ホーム >> 政策・仕事 >> 国土計画 >> 国会等の移転ホームページ >> 国会・行政の動き >> オンライン講演会 >> 「首都機能の環境」

国会等の移転ホームページ

「首都機能の環境」


尾島 俊雄氏の写真尾島 俊雄氏 早稲田大学 教授

1937年富山県生まれ。

早稲田大学大学院博士課程修了、同大理工学部建築学科教授、理工学部長。日本学術会議会員。

専門は建築・都市環境工学。東京大学客員教授、日本建築学会会長等を歴任。

著書に、『絵になる都市づくり』『未来住宅』『千メートルビルを建てる』など。



国家元首の所在地が首都か

日本の国が国家としての形態を整え、国の宮処としての所在地を明らかにしたのは、いわゆる平城・平安京からであろう。大和の朝廷は中国の長安の都に倣って都市の中央に宮処と市場を配置し、条・坊で区画した都市を計画的につくり、大和の「くに」は「くに」のまほろばとして、日本国の首都として機能させた。

鎌倉時代に至ると武士が政治・行政・司法の機能を朝廷からとりあげ、関東に移した。しかし天皇の御所は京都であり続けたことから、国家の首都は何れにありやと蒙古襲来時の国家外交に当たって、鎌倉と京都がこの国の主権をかけて争った。この時、国家元首としての天皇の存在と幕府の首都機能の位置づけは、明らかに分かれたと考えられる。すなわち首都機能は鎌倉にあり、首都は京都であった。

江戸時代に至って、首都機能と首都の存在はさらに明確になり、天皇の御所としての京都は日本の首都であり、徳川幕府の拠点としての江戸は首都機能の所在地であった。こうした江戸時代の首都と首都機能の二都分権から、明治政府は開国と文明開化による威信を達成するためにもグローバルスタンダードに沿って天皇の御所を江戸に移し、江戸を東京と改名し、名実共に日本の首都と首都機能を一つにすると共に、世界の帝国と競ってアジアに覇を唱える大日本帝国の首都として、東京に全権力を集中させ、その結果として、東京の存在は異常に巨大化するに至った。あらゆるものを東京に中央集権化した明治時代の版籍奉還は、江戸時代の300幕藩の領土であった版図と領民の全てを天皇の下に配置した。さらに日本固有の領土や領民の権利ばかりでなく、植民地を拡大してアジアの帝都としての機能をも東京の天皇の下に集中させた。この過剰な中央集権体制によって、東京という首都圏が形づくられ第二次大戦に至ったことを思えば、この中央集権体制は、日本人の平和にとって、またアジアの諸国民にとっても不幸な結果を招いたことは明らかである。しかし、第二次大戦後もこうした流れは元首不在のまま戦災復興と称して東京への中央集権を機能させて、日本の産業を発展させ、経済成長に寄与した。しかし、国家としての基本であるこの国のあり方を解決しないままにグローバルスタンダードとのコンフリクトが起こって、今日の首都と首都機能の分離論が俎上に乗り始めたとも考えられる。すなわち国家元首を象徴的存在にしておいても、東京は戦後50年、首都も首都機能地も一体であったことから、その違いを明確にする必要もなかった。むしろ日本の発展にとって国家を超えた産業の集積による巨大な東京首都圏が機能していたからであった。しかし、今、その限界が見え始め、首都とその機能の問題を解決せずして、この国の行方が見えなくなったのは、鎌倉時代の蒙古襲来と江戸幕府のペリー来航に次ぐ第三の国難が到来しているからとも考えられる。

