味でワシントンのシンボルになっています。研究学園都市にもいい博物館がほしいですね。今は大学や各研究機関でもそれぞれ小さな展示場を設けていますが、これから「世界の筑波」になっていくためには、スミソニアン博物館やニューヨークのナチュラル・ヒストリーミュージアムのようなものが必要だと思います。

日本は消耗品の文化ですから、「文化とは蓄積していくもの」という概念がありません。結局建物もつくっておしまい、科学技術もつくっておしまいという面がありますが、ヨーロッパやアメリカでは、「長い蓄積の上に自分達がある」という意識が非常に強い。首都機能を移転するのであれば、日本の文化や香りがするような施設があってこそ首都機能都市になると思います。仮に首都機能を移転したとしても、移転先に国会と役所だけしかないというのではあまりにも無味乾燥すぎます。移転先の新しい都市にこそ、長く蓄積された文化のシンボルが必要だと思います。

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