ホーム >> 政策・仕事 >> 国土計画 >> 国会等の移転ホームページ >> 国会・行政の動き >> オンライン講演会 >> 「歴史から学ぶこれからの新都市づくり」

国会等の移転ホームページ

「歴史から学ぶこれからの新都市づくり」


里中 満智子氏の写真里中 満智子氏 漫画家

1948年大阪市生まれ。1964年「ピアの肖像」でデビュー、第1回講談社新人漫画賞を受賞。1974年「あした輝く」「姫が行く!」で第5回講談社出版文化賞を受賞。代表作に「アリエスの乙女たち」「あすなろ坂」や、エジプト史における遷都を描いた「アトンの娘」、藤原京遷都、律令制の制定など多くの偉業を成し遂げた持統天皇の生涯を描いた「天上の虹」など。マンガジャパン事務局長、日本漫画家協会常務理事を務める。その他、平城遷都1300年記念2010年委員会委員、都市整備公団「都市観光を創る会」発起人、国土交通省社会資本整備審議会歴史風土分科会委員など、多数の公職を務める。

ホームページ http://www.mac-time.ne.jp/satonaka/



古代日本においては、国づくりのために新都建設が必要であった

都を移すということは、日本の古代の作品を描いていますと何度も出てきます。特に持統天皇のときの藤原京というのは、それまで都という概念が日本になかったので、遷都というよりも新しく都市をつくりあげたものでした。よく藤原京は唐の真似だと言われますが、律令制そのものが隋、唐のシステムを見習ったわけですから、その考え方に基づいた都づくりということであれば、都の設計システムなどが、似通っていたことはあたり前のことです。

この場合の都づくりは、国づくりとつながるわけですが、国をどうするかという考え方が先にあって、それに基づいて何を立ち上げるべきかと考えたときに新都建設がありました。当時、新都建設は非常に大変なことだったと思います。都市という概念がなかった時代ですし、役所の仕組みも、なかったも同然の時代です。そのような中で現代の省庁につながるような体制をつくったのです。

日本がお手本とした東洋の各地域では、文化・文明が発達しており、基本となる律令制度がしっかりしていたため、当時の日本の律令制はシステムとしてはよくできたものだったと思います。日本の歴史においてこの律令制が整うことと、幕府の体制が整うことは、政治的にも経済的にも意味のあることだったと思います。また、新都建設ということで藤原京というのは非常に意味があるものでした。

この時代に天皇が絶対的な力を持っていたかというと、意外とそうでもありません。そのため、新都建設にかかわる苦労を人民が堂々と述べる歌などが「万葉集」にたくさん出てきます。そのような歌が、後の時代ですけれども国が認めた作品集として残されるわけですから、人民は割と自由なことを言っていたわけです。

天皇という制度の歴史の中でも、恐らく一番強力な方は天武天皇で、後の方はそれなりに周りに気を遣っていたと思われます。実際に律令制の中では政治的な役割はなかったので、象徴天皇というのは現代だけのものではなくて、実質的にかなり昔からそのような面があったようです。絶対的な権力者ではなく、象徴的な立場で都づくりを推し進めたので、持統天皇はとても大変だったと思います。ただ当時は外交的な側面で、新都づくりが急務でした。都づくりを行うことは、すなわち国の制度を整えることであり、これらが車の両輪だったのです。

当時の唐は、周りの地域が民族として一つの国家を成していないと見るやいなや、こんな野蛮なところは、自分たちが指導してやらなければいけないといって併合していきました。国の制度が整っていないと、唐によって併合の憂き目に遭ったわけですから、周りの国々はみんな気を遣いながら唐の国の制度を取り入れたのです。例えば、中国の歴代皇帝の記念日などは周りの国も一緒に自国の記念日のように祝いました。それをやらないと逆らっているとみなされて大変な目に遭うわけです。

朝鮮半島は地理的な側面もありますが、本当に昔から気の毒で、非常に唐に気を遣って制度も全部取り入れているのです。朝鮮半島だけではなくてベトナムあたりまで、暦も全部取り入れて、記念日、新年の行事、国の行事も全部見習っていました。

