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「首都機能移転は文明史的スケールの選択の問題」


中西 輝政氏の写真中西 輝政氏 京都大学 教授

1947年生まれ。京都大学法学部卒業ののち、同大学大学院修士課程(国際政治学専攻)修了。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院(国際関係史専攻)修了。

米国スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学国際関係学部教授などを経て、1995年より、京都大学総合人間学部教授(京都大学大学院・人間環境学研究科教授を兼任)。

受賞は、1997年毎日出版文化賞、山本七平賞など。

最近の主な著書に、「日本の『敵』」「日本文明の主張」「二十世紀 日本の戦争」「いま本当の危機が始まった」など。



常に自己刷新しないと眠ってしまう

私は、日本の文化的な特質には、三つぐらい大事な点があると思っています。

一つはやはり大変に独自性が高い、ユニークな文化であることは非常にはっきりしている。このことに我々はむしろ誇りを持って、日本の進路を考えていくべきで、この点にもう一度気がつく時期なのだろうと思います。しかし、本質は、非常に柔軟性をあわせ持っているということも決して忘れてはならない。積極的に外からものを取り入れていく柔軟性、常に自信を持って外のものを取り入れていったときに、大変すばらしい国になっているのです。あるいはその逆で、「もう経済大国になった、もう欧米からは学ぶものがない」とか、あるいは「この日本は世界で一番すばらしい国だ、すべてにおいて世界に冠たる日本だ」というようなことを言った途端に、ひどい目に遭っているわけです。

この思い上がり、これはやはり日本という国は、常に自己刷新に努めないと、眠ってしまいやすいということが二つめの特質だと思います。私はこれを「縄文化しやすい」というのですが、ちょっとうまくゆくとアグラをかいて変動を嫌い、みんなで和気あいあい、つまり「全てこのままでよい」となりやすい。一万年も続いた縄文時代にあり余る水と食料資源があって、その点ではこんなにいい国はないのです。

しかし、そこでもう眠り込んでしまうと、思いがけない外からのインパクトを受けて、あわてふためくことになってしまう。これは元寇もそうだったし江戸時代の終わりもそうです。黒船来航であわてふためく、グローバリゼーションの招来であわてふためく、こういうことになるのです。

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400年の周期でやってくる大きな転換

そして三つめの特質は、日本の文明史には「400年の周期」があるということです。それは、日本という国はだいたい400年に一回ぐらいの割合で一つの世紀、20世紀なら20世紀の、非常に大きく日本の国と日本人が動き回る世紀(だいたい70〜80年から100年間続く)の転換点がやってくる、ということを意味しています。

20世紀はよくその前半は「戦乱の世紀」だったと言われます。後半は高度成長で、日本の国土の景色は一変しました。みんな農村から都市へと出ていって、「民族大移動」をしたわけです。しかし、こんな時代は、過去にもあった。それは16世紀、戦国時代と言われた時代です。水呑み百姓のせがれが天下人になる、こういうことが可能だったのも社会が本当に根底から変わってしまって、いわゆる社会的モビリティが極度に高まった時代だったからです。また戦国と言う通り、戦争ばかりしている、あるいは「キリシタン」など西洋の文化や文明がどんどん入ってきて、日本の国柄がすっかり変わってしまうのではないかと思われた時代です。新しい都市がどんどん生まれて、大変な大変動の世紀だったと思いますが、しかし、やはりあの「関ケ原」を境に新しい時代、新しい世紀に入ってくる。

世紀というのは西洋の単位ですから、これは余り関係ないのかもしれませんが、人間の歴史はどこも、まずだいたい70年から100年ぐらいで基調が変わっている。徳川家康が江戸に幕府を開く、これで世の中がかなり変わってしまった。人々がものすごいエネルギーを出した時代から、少し「一休みの時代」に入ってくる。「癒しの時代」と言いますが、江戸時代の初期というのは、やはり日本人が、もうちょっと落ち着いた秩序の中にしっかりと地に足を置いて、新たな文化、人生観、喜び、価値観をつくり出していきたいと思った時代でした。だから17世紀を通じて江戸幕府はうまく安泰の流れを作れたわけです。

