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歴史をいかした地域の魅力づくり 〜 薩摩ルネッサンス運動と地域活性化への取り組み

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島津 公保氏の写真島津 公保 氏 株式会社島津興業 副会長

1950年東京生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。1975年三菱電機株式会社入社。1989年株式会社島津興業入社。2001年同社代表取締役社長。2007年より現職。

薩摩島津家の末裔であり、公職として、鹿児島商工会議所副会頭、全国産業観光推進協議会理事、(社)鹿児島県観光連盟理事を務めるなど、鹿児島県の地域振興、観光振興活動に取り組んでいる。

<要約>

  • 江戸後期薩摩藩の歴史的・文化的価値を再創造する「薩摩ルネッサンス運動」に取り組んでいるが、運動の核は、集成館事業を中心とする産業遺産。歴史を背景とするストーリーを分かりやすく伝えていくことが産業観光の鍵になる。
  • 薩摩藩の近代化への取り組みは、ひたすら国の将来を思う、人々の高い志に支えられていた。現代に生きる我々も大いに範とすべき。
  • 地域に積み重ねられてきた歴史をもとに「地域らしさ」を打ち出して、交流人口を増やすことにより、中央との格差是正を考えるべき。
  • 東京の利便性は魅力的だが、一極集中に伴う弊害も多い。地方との役割分担の見直し、首都機能移転を行ってしかるべき時期にきている。その際、道州制とセットで考えるべきであり、両者を並行しながら国を大きく変えてほしい。

集成館事業をいかした新しい観光へ

私どもの会社は歴史遺産をいかした観光事業をメインとしており、その中心となるのが名勝「仙巌園」、重要文化財・旧集成館機械工場を活用した「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」です。「集成館」とは、江戸時代の嘉永4(1851)年に薩摩藩主となった島津斉彬(しまづなりあきら)が、日本をヨーロッパの国々のように強く豊かにすることを夢見て、鹿児島城下の磯地区に築いた近代的な工場群のことです。そこを中核として、製鉄、造船、紡績などから工芸品や鉛活字まで、様々な分野にわたって事業を推進しました。これが集成館事業です。大正4(1915)年、集成館は廃止され、工場の多くは取り壊されてしまいましたが、機械工場だけは残されて大正12(1923)年、それを改装し、島津家の歴史資料館として尚古集成館を開館しました。「尚古」とは、「古いものを尊ぶ」という意味です。

この尚古集成館を中心として、この地区には「仙巌園(せんがんえん)」という大名庭園や反射炉跡などの名所旧跡が点在しています。今はNHK大河ドラマ「篤姫(あつひめ)」ブームのお陰で例年以上の観光客の方に訪れていただいていますが、全国的に見ますと、このような従来型の施設の集客は非常に厳しくなってきています。テーマパークや郊外型の商業施設などの新しい施設と競合しなければなりません。我々としても、これは何とかしなければならないということでいろいろと模索していく中で、「産業観光」という新しい観光の在り方に行き当たりました。


往時の工場建築をいかした尚古集成館

今、近代化遺産や産業遺産を活用したエリアが全国にできており、結構人気を集めています。例えば福岡県北九州市の「門司港レトロ」や、滋賀県長浜市の「黒壁スクエア」など、古い施設をいかしたまちづくりが各地で成功しています。今の時代、団体観光的なものは一巡してしまっているのですが、そこから更に突っ込んで知りたいという知的欲求は、特に高齢者や団塊の世代の方たちを中心に高まっています。そのような中で、我々としても、新しい施設を活用するだけでなく、もっと地域の個性を前面に出し、そこに魅力を感じて来ていただけるような方向に動くことはできないかと考えました。

そういう視点でこの地域を見直してみますと、集成館事業時代の遺産群がしっかりと残っているわけです。今までは、仙巌園を見にきたついでに尚古集成館ものぞいていくというお客様がメインでしたが、もっと産業遺産の魅力を強く打ち出し、しっかりと情報発信していけば、よりたくさんの方に来ていただける可能性は十分にあると考え、集成館事業を中心に薩摩の文化や観光資源をより体系立てた取り組みを始めました。それが「薩摩ルネッサンス運動」です。