しかし、日本はそれをしなかったのです。持統天皇の時代に暦の科学的な面だけは取り入れて、記念日は全部我が国独自のやり方で行っていました。これは間に海があるという地理的な条件がとても有利に働いていたと思います。しかし、唐には圧倒的な軍事力と、周りを抑え込んでいこうという情熱があったので、それにのみ込まれないためには、我が国は確固たる独立国家であり、歴史もあり、このように独自の体制でしっかり機能しているということを形で見せないといけなかったわけです。そのため、当時の人たちの危機感は、私たちの想像もつかないほど大きなものだったと思います。663年に白村江の戦で、日本は朝鮮半島の戦いに敗れましたが、あれは非常に大きな事件で、第二次大戦で負けたと同じくらいの危機感がありました。その後、唐に進出されないために、必死に国づくりをしたわけです。そのためにも、新都づくりは必要だったのです。

ページの先頭へ

都づくりにおける人々の不安・不満

古代の日本では、天皇が住んでいる「宮」に必要とされる役人が来て政治を行っていたので、今の総理官邸が全部の役所だったようなものでした。昔の天皇は、総理大臣兼大統領兼天皇のような立場でしたから、役所の部署もはっきり分かれてなく、リーダーがすべての分野にわたって決めていたのです。

ところが中国での律令制は、役割分担で役人の受け持つ仕事が違って、それぞれに大臣がいました。大臣によって構成される内閣があり、内閣を見渡すために太政官制度が敷かれ、内閣にかかわる人を参議と呼びました。そのような国の組織は、当時とても近代的な考えだったのです。また、男は兵隊として国の守りにつき、国元では妻が蚕を飼っているように、人々の生活でも役割分担がありましたし、つくったものを売りに行く人がいて、家で留守番して家の用事をする人がいるように、庶民の経済活動でも役割分担がありました。

しかし古代の日本では、「役所」という考え方もないし、「都市」という考え方もないので、みんなが何となくて昔からいるところに住んでいて、「あいつはしっかりしている」「頭がいい」「まじめだ」ということで取り立てられたような人材が「宮」に集まっていたのです。宮があると、地方からも人が物を持ってきたりするので、その人たちに何かを売ったり、その人たちを休ませたりするところから商売が生まれました。

そのため、人の往き来が多いところが自然とにぎやかなところになり、商業活動が活発な場所になっていくわけです。しかし、ゼロから都づくりをするという話を聞かされて、大きな建物をつくることになると、人間というのは目先のことしか見えませんので、労働力の提供をしんどいと考え、「何のためだ」とか、「今のままで自分たちに不都合はない」などと不満が出てくるのです。それでも都づくりのために、税を納めさせたり、労働力そのものを税として、地方から人を出させたりしました。好かれる税金などはないので、昔から税の仕組みで失敗したときに政府が危うくなるわけです。土地問題もそうで、奈良時代においても、私有財産をどこまで認めるかで判断を誤ると、政権が不安定になったわけです。

国の政策に対してあれやこれや文句が出てくるのは、今も同じで、国全体の財政を考えなければいけないのに、サラリーマンの医療費自己負担が3割になるというだけで圧政だという。私たちは自由業ですから、既に3割負担なので、サラリーマンの人たちも3割負担ならいいではないかと思うのですが、それをすぐ貧しい者へのしわ寄せだという。この「貧しい者」「虐げられた者」「弱い者」がいじめられているというのは、いつの時代もとても強い意見になるのです。どの時代でも、国民のことに対して、本当にいろいろ気を遣っていると思うのですが、実感としてみんな自分の生活しか見えませんから、首都機能移転に関しても、自分の生活が不便になるのではないかというところが真っ先に来てしまうのです。

古代においても現代においても、抱えている問題は結局一緒なのです。私たちがこの五体を持って、飲んで食べて寝てという、この生理的な感覚を持っている限り、人が感じることというのは同じで、昔から変わらないです。「万葉集」を読んでも、人々の感情というのは、いまの私たちと何ら変わりはないし、もっとさかのぼって古代エジプトの文章を読んでも変わらないです。

