ホーム >> 政策・仕事 >> 国土計画 >> 国会等の移転ホームページ >> 国会・行政の動き >> オンライン講演会 >> 「首都機能移転によって世の中を良くしてきた日本人」

国会等の移転ホームページ

「首都機能移転によって世の中を良くしてきた日本人」


荒俣 宏氏の写真荒俣 宏氏 作家

1947年東京生まれ。慶応大学法学部卒業後、日魯漁業に入社。コンピューター・プログラマーとして10年間のサラリーマン生活をおくる。その間、紀田順一郎氏らと、雑誌「幻想と怪奇」を発行。英米の幻想文学などを翻訳しつつ、評論も展開。独立後は翻訳、小説、博物学、神秘学などジャンルを越えた執筆活動を続け、その著書、訳書は300冊に及ぶ。日本大学研究所教授。代表作に350万部を越える大ベストセラーとなった『帝都物語』(全6巻 角川書店)、古今の生き物に対する博物学の集大成といえる大著『世界大博物図鑑』(全7 平凡社)などがある。また、『異都発掘【新東京物語】』集英社、『鬼から聞いた遷都の秘訣』工作舎、『シム・フースイversion4.0闇吹く風』角川書店など、都市づくり、首都機能移転に関する著書も多い。



経済第一主義で危機管理を意識してこなかった東京

東京は変化を続けてきましたが、ここ10年くらい前までは、何の最終目標に変化し続けているのかがわからないというのが実情ではなかったかと思います。東京を大都市にするためにインフラ整備をし、人が増え、地価も上がり、右肩上がりの経済主導の都市のスタイルをつくり上げようというのが、戦略だったといえばいえるでしょう。そのため、経済中心となり、それ以外の要素は「付録」という扱いだったと思います。

一方、阪神・淡路大震災が起こってから、「危機管理」という問題が都市計画の新しいテーマになっています。その少し前から「ごみ問題」や「環境問題」が出てきて、これらが重層的にからまりあい、ここ10年くらいは東京を含めて、発想を変えざるを得なくなったと思います。しかし、現在のスタイルは、ある意味では江戸・東京が開府して400年(家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開いたのが1603年ですから、ちょうど400年です)の中でできあがったものですので、そう簡単には「危機管理」を重視したスタイルに変わることができないです。

都市のつくりというのは、洋の東西を問わず、軍備が目的だったのです。cityというのは、citadel:「砦」という意味と全く語源が同じなように、軍備都市です。東アジアでも、京都の「京」という字は軍備都市あるいは城砦をかたどっています。軍備のにおいがあまりしないのは「市」という字ぐらいでしょう。東京も「京」ですから、前身である江戸から軍事都市の意味合いをもっていたと思います。

ところが、戦国時代が終わった以上、軍備都市を今さらつくってもしょうがないということで、江戸には「市」の部分がつけ加わることになりました。特に、戦後の東京は経済でいくしかないということもあったのだと思いますが、その「市」の部分を極端に発達させていきました。しかし、「市」はもともと商売をするための場所というだけではないのです。ここに集まって出会いがあり、ここで色々なイベントがあり、情報交換がありました。もっというと処刑や即位の儀式、さまざまな祭りなどがみんなここで行われていたのです。広場であ集合所であり避難所ですね。しかし、東京では「市」の中の経済的な要素だけが肥大化し、アンバランスになってしまい、阪神・淡路大震災ころから徹底的に批判されるようになってしまいました。

ページの先頭へ

危機管理のうえからも分散論を

国で道路などの設計や施行をしている人たちが、阪神・淡路大震災で相当ショックを受けたといいます。そこから行政、特に町づくりなどのシステム見直しが行われるようになったのでしょう。そこで大切なものを分散管理するシステムが言われだし、コンピュータの情報も電話網も預貯金すら分散されるようになったのですが、国の機能を分散させる首都機能移転の問題だけは議論が盛り上がりませんでした。

恐らく、お金がなくなって公共事業をこれ以上やってもむだ遣いなだけだという大きなキャンペーンが効いたせいもあるのでしょう。これだけ危機管理の話が出ているにもかかわらず、例えば国会周辺や官庁の心臓部などをどのように危機管理するかということが話し合われていません。個別には、首相官邸のデザインなどを見てもそれなりにリスク管理は考えられているものの、政治の機能保持システムについてどうやるかということや、肝心の日本の行政や経済が集中しすぎていることに対する改善については一般的な話題にならないのです。これは、僕から見ると非常に不思議なことだと思います。

ページの先頭へ

積極的な町づくりの実験を行い、首都機能移転を成功させた江戸

歴史的に見ると江戸は無理やりつくった町なので、この都市を機能させるために、それまでの日本ではどこにも行われなかったようなシステムを随分考えました。堀割も碁盤の目のようにはせずに螺旋を描かせましたし、放射状の道をつくったり、そのほか、上水や水道を引いたり火除地をつくったり、天守閣が燃えたらやめてしまったり、一般の人々の暮らしや、環境の生物のことまで、ほかの都市では考えられないような画期的な方法を実践してきたのです。