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近代化のエネルギーがよみがえる「薩摩ルネッサンス」

薩摩ルネッサンスとは、薩摩が最も輝いた江戸後期を中心とする薩摩の歴史的・文化的価値の再創造運動です。中心は先に述べた集成館事業ですが、その背景には長い薩摩の歴史があるのです。まず、南九州の地・薩摩には、海外からたくさんの人、物、情報が入ってきました。それをしっかりと取り入れて文化を形成してきた「海洋国家薩摩」という歴史的背景があります。また、島津家は鎌倉時代から江戸時代までの700年間、ずっとこの地で定住し治めてきましたが、その中でいろいろな精神文化が育ち、こうした歴史的背景の中で集成館事業が生まれてきたわけです。それを学び、守り、伝える。そして、いろいろな形で表現し、実践し、交流していく取り組みが「薩摩ルネッサンス運動」です。

その具体的な取り組みとして、四つのポイントを挙げています。一つ目は、本物の追求。そのために鹿児島大学と「薩摩のものづくり研究」という共同研究を始め、集成館事業時代の事績の研究を深めています。薩摩の歴史については、今までは人文的な研究がメインで、近代化事業に関する研究はゼロに近かったんですね。ですから、工学系や技術史の先生を中心に、当時の絵図面を基に機械を再現したり、行事を復活させたりして、当時の実態を明らかにしつつあります。

二つ目は、ストーリーです。先ほども言いましたように、集成館事業は突然出てきたものではなく、そこには歴史的背景があります。また、それぞれに点在している名所旧跡にも当然つながりがある。それらをうまくつなぎ合わせ、一つの「物語」を作ることが重要なエッセンスとなります。

三つ目は、人。集成館事業の中心となったのは島津斉彬ですが、その外にも事業にかかわった人物は小松帯刀、五代友厚をはじめたくさんいます。そういう人たちのことも取り上げて、伝えていくことが大切です。

これらのことを分かりやすく伝えるために、様々な書籍を発行したり、各地で講演会を行っていますが、その中心となるのが尚古集成館です。今までは歴史資料館として古いタイプの展示を行っていましたが、薩摩ルネッサンス運動に合わせて3年前にリニューアルを行い、よりテーマ性のある展示を行っています。

そして四つ目は、ネットワークです。一箇所だけでなく、何箇所かをつなぐことによって、より立体的に事象が見えてきます。特に江戸末期の九州には各地で様々な活動がありましたので、それらをネットワークで結んで広域的な観光を推し進めようという動きが出てきています。その延長線上で出てきたのが、「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界文化遺産登録を目指すという取り組みです。

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地域の観光ポテンシャルをいかすプロデュース力

近世末から近代初期における日本の工業化・近代化は、西洋技術の導入から極めて短期間のうちに、他の非西欧諸国に例を見ない飛躍的な発展を遂げました。その中心的な役割を担ったのが九州と山口です。地域に存在する産業遺産群を世界遺産に登録しようということで、この地域の6県11市が共同提案者となって活動を進めてきました。

その基本コンセプトとして、「自力による近代化」「積極的な技術導入」「国内外の石炭需要への対応」「重工業化への転換」という四つの柱を立てました。中でも最も大きな柱は「自力による近代化」です。当時はまだ海外から直接の技術導入はできませんでしたので、海外から持ち込まれた簡単な図面や翻訳書だけが頼りでした。それにもかかわらず、日本が他の国にはない速さで独自の近代化を推進することができたのは、在来の技術というしっかりとしたベースがあったからです。そのことを九州や山口の産業遺産群が明確に示しており、その出発点となったのが薩摩の集成館事業とされています。

島津 公保氏の写真例えば、集成館事業時代の反射炉が残されていますが、この石垣はカミソリの刃も通さないほど精巧であり、それを造ったのは薩摩の石工たちです。また、耐火れんがは薩摩焼の陶工が作りましたし、溶鉱炉に必要な動力としては、薩摩に昔からあった水車動力が使われています。つまり、在来と西洋、双方の技術をうまく融合させたわけです。また、かかわった人たちがものづくりというものを深く理解していたからこそ、図面だけで一定の水準のものを造り上げることができたのだろうと思います。これらのことを評価していただき、今年の9月、「九州・山口の近代化産業遺産群」を世界文化遺産の暫定リストに載せていただきました。