ページの先頭へ

環境の視点が大事な都づくり

人々の不安・不満があった中で、日本の国づくりのために思い切って藤原京をつくったにもかかわらず16年で遷都してしまいました。これは当初、風水に則ってつくられた都ではあったのですが、学者の方の話によりますと、都の中の宮と呼ばれる場所の地盤が低かったために排水機能がうまくいかなかったことが藤原京が短命に終った原因だそうです。都市というのは清潔を保つことが大切で、そのために排水溝がありましたが、宮のほうの地盤が少し下がっていたことにより排水がうまくいかず、淀んでしまい、皇居と宮がいつもジメジメしてカビだらけで、害虫の発生や風邪を引く人が多かったのです。昔の人たちは病気が増えたりすると、何かの祟りかと考え、その場所から逃れ、汚れたものを全部きれいにしようとしました。つまり、藤原京が長続きしなかったのは環境問題と言えるでしょう。

また、持統天皇が亡くなった後の政治的要因もありました。時の実質的な権力者である藤原不比等が自身の考えに基づいて、国の組織を機能させるには思い切って移転したほうが何もかも変えられるのではないか、と考えたのです。そこで目の上のたんこぶのような人を残して、あとは新都に移転しました。これは藤原氏にとって政治的に大変うまくいったと思います。このような政治的な要因で、思い切って平城京へ遷都したのではないかという説もありますが、真の理由はわかりません。

その後の平城京は、藤原京より落ちついたとはいえ、日本の都の寿命としてはかなり短いほうでした。平城京から平安京へ移転した理由も環境問題だったのではないかと言われています。これは大仏建立にかかわる水銀中毒です。大仏は金メッキで覆ったのですが、当時の金メッキというのはアマルガム方式といって、金と水銀を含んだ鉱物をドロドロに溶かして、それを銅像の表面に塗ったあとに、火であぶることによって水銀だけを蒸発させる方法をとりました。当時は建物に後から大仏を入れるのではなく、土台をつくって大仏をつくりながら、それを覆うように建物もつくっていったので、金メッキの際に水銀の蒸気が充満しました。そのため排水にも入り、地面にも染みこむことによって、水銀中毒に冒された人たちが非常に増えました。また、周りの池の魚も死に絶え、木も枯れ果てました。そのため、あまりの恐ろしさから、これは祟りだということで、平城京も遷都したのではないかと言われています。

藤原京では、それまでと異なり、瓦屋根でしっかりした建物をつくったので、都を移す際にこれらを解体して持っていきました。木材、瓦、敷石などをリサイクルして移転したため、現在の藤原京の跡地には、建物などが残っていません。平城京のときはリサイクルせずに建物を置いていったので、奈良ではいまだに当時の名残を見ることができるのです。

ページの先頭へ

首都論と都市論は異なる

遷都にはさまざまな要因があり、環境問題もあれば、政治的な要因もありました。このように様々な要因で日本の都も色々と移っていったわけですが、その中で、京が都であった時期が長い間続きました。武家社会になったときも、政治の中心地は変わりますが、首都移転はしなかったわけです。武家社会が貴族社会に対して、既得権を侵さないようにすることで共存共栄を図ったのかもしれません。その後、江戸幕府になって実質的に経済の中心地は江戸であったとしても、京はずっと都であり続けたのです。経済、軍事、政治の中心地は江戸にあるけれども、都は京にあるということを、日本人はずっと受け入れていたわけです。明治になって、東京が首都ということになっていますが、江戸時代を通じて、経済、軍事、政治の中心都市と首都との並立制というのは、日本人になじんでいたはずなのです。

しかし、明治時代の新しい国づくりを行った際、当時の政府は求心力として何か国民のイメージの中心になるようなところは、1カ所のほうが好都合だと考えました。これはやはり、昔の藤原京をつくったときと同じく、対外的に我が国が確固たる独立国であり、これだけの力があり、政治もこのように機能しており、長い歴史がある、ということを必死に見せなければいけなかったのでしょう。そのため、国民の意識を一点集中、中央集権、中央から発信するということを、きっちり固めるために、天皇にはぜひとも東京に来ていただかなければいけない、ということだったのだろうと思います。