例えば、火事を防ぐためのさまざまな建築改善から、桟瓦という瓦が発明されました。それまでは城は銅瓦です。ビカビカ光る屋根でしたから、相当丈夫な家にしないとつぶれます。お屋敷には本瓦が載せられましたが、重くて高い。そこで発明されたのが、今でも使われている一枚板の軽い桟瓦です。この瓦を解禁し火事を防いだのです。これなどは画期的な方法です。

防災にしても、あの大きな道路などにしても、それから上水道にしても、江戸をつくるために、全く新しいシステムを思い切って実験しました。その結果、非常にうまくいったわけです。

江戸に首都機能を移転してから、武士の大名クラス、つまり簡単に言えば地方の知事クラスを何年かに1回、江戸へ来させるようなシステムをつくり、半分中央集権的なのに、あと半分は自治に任せるという、これもかなり新しいシステムを組みました。

このシステムを組むにあたり、最初の都市設計家だった木原吉次らは、たくさんの人間が自然に集まってくるような大きな入れ物をつくりました。これは京都とか大阪には存在しなかった特色です。そのために、まず道路整備をしました。あのような田舎に、当時京都の都大路の朱雀門の通りよりも広い18メートルの道をつくりました。また、食糧供給のために埋め立てをしたり、川の流路をつけ替えたり、さまざまな大工事を実行しました。これらは、全く新しいタイプの都市づくりで、失敗するかどうかはわからないけれども、とりあえず積極的に実験したのです。

さらに、すごいと思うのは、そのために技術家を日本中、世界中から集めていることです。まずは先進の関西から、技術者を引き上げてきました。佃の漁師から始まって、中井正清のような京の棟梁大工まで呼び寄せてきたのです。これも、ほとんど全部トップクラスです。また、明治時代ではお雇い外国人が随分来たのですが、徳川家康もお雇い外国人をたくさん集めていました。イギリス人やオランダ人などを集めているわけです。そこでは実測図をきちんとつくっていました。それまでは洛中洛外図を見ても、碁盤の目のようにつくれば、だいたい実測と同じような効果があったのですが、それをきちんとはかって都市計画の一番の基本線にしたというのは、大久保長安や伊奈忠次のような代官頭は、トップ政治家でありながら大テクノクラートでもあり、技術については伊能忠敬クラスのすごさだったと思います。

江戸は、このように画期的なことを随分やりました。目に見える事業と、目に見えない制度としてのシステムを同時につくったということが重要なのではないかと思いますが、いずれにしましても首都機能移転を何度も成功させました。その広大な実験は、結果的に恐らく9勝6敗くらいでうまくいったと思います。9勝6敗だったら、相撲でいえば殊勲賞です。殊勲賞クラスの江戸のデザインについて、だから我々は今、世界的な江戸の叡智に関心を持っているわけです。

ページの先頭へ

首都機能移転が得意な日本人

このような歴史を踏まえると、日本人は首都や首都機能を移転させることがすごく得意なのではないかと思っています。これほど経験を重ねた民族はあまりありません。歴史の長い中国でさえ成功した首都づくりは多くありません。北京が頭抜けています。時々、南京や洛陽や長安なども発展しましたが、だいたいこの1000年くらいは北京です。このように、ほかの国では一つ決めたらその場所を動かないようなスタイルをとっている中で、日本ではここ2000年だけでも首都機能を相当動かした経験を持っています。なおかつ、首都機能移転については、江戸、鎌倉を初めとしてかなりの部分で成功させたノウハウがあります。その秘訣とは何だったでしょうか?

ページの先頭へ

アンバランスに気づかない東京

今の東京は、確かに人は次々と集まって、どこを見ても東京出身者よりも地方出身者のほうが多くなっていますが、真の意味で「住民」を育てることができなかったために、とてもアンバランスな状況が起きてきています。例えば中央区や港区あたりだと、そこに住んでいる市民はいなくなって、郊外から出てくる人たちばかりの昼の世界になっています。

ところが面白いことに、江戸は封建制度でしたから「住民」の世界です。住民は仕事と暮らしをもつ人のことです。しかし「住民」でない人々が大量に発生すると「人返し」政策で地方へ人を戻し、それがダメなら例の大岡越前守や「鬼平」が尽力して仕事を斡旋する場をつくりました。昔だったらバランスをとって都市生活をし、満杯になったときは何となく「もうこれではだめだな」という暗黙の了解がきちんと生まれるような危機感があり、「この辺でそろそろ、都市のバランスを戻さなければならない」という意識が、少しずつ醸成されるような雰囲気がありました。それは江戸っ子が江戸の「住民」だったからです。しかし、戦後、アンバランスにあちこちで勝手なことをしてしまったために、一つの場所では極端なことが起こり、また別の場所では違う極端なことが起こることによって、アンバランスとアンバランスで打ち消し合うと錯覚してしまい、「まだ何とかなるのではないか」という身勝手な甘えが生じました。全体を見ずに、一部だけを見ているような再開発が色々な場所で行われていることが一つの例です。