しかし次の世紀に入ると、徐々に円熟から停滞に入り、その結果19世紀に大きな崩れへ向ってゆくわけです。そして20世紀は前に言ったように大変動を起して400年のサイクルが終わってゆく。

さらに400年さかのぼると、これは源平合戦の時代です。西暦で言えば、1100年代、12世紀というのは大変な戦乱の時代。古代が終わって、中世へと歴史が大転回してゆく過程で、日本じゅうで血が流れた時代です。そして13世紀から300年また同じパターンで進んでゆきます。こういうユニークな日本文明史の息遣いみたいなものをしっかりと考えながら、この国の新しい形を考えていくことが非常に大事です。

そしてこの400年という周期で言えば、日本の国柄の大きな転換にとって、やはり「首都」というものが非常に重要な意味を持っていることがわかってきます。今申し上げた400年の周期では、まさに日本の首都移転の周期とピッタリ重なってくるからです。

1603年、徳川家康が江戸に幕府を開いた、この時点で日本は江戸つまり東京を首都にしたのです。この点で東京は、この400年間ずっと首都で来ているわけです。今日、文明の視点から見てやはりあそこは一つの文明として「どんづまり」に来ているのではないか、と感じることが多くあります。少なくとも私の文明史観から言うと、そういう結論にならざるを得ないのです。

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集積が蝕む心の広がり

全てのインフラが余りにも集積してしまうと、経済の効率はいいのです。しかし、人間の精神、心、その広がりというものが一気になくなってしまう。情報がすぐ腐ってしまう。

そう言うと失礼かもしれませんが、我々関西の学者の仲間では、東京方面に出かけていくと、どこへ行っても同じような議論が変わりばえしない俗論として、転々と流通し、その結果一つの見方だけがアッという間に広がってしまう。そうなるともうなかなか異論が出てこないのです。そういう異論は、みんな欧米から向こうの雑誌あるいは新聞を読んで仕入れなければならない。こういうことは、奈良時代の末期にもあったのです。

「世の中を一新する」というのは、日本人の「心を一新する」ということなのでしょう。その伝でいけば、私が住まっております京都平安京、これはやはり桓武天皇から頼朝の鎌倉幕府開幕まで400年で、ちょうど命脈を終えています。たしかにそのあとも皇室がずっと京都においでになりましたから、我々が学校で習った歴史では、京都は「千年の都」と申しておりますが、これはやはり国全体の活力発展という意味合いでは、ちょっと違った見方をしなければなりません。鎌倉時代から400年ぐらいは中世、封建時代と言われますが、この400年間は全国に荘園ができて、日本人のエネルギーがすべての地方へ拡散していった時代、つまり、もう「日本じゅうが"首都"であったと言ってもいい時代」かもしれません。

それに対して、やはり徳川幕府以来の400年は、初めは東国武士団、あるいは土地と結びついた集団が、江戸を首都にして明治以後も藩閥と官僚支配の中心となって、日本の近代化にも力を及ぼす。いろんなエネルギーを発揮していくという、文明的特質の時代だった。

しかし私の見方からすれば、この400年の周期により、いままさに様変わりしていかざるを得ない、大きな時代の変化の中に来ている。現在、この国で首都機能移転問題が浮上するのは、まさしく文明史的必然性をもっているのです。

今こそ日本の文明史的な元気を取り戻す、そういう意味でもこの21世紀初頭の首都機能移転の試みは、非常に重要な問題として、今我々の前につきつけられていると思います。そして私個人としては新しい日本の中心をつくる仕事ということを、財政の問題とか他の目の前の問題や経済政策の議論というレベルを越えた大きな日本史の縦軸で考えるべき、この国の文明史的スケールの選択なのだ、ということを強く訴えたいと思うのです。

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