本来、首都、あるいは首都機能のある都市=最大の都市というわけではないのですが、日本の場合、両者はイコールという感覚が一般的になっています。確かにパリやロンドンなど、首都がその国の最大の都市であるところは世界でも結構あります。そこには歴史があって、昔から首都を中心に政治や経済が動いてきたように、伝統の上にずっと首都であり続けているわけです。しかし、首都=最大の都市ではない国もたくさんあります。アメリカのように、一番大きな経済・文化の中心はニューヨークですが、首都はワシントンで、これが当たり前のように受けとめられているのです。

ところが、実際に東京から首都機能を移すとなると、既得権をなくすのではないかとか、東京が寂れてしまうのではないかと思う人もいるでしょう。しかし、ニューヨークが首都ではないのに誰もが認める経済と文化の中心地です。そのような国はほかにもたくさんあるわけです。

記憶に新しいところでは、ブラジリアの例があります。ブラジリアはあまりにも人工的すぎて、魅力的な都市ではないという言われ方をしますが、首都と都市を分けて考えないといけないと思います。どうも首都論=都市論と、みんなごっちゃにして考えているのです。ブラジリアが思ったほど繁栄しないのは、都市づくりとして失敗だったからという話になるのですが、首都と都市は違うものなのです。たまたま今のところ、世界中を見渡して、政治と経済が一体になっているところが目につくものですから、それが普通だということを通念としてみんながイメージでとらえているだけなのです。

一般論で首都というものを考えた場合、何も天皇のいるところが首都だと考えなくてもいいと思います。政治の責任者がいるところを首都的な政治の中心都市とすれば、外国で一般的に考えられている国家元首としての政治的責任まで天皇に負わせなくて済むので、かえってご負担を軽減していただけるのではないかと思うのです。今、皇居が首都・東京にあるということで、天皇に政治的な責任もあるのだと誤解している外国人が多いわけです。

私も含めて国民の多くが、皇室は東京にいてほしいと思っているでしょう。なぜかというと、選挙で選ばれるトップ以外に、国のホストとして、外国からの来賓をお招きすることができる方がいらっしゃるほうが文化的な交流に大変望ましい形がとれるからです。政治家というのは交代しますし、外交的なつき合いと文化的な交流とは分けて考えたほうがいいと思います。

首都機能移転がよいか悪いかの前に、首都とは何であるか、首都に必要な機能は何か、首都機能移転先の都市とはどういうものかというところから考えないといけないと思います。これらと大都会の魅力とは何か、ということと分けて考えないと、この問題はなかなか東京都民や国民の理解を得る話にはならないでしょう。

私は首都機能移転には中立な立場ですが、このような問題を解決するための方法には、二通りあると考えています。時の流れに任せるか、有無を言わせぬ論理でやってしまうかしかありません。いつの時代でもどの国でも首都建設や首都機能移転というのは大きな問題を巻き起こすわけです。

ページの先頭へ

古代エジプトにおいても、国政改革のために行われた遷都

外国の首都移転については、古代エジプト18王朝の都移りに関連する作品を描いたことがあります<参照:「アトンの娘」小学館全3巻>。ツタンカーメンの親の代における古代エジプトでの画期的な都移りに関してなのですが、アクナトン(アク・エン・アトン)という王様が宗教改革を断行して、思い切って首都移転を行ったのです。

その背景には、王が実権を握っているはずなのに、神殿を管理する神官たちの経済力と軍事力が非常に大きくなってきて、独自に税を課したり色々勝手なことをしていたという状況がありました。神官たちが次々に私有地を増やしていって農民に貸し付け、貸し付けたお金が返ってこないと、農民が持っている土地を取り上げて、農民たちを労働力として雇って収穫を上げていました。そして、収穫物を独自に販売したり、川の通行税などを独自に課したり、神の名のもと勝手な振る舞いをしていたのです。