この再開発というのは、昔は天変地異があったり戦争で焼け野原になってしまったりしたときに実施されたのですが、今はそうではなくて平時でも常に行われています。ですから、東京のスタイルはまだまだ変わっている途中だと誤解されたのではないかと思います。

今までずっと9勝6敗できていた大都市が、もしも機能不全になれば、ふつうは廃止です。そのほうが再生の効率がいい。横綱であればそろそろ引退するわけです。今の東京は、この先引退しかない横綱なのに、自分はまだ大関だと思っているのです。アンバランスなために太り過ぎてしまったとか、片足をくじいて3場所連続休場してしまったために小結まで落ちてしまった、というふうに楽観しているのです。大関ならば、滑ってしまっても引退する必要はないので、また元気になれば、まだいけるのではないかという期待感があるのではないでしょうか。完全に再起不能になってしまえばまた別なのですが、経済力などが集中しているために、傷を治したり、リハビリテーションを受けることができて、ひょっとすると立ち直るのではないかと思われているのです。

東京は政治的にも行政的にも別の国みたいなところがあるので、やろうと思えば独自にできることはたくさんあります。東京は日本の主役ですから、東京が傷つけば全国に影響します。でも、それに気づかず、東京の個々の傷を治す作業に熱中し、引退の道を忘れているのです。

ページの先頭へ

日本人のもつサイクル感

基本的に日本の首都のあり方を見ると、一つのサイクルに則しているのだとの思いを強くいたします。日本というのは変な国で、中国の影響があるのでしょうけれども、干支や十干十二支のようなものが一回りして、一つの時代が終わるというサイクルの考え方を持っているのです。これは一番小さくいえば1年で、新年になるとすべてが改まって、神様も新しい神様が来る。それまでの神様は、いいも悪いもとりあえずみんな捨てて、新しい神様が来るので、その1年の神様のためにお年玉をあげたり、松で飾って迎えたり、さまざまなことをやるわけです。

これをもう少し大きなサイクルでいうと、20年サイクルだったり、60年サイクルだったりします。60年たつと人間も還暦になって新しい人生を歩んだりします。このベースには星や暦の問題が絡まっているのですが、星の運行に従っていて、暦の一巡が終わると一つの時代が終わる。一つの時代が終われば神様が変わるようにさまざまなものが変わる。この変わり目をものすごく重要視していたのです。それは、昔、世界的にそうだったのだろうけれども、どんなものも生まれてから成長して死を迎えるので、永遠に続くものはないということが一つの概念にあります。永遠に続くものがあるとしたら、それは星であったり、あるいはサイクルの連続であったりするので、どこかでそれはいずれ変わるのです。

特に日本のような四季折々、毎シーズン眺めが変わってしまうような国土であれば、特にそういうところがあるわけです。これに応じて何が変わるかといえば、元号や暦が変わるわけです。昔はそうやって、神様の居場所も変われば、さまざまなものが変わりました。そういう中で都市も移り、人心を一新させたわけです。

かつては星や暦がそういったものをコントロールしていたのですが、そのうちに人間が政治でコントロールするようになってきて、悪いことがあれば、まず元号を変え、そうすると世界が改まるから、今までの悪いことは断ち切れるであろうと考えられていました。あるいは、非常にいいことがあった場合には、いいことが始まったところから新しい世界にしてしまえば、あとはそれが続くだろうということで、新しい元号をつくり直していました。

ページの先頭へ

首都機能移転は国民のための動機づけが必要

新しい天皇が即位したりすれば、これはいい時代になるに違いないというので、元号が変わったりしました。逆に、何か悪いことが起こっても元号を変えて、非常にいいことが起こるよう祈るのです。というように、だいたいこの3通りで世界を変えていました。それに応じて、それぞれの天皇がいる場所や、あるいはその時代にふさわしい王者がいる場所が新しい国の中心に選ばれ、それは時代の象徴になります。もちろん新しい町に移るときは、確かに住人にとっては迷惑な面もあるのです。

『方丈記』を読んでもわかるとおり、みんなで牛車に家財道具を積んで、あっち行ったりこっち行ったりして、今までなれ親しんだ土地から離れさせられて、また開墾からしなければいけないのか、と不平を鳴らしたように、遷都は住む人にとってはとても大変で厄介なことだったのです。

にもかかわらず、あえてそれを実行するためには、新しくつくる都市において、その苦労に見合うような新しい実験やシステムを加えないといけないのです。同じ京都をまた別のところへつくってもしょうがないわけだから、レベルアップしたり、位置づけを変えたりする必要があるのです。鎌倉にしてもそうだし、江戸などは最たる例であり、それまでとは考えられないような都をつくっているのです。このようにシステムとして変えるというノウハウは、日本人がずっと昔から培ってきて、移転するときのさまざまなデメリットを吸収してきたのだと思います。