そういう意味では、鹿児島県は非常に高いポテンシャルを持っていると言えます。ただ、点在する名所旧跡の見学だけでは、余り魅力を発揮できません。特に産業遺産というと何となく堅いイメージがあり、女性や若い人にはなかなか受け入れられないのが実情です。ですから、背景にあるストーリーや人物などをつなぎ合わせ、分かりやすく伝えていくというプロデュースが必要になってきます。また、それを担える人材づくりが非常に重要です。今、NPOなどで地元歩き的な活動を通して地域のことをよく勉強している方が増えてきており、鹿児島でも人材が徐々に育ちつつあると思います。

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ただひたすら国を思う

集成館事業とは単なる技術導入ではなく、日本という国の将来を思っての事業でした。当時は、多くの藩が自分の軍事力強化を最重要視していた時代でしたが、斉彬は薩摩藩だけにとどまらず、日本を強く豊かな国にし、海外と対等に交易できるようにしなければならないと考えていました。そこで行ったのが集成館事業であり、その理念は富国強兵・殖産興業ということでした。強兵といっても戦うためのものではなく、海外と対等になるためには日本も最低限の力を持っていなければならないという意味です。

斉彬の好きな言葉に「思い邪(よこしま)無し」というものがあります。これは中国最古の詩篇『詩経』の中にある言葉で、孔子は「詩経の精神を一番よく表している言葉」と語ったそうです。斉彬が行ってきた事業自体が薩摩のためということではなく、国全体を思ってのことであり、まさにこの言葉が象徴しているのではないでしょうか。

実際、斉彬は集成館事業をかなりオープンにしており、技術を求める者があれば教えなさいと言っています。また、日本最初の洋式軍艦である「昇平丸(しょうへいまる)」も、最終的には幕府に献上しているんです。そのときに斉彬は、これから日本に洋式船が増えてくると、海外の船か日本の船かが分からなくなるので、見分けるための船印として「日の丸」を幕府に提言しています。提言が採用され、昇平丸も日の丸を掲げて江戸に上りました。これが日の丸を日本の船旗として掲げた第1号だと言われています。これも斉彬が日本という国を考えて行動していたことの現われでしょう。

その当時、ものづくりにかかわった人々は、本当に何もないところからすばらしいものを次々と造り上げていきました。そのエネルギーは、ただ上から言われたのでやったということではなく、やはり国のために自分たちで何とかしなければならないという高い志から生まれたのだろうと思います。残念ながら、そういう姿勢、志の高さは、現代のものづくりの世界からは薄れてきていると言わざるを得ません。薩摩ルネッサンス運動でも、ただ単に「こういうものをつくった」「日本の近代化に貢献した」という上辺の情報だけを伝えるのではなく、当時の人々の思い、志の高さも伝えていくことが大切でしょう。それは現代の我々にとっても非常に参考になることではないでしょうか。

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「地域らしさ」を出し、中央との格差是正を

西南戦争が起こったために明治期以降は根づきませんでしたが、斉彬が行った集成館事業は当時の日本の近代化において大きな役目を果たしました。また、薩摩はその外にも多くの人を介して日本の近代化に貢献しています。例えば石河確太郎という蘭学者は「紡績の祖」と言われており、日本じゅうの紡績工場建設にかかわっています。更に、絹産業の富岡製糸場の建設にもかかわりました。薩摩切子の職人も、東京の官営ガラス工場などで働きました。このように、当時、薩摩が日本の発展に果たした役割は大きいと思うのですが、今の鹿児島を見ますと、中央との格差が余りにも大きくなっている。消費地から遠いことや物流がスムーズに流れないなど、いろいろな問題によるものだと思いますが、それは地方としても現時点の問題として対応策を真剣に考えていかなければならないと思います。

対策として、地方の定住人口を増やすという考え方もありますが、実際には非常に難しい。そこで考えられるのは、いかに交流人口を増やしていくかということです。鹿児島でも今、農業立県というベースを持ちながらも、観光立県を目指して様々な取り組みを行っています。

島津 公保氏の写真私は、交流人口を増やすために大事なのは地域の個性、つまり「地域らしさ」だと思っています。「日本の顔が見えない」とよく言われますが、地域がそれぞれのアイデンティティを失ってしまっては、地域の顔まで見えなくなってしまいます。そして、地域らしさの核となるのは、その地域に積み重ねられてきた歴史でしょう。新しいものに頼るだけでなく、地域の持つ歴史をしっかりと発信していく。そして、そこに住む人たちもしっかりと理解し、認識して、自分たちの特徴、個性、アイデンティティとして誇りを持つ。そういうことが大事になってくると思います。