神殿勢力が増大していく状況の中で、アクナトンは古代で初めて概念としての神を考え出し、一神教を唱えました。それまでは多神教で、八百万(やおよろず)の神がいて、各神殿ごとに祭っている神様が違ったので、人民たちは願い事のたびにそれぞれの神殿に奉納していました。子供の書記試験の合格とか、親の健康とか、縁談とか、願いごとによって細かく枝分かれしていて、それごとにたくさんの神殿があったので、富が次々と集まるわけです。また、国の方針も神殿が決めていました。そのような中でアクナトンは、神とは唯一無二のものではないかということを唱え、偶像崇拝ではなく、太陽光線そのものを神としました。これは画期的な宗教改革です。「太陽光線はあまねくこの世に降り注いでおり、神はすべてを見ている。神というのは形のないものであり、我々と似た姿をしたものや、動物の姿をしたものを拝むことは間違いである」ということを唱えました。

アクナトンの奥さんは、いまでも胸像がベルリンの美術館にある、美人で有名なネフェルティティです。ネフェルティティは中央アジアあたりの出身で、その地方では「神がおっしゃることはただ一つである」という考えがあったようで、アクナトンの宗教観はネフェルティの影響もあると思います。後のイスラエルの民が十戒を得ますが、不思議なことに、十戒で言われている言葉と、アクナトンが神について語った詩が非常に似ているのです。イスラエルの民はエジプトでずっと労働力として働いていたわけですから、モーゼが民を引き連れて自分たちのふるさとを目指した際にも、エジプトで育ったことの影響が残っていたのかもしれません。

アクナトンが、神殿勢力と決別するために思い切って都を移そうと思ったのか、それとも彼の目覚めた宗教的考えに基づいた都づくりをしようとしたのかはわかりません。しかし、ずっと続いてきたテーベ(現在のルクソール)の都を捨てて、谷間のテルエルアマルナというところへの遷都を断行したのです。

新都市を建設し、政治家や役人や住民を引き連れて、大々的に引っ越したのですが、神官たちは元の都に残りました。もう神は太陽光線なのだから、旧都にあった神殿勢力は来てはならぬと言われたのです。そのため、テルエルアマルナでつくられた神殿は、太陽光線を思い切り受けるために天井がないのです。それまでの神殿は暗くて、奥で火がたかれていて、ありがたそうに神の像があり、そこで巫女が何か言ったことを神のお告げだということで神官が通訳し、奉納を要求したのです。新都市ではそのようなことは一切なく、ただ太陽光線に対してお祈りをしました。旧都の神殿をもってこなかったことだけを見ても、ものすごく力を振り絞って都移りしたと思います。

アクナトンは偶像崇拝を禁止したので、そのころの美術品にそれが顕著にあらわれています。自分の像なども美化せず、すごく見苦しい体型で、おなかが出っ張っていて、足が短くて、顔が妙に長い像をつくらせたわけです。それまでの様式美でまとめられていた壁画や彫刻がガラリと変わったのです。そのため、美術的にも大転換だったと思います。

このように、アクナトンが行った首都移転は、自らの意志の力でもって実現したという、世界史上はっきりしている証拠がある中では初めてのことではないかと思います。自らの宗教的な考えに基づいて、それまでの神殿勢力と決別を図ることによって、神殿勢力に左右されない自立した政治をしようということでした。また、文化まで改革したのです。この首都移転では、神殿勢力についていた住民は残りましたが、それ以外の大勢が移動したので、かなりの費用がかかったと思います。

しかし、アクナトンは遷都後すぐに死んでしましました。その跡継ぎとなったのがツタンカーメンです。ツタンカーメンは遺物が発掘されたので有名ですが、ツタンカーメンという名前は、トト・アンク・アメンを英語発音したもので、これはアメン神に認められた称号なのです。つまり、旧来の都にいる神殿勢力側についてしまったということです。アクナトン(アク・エン・アトン)が信仰したのはアトン神であることから、彼が跡を継いだときの名前は、トタンカートン(トト・アンク・アトン)だったのですが、年が若いということもあって旧来の神殿勢力に取り込まれて、アメン神の名のもとに、トト・アンク・アメンと改名してしまい、旧来の都におさまってしまったのです。