今回の首都機能移転においては、日本でいろいろな問題や大震災が起きて、これは危ないということがみんなにわかり始めてきたので、移転したほうがいいという環境は恐らくあると思います。あと一つは、移転しようという動機づけの問題です。

歴史上の例では、平城京から平安京に移るときには、あまりに祟り神が多くてやっていられないという問題と、本来ならば政治家がやる政治を坊さんに奪われてしまった、という問題がありました。このため、桓武天皇は新しい都をつくることを決意し、寺のない町をつくったのです。都の中に入れたのは最終的に空海一人で、天台宗でさえ比叡山の山奥へ追い遣られたわけです。

坊さんを都に入れなかったというのはすごいことです。当時の坊さんがみんな悪いとは言いませんが、政治家になっていろいろ欲を出してきたので、首都機能移転をきっかけにこれらを排除したのです。首都機能を移転する場合には、それを国民に受け入れてもらうための動機づけが必要でした。それによって、家財を運んだりする厄介さがあったとしても、もう少しチャンスが広がったり、あるいはもう少し政治の風通しがよくなったり、よりよい世界になるのではないかという感じを抱かせたのです。

平城京の場合は、土地が狭くて、かついい場所には坊さんだらけ、寺だらけだったのですが、平安京に移転させて広々とした土地で、あちこちに公園があって、しかも今度は一般の市民のためにいい場所をきちんと開放するし、なんといってもいい水が流れているなど、さまざまなメリットがあるということを提示をしました。

江戸の場合には、平安京の主役だった貴族、つまりお公家さんをシャットアウトし、武家地と町地をかなりはっきり線引きしました。武家は確かにいい場所をとったのですが、商人や職人たちの活躍する場をかなりつくりました。それと、何といっても、昔のピラミッドと同じで、巨大な町をつくるぞというメッセージは、ビジネスチャンスがあるぞということを示したのだと思います。

江戸は、京都に比べればとてつもなく大きな町で、しかもここは湿地帯なので埋め立てからやらなければならないために、大工事をともないました。ゴールドラッシュと同じで、あそこの新開地に行けばもしかしたら一旗揚げられるのではないかという期待感を持たせました。

また、家康がいろいろな技術者をたくさん引っ張ってきているから、あそこへ行けば技能を学べるかもしれない、しかも未開地だからこれからいろいろなものをつくるので、仕事の口がたくさんあるかもしれない、そして何より、公家がふんぞり返っている京都に比べ、江戸は公家を呼ばなかったので、住みよい町になるだろう、という動機づけがありました。当時、武士というのは一応、倫理的にはしっかりしている連中だと思われていて、家康のころの江戸の町は、清潔で人徳の高い町をつくるというのがうたい文句で、質実剛健・その日その日を充実して暮らしていけるような町をつくろうとしたのです。

新しい町をつくるために、そのような明快な方向性を出したために、武士も行く気になったのだろうし、これからはおれたちがつくる町なのだ、という気持ちにさせました。公家を呼ばない、坊さんを呼ばないなどというのは、当時非常に大変なことで、絶対反対があったのだろうと思いますが、あえてそれをやって、新しい町づくり実現したのです。

今回の首都機能移転において、目指すべきものを明快に打ち立てて、日本人がずっと培ってきた移転のノウハウを活かして、新しいコンセプトの町をつくるという、歴史上の実験だと人々が認知すれば、すなわち、これは東京とは違う、新しい町をつくる実験だというような位置づけができれば、もう少し人々も理解するだろうとと思います。

現状を見た限りでは、何とか新首都を引っ張ってきたいという地元の陣取り合戦のようなものにしか映らないので、今まで日本の首都機能が移転した時のとんでもないからくりというものがないのです。それをどのようにして出すかということが大きな問題になってきていると思います。そのため、思い切ったレイアウトなどがそこに必要になってくるのでしょう。それが出てくれば、かなり納得してもらえるのではないでしょうか。

費用面でみても、今の国費の規模を考えれば、やりくりすれば首都機能移転は実現できます。当初は政治の機能だけを移し、後からいろいろなものが付随してくることによって、ビジネスとして自然と流れ込んでくる可能性があるでしょう。

江戸のときに大ぶろしきを広げて公家のいない町の設計を示したり、京都が坊さんなしの都の設計を示したり、明治維新が全てを西洋化するというコンセプトを示したのと同じように、次のコンセプトを打ち立てる必要があると思います。