これからは、日本の観光客だけでなく、海外からの観光客、あるいは移住者も多くなってくるかもしれません。そういう人たちと交流していく中では、自分の個性はこうだ、相手の個性はこうだと、お互いに相手の違いを理解し合っていくことが大切です。そのためにも自らの個性をしっかりと確立しておくことが必要であり、薩摩ルネッサンス運動などの観光事業が起爆剤の一つになればと考えています。

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東京と地方の便利・不便は背中合わせ

私は昭和25年の東京生まれです。生後約1年は東京にいて、その後、1歳から3歳ぐらいまでは鹿児島で暮らしました。そこからまた東京に戻って学生生活を送り、民間企業に就職してからも東京で10年間暮らしました。その後、転勤して神戸で4年半過ごし、平成元年にまた鹿児島に戻ってきたということで、行ったり来たりしています。

私の経験から東京の良し悪し、鹿児島の良し悪しを考えてみますと、まず東京には何でもそろっているという良さがある。日常のものから文化的なものまで、東京でなければ見られないものも多いですね。ただ、東京への一極集中あるいは人口集中による弊害もあります。人気のスポットには想像できないぐらいの人が集中し、行き着くまでに非常に苦労しなければならない。そういうスポットが多いという利便性がある反面、過度な集中による不便もあるわけです。東京とはその様な二面性を持ったところだという気がします。

一方、鹿児島も同じように二面性があり、東京のような利便性はありませんが、自然が豊かです。時間の流れ方が違いますね。東京では人が歩く速度も速く、時間の流れ方が非常に速いのですが、鹿児島ではゆったり、ゆっくりと流れています。ですから、鹿児島と東京ではちょうど正反対の便利さと不便さがあるわけです。これはどの地方においても同じではないでしょうか。ただ、住みやすさといいますか、より人間らしい生活ができるのは地方だと思います。

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首都機能移転は道州制とセットで

鹿児島県内で見れば、約175万人の人口のうち60万人が鹿児島市に住んでいるので、ある意味では県内一極集中の状態です。また、九州というエリアで見れば、やはり福岡に集中しています。そういうところが全国にあると思いますが、ある程度の規模を持った都市がなければ、エリアとしての効果が弱まってしまいますので、中心となる都市は必要でしょう。ただ、余りに極端な一極集中になってしまうと様々な弊害が出てきます。今の日本における東京一極集中の状況がその典型です。余りにも東京に何もかもが集中し過ぎてしまっている。やはり機能分担、役割分担をして、その度合いを下げていく必要があるでしょう。そういう意味では、首都機能移転を行ってしかるべき時期に来ていると思います。

 また、首都機能移転は道州制とセットにして考えるべきではないでしょうか。国家や行政府の機能を、そのままの形で別の場所に移しただけでは、正直言いまして、地方にとっては余り魅力がありません。やはり道州制を導入し、地方は地方で自立できるという形にした上で、新しい首都機能をそれに合わせた形で構築していくべきだと思います。

例えば九州は今、かなりまとまりが出てきています。観光の面では、特に海外に対するインパクトを強めるため、九州観光推進機構などが中心となり、各県単位ではなく九州エリアとしてアプローチするという動きが出始めています。また、九州地方知事会もいろいろな意見を出してきていますし、自治体と民間が一緒になって九州地域戦略会議というものもつくっています。すぐに具体的な提案が出てくるという段階ではありませんが、九州全体としてまとまっていくという認識はかなり進んできています。

今、九州全体の人口は1,300〜1,400万人で、経済規模もスイスと同じぐらいで、国レベルとしても十分に成り立つ規模を持ったエリアだと思います。今や地方はそれだけの力を持ち始めているのです。そこに地方自治の機能をしっかりと持たせ、新しい首都と連携を取りながら新たな国づくりを進めていくべきだと思います。

日本の歴史を見れば、京都や奈良、東京など、首都機能が移転したときには政治システムも大きく変わってきました。首都機能移転は、今の政治システム自体を変える大きなチャンスではないでしょうか。ただ場所を変えるだけでなく、また、ただ道州制を導入するだけでなく、ぜひその両方を並行して進めていただき、国を大きく変えてほしいものです。

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