その後、テルエルアマルナは廃墟になって、砂に埋もれてしまいました。つまり、古代エジプトにおいて意志をもって行った都移りというのは、結局、一代で終わってしまったのです。

テルエルアマルナという都の跡は、早稲田大学の発掘隊が発掘して、すばらしい階段が出てきたのですが、一週間もたたないうちに階段ごとはがされて泥棒に持ってかれてしまいました。王が強力に力を発揮して、神殿勢力と闘って成した都移りであり、世界史上、特筆すべき遷都であったのに残念です。

ページの先頭へ

リーダーの決断が必要な首都機能移転

そのようなことに興味があって、ツタンカーメン夫婦を主人公にしながら作品を描いたのですが、その際にも、都移りというのは本当に難しいということを感じました。やはり、一般の人々にとって、国のあり方といった哲学などは関係なく、日々の生活にしか関心がないのです。都ではかなりの人口を抱えて様々な職業の人たちが日々を暮らしていたわけですが、みんな自分の都合で新しい都へ行くのを喜ぶ人がいたり、喜ばない人がいたり、中には、都が移ってしまえば、神殿への借金がチャラになると思って喜んで行く人もいました。

ですから、全員の合意のもとに何かを成すということは不可能です。いくら権力が集中していて一点集中であったとしても、関わる人すべてが合意して何かできるということは、まずあり得ないでしょう。人があれこれ言うことが当たり前なので、合意に基づいて何かしようということが前提だと何もできません。歴史上のリーダーたちは自らの考えに基づいて、大きな決心をもって都を移しました。それはその時その時の事情があると思いますし、時によっては非常に個人的な考えという場合もあったでしょうが、困難の伴わない都づくりはなかったわけです。

都移りが必要だと人を納得させるためにはそれなりの理由が必要なのです。その理由が、いくら大義名分として立派なものであったとしても、全員が「イエス」ということは絶対あり得ないので、自然の流れに任せることになるかもしれませんが、やはり移転の根拠を明確にする必要があるのです。

ページの先頭へ

首都機能移転のために一層の議論が必要

国づくりのための移転であるべきところが、今議論されている首都機能移転に関して考えると、移転先はどこがいいか、この地域で可能かということが話し合われているのですが、オリンピックの開催について、どこでやってもそれなりのものができるのと同じで、国が本気になれば、どこに首都機能を移転しようとそれなりのものはつくれるので、そのような論議では何も進まないと思うのです。その土地の条件を生かした上でなおかつ首都機能を十分に持たせることは、やる気になればどこでも可能だと思います。

例えば、海に向かっていたところがいいとかいう意見もあるでしょう。しかし、輸送が経済効果になると考えるのであれば、新都市は経済の中心地でなくてもいいので、海に面していなくてもいいわけです。空港がなくてはいけないといっても、政府首脳の移動手段など最低限の機能は必要だと思いますが、何も大型旅客機の発着ができなくてもいいわけです。今、垂直で発着できる飛行機も開発されていますし、広大な滑走路はいらないのです。

首都機能の移転地がどこになろうと何とかなるわけですから、大事なのは、首都機能移転が本当に必要かどうかというところの論議がもっと活発にされないといけないということです。移転先候補地となっているところは、どこも一長あるとも言えるし、一短あるとも言えますが、移転しようと思えば、どこでも可能なわけです。首都機能移転が本当に必要かどうかを議論するためには、首都機能というのは何かということを明確にする必要があります。その一つとして本当の意味で、確固たる理念に基づいた省庁再編が必要だと思います。

そのためには、各省のやるべきことと、他の省庁と連携してやることとの違いをきっちり分けて、連携のためのシステムが必要だと思います。何となく目先を変えただけに見えてしまう省庁再編ではなくて、国の仕組みをこう変えるのだということを明らかにしなければなりません。それは、私たちがどのような国を目指すのか、経済力の再生を図るか、貧しくても誇り高く生きるか、あるいは文化立国を目指すか、ということを明確にすることです。そのためには、それぞれの選択肢においてどれだけのお金がいるのか、貧しくても誇り高く生きるというのは、言葉はいいですけれども、実際の生活レベルはどうなるのかということを示すことによって、国民の理解を得なければいけません。