次の子孫のためにモデルになるようなものをどこかにつくらないといけないと考えた場合、今既にあるところを少しずつ変えていくというのは、非常に重要なことなのだけれども、やはりそれを象徴するような特化したシンボルをどこかにつくる必要があると思います。それはただ単に危ないから分散したというだけではなくて、一つのシンボルにしないといけないと思います。一つのシンボルをもとに、将来地方都市にもその思想が反映されていくような流れをつくれるかどうかが非常に大切だと、最近特に思います。

ページの先頭へ

首都機能移転の際に「何を切るか」「何をつけ加えるか」を明確に

首都機能移転にあたって明確に示さなければならないものは二つあると思います。歴史に学ぶとすれば、まず「何を切るか」、それから「何をつけ加えるか」です。今まで切るほうについては非常に大胆なことをやってきました。今度の移転で、「何を切るか」というと、ここ10年くらい日本人が一つの反省をもった「経済重視主義」や、企業と政治家の癒着の構造などでしょうか。「何をつけ加えるか」という問題は、環境やビオトープなどだろうと思います。新しい自然とのつき合い方のモデルをつけ加えるということが有効なのではないかと思います。

そして、何かを切り、何かをつけ加えて、何かが共通するのです。その共通する要素は、今回の場合には政治活動の場、つまり、ポリティカル・シティをつくるという構想です。ポリティカル・シティにとって一番重要なのは何かと考えていくと、この機能と一緒に持っていくもの、切らねばならぬものというのは、おのずと決まってくると思います。

ページの先頭へ

首都機能受け入れにあたって覚悟とビジョンを

切るものとつけ加えるものを明確に示すことが、新都市について人々のイメージの形成につながる一番重要なことだと思います。何かがAからBへ移転するということは、まさに東京が持っていたおいしい部分の一部が地方へ転がり込むというイメージだけにしかつながりません。しかし、切るものがあるわけですから、受け入れるほうも覚悟が必要です。それは地方にとっては決定的に厳しいものかもしれません。それでもなおかつ受け入れる気があるのかどうか、ということです。

誘致合戦をしているほうも、その辺は非常に甘く考えているのではないかと思います。もしかしたら政治機能はものすごく厄介な荷物かもしれません。30年くらい先にはその厄介な荷物が、都市をバランスよく発展させるコアになるかどうかが問われています。

政治家がそこに集まることによって、一体どういう新展開が生じるかということを、誘致しようとしている三つの地域は考えねばなりません。そこをはっきりさせられるところが、新しい都市機能を引き受ける資格のあるところだろうと思います。このくらいの広さがあってこの場所にこうつくります、というだけでは、やはりだめだと思います。

ページの先頭へ

首都機能移転は東京にとっても大きなチャンス

東京にとっても、首都機能移転は新しい東京に生まれかわる非常に大きなチャンスだと思います。今の東京は政治家が集まっていることで恩恵に浴している部分はあるでしょう。またそこが行政の中心であるために、いろいろな人が集まってくる動機づけにはなっている面もあるでしょう。しかしそれは、もしかしたら奈良における坊さんかもしれない。坊さんが一気にいなくなるということは、東京が平安京になるチャンスだと思います。

新しいものというのは、何もないところのほうがつくりやすいです。それは、中国の例を見ればわかるとおりです。特にネットワークなどをつくるときには、何か残っているととてもやりにくいということが昔から言われています。そのため、なるべく何もないところのほうが実験をやりやすいということが、恐らく言えると思います。

例えば、国政が真ん中にあると警備の問題も非常に大変なわけです。警備にかけるコストや安全性から考えても、もしかしたら首都機能みたいなものは独自にそのための都市をつくったほうが、東京にとってもメリットがあって、もう少し住みやすかったり、もう少し風通しがよかったりするのではないかと思います。あるいは、そこにかけていたコストを、もう少し市民の健康や安全のために割り振ることができるかもしれません。

東京は今、「首都機能移転をすべきではない」という考えですが、現行の色々なメリットを温存すれば確かにできないでしょう。しかし、そのメリットをあえて切り捨てる形で展開することによって、新しい東京ができる。現に日本というのはそのようなことを何度もやってきたわけですから、やれないことはないわけです。それをやらないというのは、むしろ日本人のよき都づくりの伝統を放棄していると言っても言い過ぎではないと思います。東京にとっても大きなチャンスを逃すのことになってしまいます。

今、東京はとてもアンバランスになってしまったので、現在はこのアンバランスを是正する非常にいいチャンスでもあります。日本にとっても、東京にとっても一つの実験でしょう。21世紀は何か実験をしないと、もうだめだと思うのです。その実験を行うチャンスが到来していると思うのです。その実験もここ30年で解決するようなものではない大問題にチャレンジしないと。ターゲットは100年先ぐらいのことを考えないといけません。例えば不良債権の担保になっている多くの土地。これを安く手に入れられるとしたら、実験の舞台がととのえられるのですから、非常に意義あることでしょう。