ページの先頭へ

国会等の所在地は首都機能地か

このような歴史的経緯をふまえて、今日の日本は元首不在の首都東京と同様、地方の市町村にあっても主体者は存在するのかについて考えてみる必要があろう。自治のない地方自治体と呼ばれて、3割自治体の首長では本当の都市づくりはできない。同様に、主体者なき首都と首都機能の内容が不明のままに過剰なまでの巨大化と中央集権化の行き過ぎによる非効率、さらにはその危険性から、まず国会等の移転が決議されたと考えられる。少なくともこの移転議論の中で常に象徴天皇の所在地とその移転問題は常に論議の対象からはずされていた。皇居を京都へとの帰還論は別にあったとしても、皇居の移転論は今も全く行われていない。少なくとも象徴とはいえ、日本の国家元首は天皇と目されている以上、首都移転を国会で決議したのではないことを確認する必要がある。国会が決議した背景からくる国会等の移転論は、鎌倉時代の武士ならぬ今日の権力者である産業界による新幕府の開設とその所在地選定の議論と考えればわかりやすくなる。この場合、明らかに天皇の御座所としての東京が首都であり、移転した先の都市は新幕府機能としての首都機能を整備することであろう。各国の大使館がどこに立地するかと考えると、今日でも皇居において大使との接見が正式な外交行事と見なされているとすれば、世界中の大使館が依然として東京に存在し続けるであろう。とすれば、日本の新しい首都機能の政治・行政中心の都市はどのような形になるのか。各国の大公使館の役割やその規模についても、当然ながら日本の首都と首都機能地との分担如何で対応されるであろう。地方分権論にも見られる道州制や廃藩置県に対する廃県置藩論のような思い切った地方への分権が進めば、国会や国の行政組織は一段とスリム化され、その規模は自ずと見えてくる。

ページの先頭へ

新首都機能の都市環境

以上のような仮定から、新幕府機能として日本政府と行政の首都機能の移転は、国会等の施設と最小限の行政機関となり、せいぜい一万人の都市規模と考えられる。例えは良くないが、満州族の皇帝が清国の皇帝であったとき、北京の他に夏の離宮として熱河承徳に都をおいた、そのスケールを考えれば理解できる。

わが国も地方分権と民間への公権力の移行が進むに従って、国家の行政機能が格段と簡素化され、今考えられている10分の1程度の公共投資で十分な新首都機能の建設が可能で、非常時における現状の首都機能のバックアップ投資と考えれば良い。今日の経済不況策として、アメリカのフーバーダム政策同様、目に見える形の公共投資として非常時新首都機能に1兆円程度の投資価値はあると思える。その立地如何によっては数兆円のそれなりに意義ある新首都機能と新産業用民間投資も予想できる。また日本の世界戦略としても、電子政府としての可能性は有望である。face to face は東京首都や地方政府に一任しつつも、日本と世界各国の真の外交や経済戦略は電子情報処理のインテリジェンスが決定的に優劣を決する時代である。『新しい革袋には新しい酒』のことわざによって、徹底的な電子情報都市としての環境を整備した新都市の環境整備が望まれる。

ページの先頭へ

日本の新しい首都機能像

日本は建前と本音を使い分ける外から見てわかりにくい国で、それが日本の文化であるとすれば、国家元首はあくまで主権在民の憲法に基づく国民であり市民である。とすれば、「地方」に、そして「私」に極力分権し、中央における三権の役割を少なくすることこそがわが国の行き方であろう。戦争を放棄し、平和国家に徹した日本のあるべき姿、理想郷としての日本の都市像を考えるとき、日本国の首都機能は極めて簡素で、それでいて的確な情報を地方政府や国会に送り、また世界都市であり首都東京をバックアップするに十分な首都機能をもつ行政府とその官僚たちの住居や都市環境をつくることである。またそのような首都機能であれば、私は一刻も早く東京から新首都機能を分離して建設することに賛成である。

いずれにしても、首都と首都機能のあり方を確認し、皇居の移転は伴わないことを明確にした上で、首都機能としてどの機能を移転するかを明らかにする。その上で初めて移転先の選定があるべきである。日本の国家のありようは、八百万の神々の国らしく、多様な形での日本の神の存在と文化と元首のあり方を世界の文明に照らして理解された上で、新しい電子政府としての新首都機能の立地を考えるべきである。日本のこれからの都市像を首都や首都機能のみならず、これから選別され淘汰されるであろう地方都市についても明らかにする段階に来ている。その上で、グローバルスタンダードに照らし、電子政府としての新幕府開設地としての今度の国会等の移転地を検討すればよい。

結論として、日本の首都はあくまで東京であり、元首は象徴的存在としての皇居の所在地である。その首都機能の安全性や効率性からみても、新都市機能は政治改革や産業構造の抜本的改革は共に急務な国情から、一刻も早く予定されている候補地へその最小限の政治と行政機能を移転させる。これは、小泉内閣にとってこの国の有り様を国内外に示すに緊急なテーマであり、チャンスのように思える。具体的な電子政府の首都機能は、日本の建築界が開発中の高さ1,000mビル1棟で可能である。国会や行政、宿舎やホテル機能の全てを5年間で建設する技術が既に日本にある。それを活用できる候補地をまず選定するのは如何であろうか。

ページの先頭へ