国は何かをやるときに国民に対してわかりやすくものを伝えるのと同時に、きれいごとを言っていては何も始まらないと思うので、これをやるためには何が必要で、そのためにはこれだけの犠牲を伴うが、それでいいのかとはっきり問えば、国民は可能な我慢とやりたくない我慢を分けて考えて判断すると思います。

今、金さえかけなければいいという風潮になっていますが、必要なことにはお金は使うべきです。お金の使い方の問題であって、必要とあればお金は使うわけです。例えば、国民一人一人の家計の問題でいっても、お父さんのお小遣いはどんどん削られるけれど、子供の教育費は削らないのは、家庭内でそれを必要だと考え、またそれを必要だと認める人の発言力が強いからです。それに対してお父さんは我慢しているのです。

家庭と国とを同列に論じるのはレベルが違いすぎるのですが、気持ちとしては同じようなことがあると思うのです。首都機能移転ということを言い出すのは、それなりの理由があるわけで、何もないところでこんな話は出てこないので、災害対策だけでなく、国の機能を考えたときに、今ではあまりにも不都合である、という側面もあると思います。旧文部省の建物を見ても、国の知性と文化の根幹であるはずのところが、あのような古い建物では、本当に機能しづらいと思います。あそこまで古いと、確かに文化的な建物にはなっていますが。

ページの先頭へ

情報セキュリティの強化を

機能の中枢をどこかに移すというのは、東京が何かあった場合のことを考えて必要だと思います。機密保持のためにも、重要なものは必ずダブルでバックアップしておかなければならないので、そういう拠点は絶対必要です。

デジタル社会の中で、情報のセキュリティの面は大丈夫か、これは国民の安全にかかわる問題なので、本当に真剣に考えないといけないと思います。また、経済の基盤はしっかりしているかなど、あらゆる課題を全部ひっくるめて、昭和時代のいろいろな反省を踏まえた上で、新しい国づくりをするために必要とされるものは何か、必要とされる役所の役割は何か、ということを考える必要があります。藤原京建設当時の一から国づくりをするという気持ちに立てば、必要とされる役所の役割というのはおのずと出てくると思います。セキュリティの強化という意味での首都機能移転であれば、中枢機能を移転したほうが安心できますし、そのためにお金がかかっても、国民は納得すると思います。

首都機能が移転されると莫大な経済効果があると考え、利権目当てでついてくる人たちが出てくる恐れがありますが、そのような人が来ないよう、遠い場所に移転したほうがかえっていいかもしれません。ただ、各省庁の皆さんも机で仕事をしているだけではないので、あまり遠いところになったら大変ですね。

書類は紙ではなく、デジタル時代に相応しい方法でシステムを構築すればいいのですが、無線LANでやりとりしたら、情報が漏れやすいので、とても怖いです。情報管理のシステムを決めることは、国をあげて取り組まなければならないことなので、今の省庁の分担では対応しきれないと思います。書類でやりとりしたことの延長線上で考えるのではなく、やはり、もっと立体的に物事を考えなければいけないと思います。

役所の縦割りを越えて、横の連絡を緊密にするためのシステムをどのようにつくっていくかを考えた場合、既存のものの手直しではなく、総取替えをする必要があります。役所の規模は小さくてもいいのです。できるだけ規模を小さくすれば、昔の首都移転のような大がかりなものでなくて済むと思います。

ページの先頭へ

古代日本人の「緩やかさ」を見習って新都市づくりを

日本は建物個体としての城はありますが、いわゆる外国のように、都市を丸ごと取り囲むといった意味での「城」ではないのです。日本では国家の中枢でさえも分厚い壁もなく、心理的にも、物理的にも、それで成り立ってきたところなのです。