ページの先頭へ

最新の情報インフラを構築し、情報管理の先進モデルに

もちろん、政治機能を独立させる新都市だとすれば、政治家にも年の半分以上は新都市に居ついてもらわないといけないと思いますし、居つかせる方法がいると思います。政治家が居つけばそれに伴ってさまざまな産業やサービスが必要なので、自然とそこにはビジネスチャンスが生まれます。そのためには情報センターも一緒に持っていく必要があると思います。

昔のように大量の書類を運ぶ必要はあまりなくなっているので、新首都にはデータベースを常時管理する情報センターが必要となってくるでしょう。これをつくるとなれば、国が進めていこうとしているIT産業化にとって、非常に大きな起爆剤になると思います。今、ITといってもゲームやインターネットが成功していれば、当面はそれ以上のことはやらないと思います。それ以上のことをやるようにするには、何か大きなプロジェクトがないといけないと思います。

産業革命の歴史を見ても全く同じです。水力を用いた技術はほとんど遊びから始まりました。典型的な例が噴水とかからくりです。ルネサンスになって、さまざまな庭や宮殿ができ噴水がたくさんできますが、あれは水の力を利用すれば面白いことがたくさんできるということで、一種の水芸をみんながやり出して庭園や宮殿が大発展し、それが都市のイメージをつくるわけです。だからどこの都市も噴水がたくさんできているのです。当初は言ってみれば遊びに使っていたわけですが、この水を湯に変えたら、どうなるでしょう。湯から得られる蒸気をエネルギーとして活用することによって産業革命が発生したのです。今のITなどもゲームとしては盛り上がっているのですが、これは噴水をつくっているとの同じです。噴水は町を楽しくするのですが、我々の生活を一変させる産業に結びつくためには、水が蒸気に変わらなければならないと思います。この蒸気に変える最大のポイントは、税務から何からすべての国のサービスがITを介して行われるということで、そうでなければ、IT技術は文化、遊びのレベルでとまってしまうでしょう。ITが行政や生活を中心とする上水道のようなインフラになるためには、やはり行政サービスなどで活用しないといけないと思います。

首都機能移転のときには、インフラの問題が重要ですが、その中でも情報インフラは一番重要になってくるので、大きな情報センターを構築する必要があると思います。このようなセンターは常時保守をしなければならないので、その技術を集中的に研究する必要があります。今まで軍備というものに日本は比較的お金をかけませんでしたから、それ以外の防備についても右へ倣えであまり関心を持たなかったかもしれません。しかし、日本は情報の保守については世界一の研究をするのだというような目的を立てればいいのです。

また、政治家がいかにクリーンに活動してくれるかということが、新都市の目玉としてとても重要になってきます。例えば新都市にはキャッシュレス機能を完備させ、現金を持ってきてはいけないというシステムにして、政治家の全経済活動をガラス張りにするようにすれば、政治家も否が応でもクリアになると思います。どこから幾らもらったかということが、きちんと記録に残るので、後から「あのときもらったけど返した」という言いわけはできなくなるわけです。

パーフェクトなシステムはないので、悪い人も時には出るでしょう。しかし、悪い人がすぐ判明して、罰せられるということが明確に見えるようにシステムをつくっていかなければいけないと思います。及び腰でやってはいけません。そのシステムが首都機能移転の問題にきちんとリンクして、我々の生活にとってどのようなメリットがあるのかを明確に示すことが大切だと思います。

首都機能移転において、まじめな人が損をしないシステムとセットで考えないと、また同じような不祥事が発生するだけの話ではないかという感じがするのです。その意味でも、特にIT関係において、世界に誇る情報管理の先進都市になるという目標を打ち立てるくらいの気概がなくてはいけません。

ページの先頭へ

具体的改革のメッセージが必要

新しい都市づくりを行うにあたり、最も力を注ぐべきは、魅力ある都市づくりということです。政治と行政の大幅な改革を進めることによって、昔の「列島改造論」のような形ではなく、地方と中央の関係や地方自治のあり方について、望ましい姿が明らかになるとともに、地方に住んでみようかと思う人々がたくさん出てくるはずです。そして、色々なところに文化都市や、文化だけやっている村などがたくさんできるきっかけになると思うのです。

首都機能移転によって政治を中心とした都市ができて、それに伴うドラスティックな町づくりが行われる意志が明確に打ち出されれば、あとはその町づくりの技術を全国に広げることによって、各地に特徴ある町ができあがり、日本全体が活気づくことになると思います。

今度の首都機能移転では、首都機能にあてる予算の組み方から変えているようにする必要があると思います。単年度予算ではなく、少なくとも何年か単位で予算を組み、その事業が最終的にどのような形になるのか明確にするしくみと、だめになったらいつでもやめられるようなしくみが必要でしょう。今は予算が決まるとやめられないという不思議なシステムがありますが、使い方にも自由度をもたせることによって、新しい町づくりが可能となり、国民にとっては、「やる気になったんだな」「新しい世界ができるんだな」というイメージが膨らむ大きなきっかけになってくると思います。