そのため、身分制もあまり関係く、役割分担も、実は緩やかだったのですが、それがだんだん変わってきました。特に明治以降は、国づくりとしては軍事的なことが背景にあったからだと思いますが、省庁の役割も非常にきっちりと分かれてしまい、後から生じたいろいろいな事項に対応するときに、窓口をどこにするかということが、そのときにどこが対応したかで決まってしまうようなことが起こるのです。

新都市づくりでは、古い時代における日本人の緩やかな境界線というものを、私たちは見習い、制度面でも心理面でも、もう少し取り入れてもいいのではないかと思います。日本は本当に色々な意味で緩やかで、外国のものを受け入れるにしても、特に違和感なく何でも受け入れます。各家庭の食卓に世界中の調味料が並んでいるような国は他にないでしょう。着るものも、それによって身分がわかるような国でもありませんし、言葉についても階層によって使う言葉が歴然と違うという国でもありません。日本人のこの緩やかさの原点は「万葉集」にあると思うのですが、その緩やかさがよきにつけ悪しきにつけ、外の国とおつき合いするときに壁になったり、甘く見られたりすることもありました。日本人は相手が違う考え方をもっているときに、「へー、そうなんだ」と考え、「そんなの許せない」と自分たちの考えを押し付けることは少ないのですが、これはある意味、柔軟性があるということです。

ページの先頭へ

自然の状態に戻る復元力を活性化させるような都市づくりを

昔、シャケを川に戻そうというキャンペーンがありましたが、その際、川にシャケの稚魚を放すことに対して、国がお金を出したために、お金欲しさに、全然シャケがいなかった川にまで稚魚を放すところが出てきました。この結果、シャケが戻りすぎて今やとれすぎてしまい、日本としては珍しく中国に輸出している品になっているのです。

人があまりにも手を加えすぎることによって、生態系が大きく狂ってしまいますので、できるだけ自然の状態に戻さないといけないと思います。自然の状態に戻るだけの復元力はまだあります。

起伏に富み、山があり、川があり、山も保水性をもっているという自然の状態に戻すことが必要なのです。杉は人為的に植えられましたが、根の張りが弱く、保水性を保てないため、杉ばかり植えた山は地盤が緩くなってしまいます。山にとって本当に自然のままの雑木林が一番いいのです。

新都市をつくる際には、こうした課題に対応できるモデル都市をつくるべきです。見渡す限り杉だらけという風景を、もう少し自然な形に取り戻してほしいものです。移転した跡地については緑地にしたり、教育のための施設にするなど、都市に住む人々のためになるよう有効に活用してほしいと思います。旧文部省の古い建物はあのまま倒れないで済むのであれば博物館にしてもいいと思います。

ページの先頭へ

国を再生させるために将来を見越した都市づくりを

国の制度や環境問題など、あらゆる面でやはり国がもう一度カンフル注射でもして、再生させなければいけないと思います。そのためにはお金の使い方が大切です。上手にお金を使うことによって、既得権益のあった人たちからは、怒られたり文句を言われたりするかもしれませんが、いい仕事が出来ます。もちろん、何にいくら使ったかということは明確にしなければなりません。基本的には国は国民に対して、情報をオープンにしなくてはいけませんが、何もかも出せというのではなくて、出してはいけないものの場合は、キッパリと「ここから先は国家の重要機密です」と言ってもいいと思います。しかし、キッパリ言ったら言っただけの責任があることを忘れてはいけません。首都機能移転でも候補地となっているところの全ての顔を立ててとか、関係する全ての自治体と相談しながらというと、どっちつかずのものになってしまいます。

どの候補地も地元の活性化を望んでいるわけですが、首都機能が来ることによって、かえって負担になるかもしれません。一時的には活性化すると思いますが、候補地の人たちは首都機能の負担についてはあまり考えていないのではないでしょうか。また、経済効果だけを考えて首都移転の移転場所を決めるのは絶対に避けなくてはいけないでしょう。移転候補地は首都の機能を整えるためにこのような設備が必要で、それにはこれだけお金がかかるということを明確にしなければいけません。また、私たちもそれに対して、将来のことを考えた上で判断しないといけないでしょう。今必要なお金と、将来を見越して必要となるお金とを区別して考える必要があると思います。

ページの先頭へ