新しい都市づくりにおいても、人々にとって便利で暮らしやすい町とはどのようなものかを突き詰めていけば、恐らく、平城京、平安京、鎌倉、江戸に対して、多少は顔向けできるような新しい町づくりができるのではないかと思います。かつて行われたようなドラスティックな改革に匹敵するようなことを、今度の首都機能移転でも一つぐらい打ち出さなければならないでしょう。

ページの先頭へ

知恵を出し合い国民のための新都市づくりを

今までの移転でも「人心一新」をはかったのですが、ただ一新するために移転しただけではなくて、一新したなと思わせるような実感を伴いたいと思います。そのメッセージをきちんと伝えることが必要です。

『帝都物語』を執筆していたころは、首都を一新することに「人心一新」の意味をこめて書いていましたが、どうも自分自身もいまひとつ納得ができませんでした。しかし「人心一新」といっても、改元のようなバーチャルなものに対し、実際の都市新設がどれほどの重要性をもつかが十分に答えが得られないと感じていたのです。しかし、京都などは都を1000年もたせるため「切り捨て」と「つけ加え」をきちんとやっており、「人心一新」のために実は大きな組織改革を実行していたのだということが、歴史を調べていったところ徐々にわかってきました。都市を変えることは既成の組織を一新することだったわけです。表面は全て「人心一新」なり「元号を変えた」ぐらいの小手先のものにしか見えないのですが、実はそこでシステムを大々的に変えていたのだということがわかるにつれ、日本人はすごいなと思います。

今度の首都機能移転は、言ってみれば、近代化した日本が明治時代に東京をつくり、都市づくり得失という面において9勝6敗の成績をおさめた後、21世紀において新たに挑戦する取り組みなのだという認識を、まずみんなが持つこと、目標は江戸や京都に少なくとも顔向けできるくらいのものをつくるという自覚を受け入れる側も持つことが必要だと思います。しかし、これまでそのようなメッセージがほとんど出ていない感じがします。これは昔の公共事業が形を変えた程度にしか思われていないというところが、非常に不幸だと思います。これは本当にチャンスなのです。阪神・淡路大震災の直後には議論が盛り上がったものの、これが継続するエネルギーになっていません。恐らく防災だけでは、一般の人々は首都機能移転についてイメージを明快にすることができないということでしょう。

一般の人々に積極的なイメージをもってもらうためには、やはり「何を切り」「何をつけ加えるか」を明確にしなくてはいけないということです。「何を切るか」の中で忘れてはいけないのは、企業と政治家の癒着の問題です。新都市は政治の都市だからと言って、企業の人たちをシャットアウトするのはナンセンスです。ビジネスチャンスがある限りは、新都市に関わってくるのは当然です。その代わり、都市のシステムとして癒着が成立するような構造は思いっきり切り捨てるということです。

一般の人々が首都機能移転についてのイメージの中で「つけ加える」べきものは、何といっても今のインフラの問題を含め、人間が幸せな環境で、ここにいると気持ちがいいという実感だと思います。車がビュンビュン通っていて、道を渡ると交通事故に遭いかねないような不快感とか、住んでいて周りの景色が何も見えなくていつも暗いというような不快感なことがない設計をする必要があります。政治家を住まわせておくのはもったいないと思わせるような環境をつくることだと思います。

不思議なことに、我々の生活は、より快楽の得られるほうに何でも向かうことになっています。我々の消費行動においても、昔からの大量生産資本主義が一番の原動力にしてきたのは、より快楽の方向へ向かうよう働きかける力でした。ちょっと上のものを見せるということが大切で、テレビができたらカラーテレビを見せる、というように、徐々に上のものを見せていって、悪い言葉でいえば欲望に働きかけるということが原動力になっているのです。

ただし、都市づくりを考える場合、欲望に働きかけるといっても「快楽」に働きかけるのではなく、「快適」に働きかけることが必要です。今までの都市は快楽を追い求めて失敗してきました。確かに、夜中になるとコンビニがないのは不便かもしれない。しかし、夜中に何か食べることをやめてもっと違うことに、もっと夜中を快適に過ごせることに使う提案によって、新しい都市に夜の文化が生まれれば、とても面白いと思います。

昼の暮らしは政治が動いているからいいと思うのですが、新都市で夜の生活をどのように快適にさせるかということを考えるとすると、これは意外と難しい。日本のトップクラスを集めて、相当、知恵を絞らないとだめかもしれません。

新しい都市の場所が決まれば、各分野における人材を集めて、ドラスティックなアイデアを寄せ集め、誰かがリーダーシップをとって方向性を決定づけなければなりません。まともなものをつくるには20〜30年はかかると思いますが、それにより意識はものすごく変わり、日本の政治システムや行政システムも、20〜30年後には少なくとも後進国といわれないレベルには達しているのではないかと期待されます。しかし、英知を集約して移転したとしても、恐らく、100年後にはまたアンバランスなところが出てくると思いますが、今度、首都機能が移転される都市での100年は、これから最も重要な100年になると思うのです。

場所を決めるにあたっては、各候補地の都市に青写真などをコンペのように展開してもらうのがいいと思います。コンペ大会をやって、このような都市にしたい、あるいは、首都機能が移転することによって、このような未来図を提供できますという話をしてもらえば、かなりそれぞれの地域の特徴も出てくるでしょう。「このような道路ができて、ここに駅ができて、これだけ経済効果があります」という話だけでは、みんな誘致合戦になってしまうに決まっています。その場所でしかできない地域特有の「快適」をアピールしなくてはいけません。首都機能を引き受けるの大変なことだと思います。最初はデメリットも多いし不便だろうと思いますが、ドラスティックに改革すれば、望ましい都市づくりができると思います。

ページの先頭へ

勇気をもって新しい都市づくりの実現を

今まで日本人はとても勇気を持っていて、国民も嫌な面もあったでしょうが何らか新しい世界が開けるに違いないと思うから首都機能移転について行ったと思うのです。恐らく移転先が決まれば、日本人の特性だろうと思いますが、みんな何となく一つの新しい時代をつくろうという方向に結びつけていくでしょう。

これは不思議なのですが、京都でも奈良でも、特に江戸・東京ではそうなのですが、何かモノが壊れたり大災害が起きたりすると、みんなでこぞって復興しようとしました。例えば、江戸でかつて世界史上例を見なかった明暦の大火、振袖火事がありました。世界史上類を見ないような大火で、都市のほとんどが燃えてしまったのです。このときも、2年とかからずに復興してしまいました。復興した後のほうが立派な江戸になってしまったのです。ただ唯一、復興するときに再建されなかったのは江戸城の天守閣だけです。非常に有能な家老がいて、復興には金がかかるから、こんな天守閣をつくるくらいだったら一般民衆に米を与えたほうがいいという意見を言って、むだだからやめようということになり、ついに天守閣のない都になってしまうわけです。

関東大震災の後、銀座では「どこの町よりも早くおれたちは復興するぞ」というのが店の主たちの合い言葉になり、どうすれば早く復興できるかを考えました。その結果、裏は全部バラックで表通りのところだけ立派に見られれば復興したように見えるだろうということで、銅やトタンで表通りの表側だけをつくったのです。それをやったのが、築地にいた築地小劇場の村山知義を初めとする、言ってみれば舞台装置作家です。マヴォと呼ばれる集団でした。大道具・小道具の人たちがつくるので、デフォルメされた独特な舞台装置で知られる『カリガリ博士』という独の映画に出てくる見世物小屋のような町になります。そのため1年ぐらいで全部復興することができました。しかし2年後に消防法が決まって、バラック建築がだめだということで一度は全部壊されます。しかし、復興はものすごく早かったのです。

そのくらい色々な知恵を絞って復興するので、東京などは心配することはないと思います。人々が一番重要だと思われるような部分が抜けてしまっても、みんな壊れるわけではなく、首都の機能だけがなくなるだけの話ですから、むしろラッキーだと思ったほうがいいでしょう。

移転先の都市でこれほどの新しいものができるのだという明快な意味づけができて、首都機能という大きな荷物を背負いながら守っていこうという努力と覚悟のあるかどうかだと思います。これが明確になれば、日本人は皆、新しい実験として注目するでしょう。

日本人は、首都や首都機能移転の実績については世界でナンバーワンだと思います。20年くらいでまた移転してしまった長岡京など、うまくいかなかったところは一部にはありますが、だいたい殊勲賞ぐらいの成績は上げています。新しく都市をつくりあげて、それぞれが成功しているという国は、世界探しても他にないのではないかと思います。

これはやはり、移転を実現した際のトップがリーダーシップをとって、果敢に挑戦した成果だと思います。奈良時代のときには、帰化人がかなりいろいろなアイデアを出して実現したし、平安京の場合は、桓武天皇を中心にして秦氏や和気氏が勇気をもって実現しました。鎌倉のときにはしがらみでがんじがらめになっている公家に代わって、武士の人たちが新政治を実現しました。江戸は全く無から有をつくったようなものですから、これはブラジリアをつくったようなものです。しかもブラジリアは、今のところあまりうまくいっていないと言われていますが、江戸は100年たったら世界一の都市になったわけですので、日本人のこれまでの実績はみごとといえます。

歴史上の首都や首都機能の移転においては、これを実現するにあたり、「切ったもの」と「つけ加えた」ものが本当にドラスティックでした。当時の抵抗勢力は、今の道路族などとは比べものにならないほど強力だったと思いますが、都の移動とともに切ったわけですね。明治の帝都東京までは、みんなものすごい勇気がありました。今は、その勇気を出して新しい都市づくりを実現できるかどうかが問われています。

ページの先頭へ