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「都市民俗学からみた東京の再生と新都市の構築」


小松 和彦氏の写真小松 和彦氏 国際日本文化研究センター教授

1970年埼玉大学教養学部教養学科卒業、72年東京都立大学大学院社会科学研究科修士課程修了。77年信州大学教養部講師、80年助教授。83年大阪大学文学部日本文化学講座助教授、96年同文学部日本学講座教授、97年国際日本文化研究センター教授。専門分野は文化人類学、民俗学、口承文芸論。

著書に『神々の精神史』(講談社)、『妖怪学新考』(小学館)、『神になった人びと』(淡交社)など。都市民俗学に関するものとして、対談集『鬼から聞いた遷都の秘訣』(工作舎)、対談集『創造学の誕生』(ビオシティ)、『鬼がつくった国・日本』(光文社文庫)などがある。



都市には人間の住む適正規模がある

都市を構成している要素の中で、見えないもの、または見過ごされがちなものがあります。例えば、建物のようなハードに対して、その中身にあたるソフトの部分、または都市の自然環境や周囲の山、谷、川などもありますし、都市の地下の部分もそうです。このような都市の見えない要素、見過ごされがちな要素が、じつは都市を構成する上でとても重要なのです。これらに焦点を当てたのが風水です。

風水というのは中国で発達してきた経験的な地理学であり、長年の生活における感覚の中でつくられてきたものです。それはある意味では自然環境の中で規定されていて、その中にどれだけ人間がうまく入っていけるかという知識だと思います。

現在、技術が非常に進んできておりますので、山を削って平らにしてしまうとか、あるいは地下を掘ってしまうとか、そのような要素を無視してでも、都市づくりをしようと思えばできるわけです。しかし、このような都市づくりはいろいろなところに問題が起きると思います。風水的に言えば、龍脈とか水脈を断ってしまうことになり、都市を涸(か)らしてしまうのです。

まずは、本当にその土地が人間に住みやすい場所であるのかどうか、景観や地形など、いろいろな歴史的かつ経験的な知識を踏まえじっくりと考えることによって、その土地の中で人間が住む場所はどれぐらいのスペースに収めるべきなのかを見定めることが必要だと思います。都市には地下も含め、空や宇宙や周りの環境も含めて、それ以上超えてしまってはいけないという適正規模があるのではないでしょうか。

例えば、かつての京都のまちはコンパクトで、人が住む場所がまとまっているようなまちづくりをしてきました。京都のまちの建物は大体2階、3階くらいで高い物がなかったし、まちの中にお寺の五重の塔などが配備されていて、いろいろな要素がそろっていました。そしてまちが無秩序に広がらないように、その時代の考え方でコントロールしていました。まちの中が住みやすいということだけを考えると、周りの環境を壊して、どんどん住宅をつくればいいということになりますが、自分たちが生きていく上で必要な自然の資源を確保しつつ生活していくために、背景にある山は守らなければいけないわけです。

都市を広げる場合でも、新たな部分に違う役割を担わせることで、うまく機能することがあります。例えば、ヨーロッパでは今までの都市をそのまま温存して、比較的近距離に全く新しい都市をつくって、違う役割を担わせています。しかし、日本は木造であったがゆえに、今あるものを壊して、新しいものをその土地の所有者の望むものを好き勝手に建てさせるというまちづくりをしていました。しかもそれがある意味で自由に、つまり都市の全体的プランなく無秩序になされたため、現在の都市は非常にわけのわからないものになってしまったと思います。それはアジアにかなり共通しているものですが、とりわけ日本は木造の住宅が多いですから、どうしてもそのような問題を抱えているのだと思います。東京などはもう周辺部分がわからない形で、横浜や大宮などを取り込んでいってしまい、どこが東京でどこがそうではないところなのかという切れ目がないのです。

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東京は都市空間のすみ分けが必要

また、昔は都市内でも空間ごとに違う役割を担わせていて、人間が住んでいる場所のほかに、必ず死者の世界もあるし、神様の世界もありました。それらは人間の世界を補完するものとして不可欠で、人々はそれを前提にして生活していたのです。我々現代人が近視眼的な居住空間、都市機能の中に存在しているのに対して、昔の人は死者の世界や神様の世界などがそろって人間世界という宇宙だと考えていたために、これらをとても大事にしていました。逆に、生きている者が住んでいる世界はどこであるかをはっきりさせるために、都市の中である程度すみ分けをしていました。

つまり、生きている者があるとしたら、生きていない者たちあるいは生きている者を支えてくれる心の領域を考慮しながらまちづくりをしていたのです。今ではお墓を整理して、空いた土地を団地にしたり、非常に合理的な土地利用のように見えるけれども、何か人間が物すごく息苦しい、機能だけ、生きている者だけの空間になってきます。機能や安全ばかりが追求されていて、人間に安らぎを与えるものは目に入らず、画一的だったり、人間が常に監視されているようなまちばかりつくってきたのです。そのような空間には鬼や妖怪も住まない。ということは、共同体を構成するものが欠けているので、人間も恐らくやがて住まなくなると思います。

東京は物すごく雑然とした部分がありますが、その部分は常に大きな吸収力をもっており、そのようなカオスの部分を抱え持っているところが東京の魅力にもなっています。ただカオスの部分とそうでない部分でうまくすみ分けができていない状態です。

今の東京にはあらゆるものが集積していますから、いろいろなものを生産していこうとする力もありますし、大きな活力を持っています。しかし、あまりにもそれが巨大化していますから、だれかがどこかでコントロールすることが必要なものの、それがほとんど掌握できていないため、まさにカオスになっているのだと思います。

それに対してある役割を担った、非常に整然とした都市を新たにつくることによって、今東京にある機能で、東京になくても済むようなものを新都市に移すということは必要だと思います。今東京は巨大化して人が錯綜していますので、ある程度整理して機能をもっと分散させていったほうがいいと思います。しかし問題はその分散する理由です。分散したほうがいいという理由について、みんなが納得するようなものをまだつくり出せていないから、ますます東京に集まっています。

ニューヨークでは川に囲まれた非常に狭い場所にビルが林立しています。あの範囲に限られているから物すごいビルの高さになります。そのかわりに移動は簡単です、車の流れもはっきりしています。

しかし東京は無秩序に広がってきました。新宿だったら新宿、大手町だったら大手町のある一画だけしか高層ビルを建ててはいけない、そこはタクシーぐらいしか車は入ることができないなど、ある種の原理をもってその部分だけ密集させていれば、あらゆることが能率的にいくようになったと思うのですが、新宿に何本か、霞が関に何本か大きなビルが建ち、また別に池袋でビルが建ち、というように乱立しています。その間は地下鉄でかなりの部分をカバーしてつないではいますが、行き来する車は相変わらず増え、交通事情は解消されない状態です。やはり何かを移さないといけないと思いますが、それが恐らく首都機能ということになるのかもしれません。

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東京をバランスのとれた空間にするためにも必要な新都市

新しい都市をつくる場合、やはり東京の再活用を考えるためにつくるのだ、ということも明確にしなければいけないと思います。ですから、東京から重要な機能をなくしてしまうとか、東京を捨てるという考え方ではなく、東京をもう少しバランスのとれた空間につくりかえるためにも新たな空間をつくるという考え方です。東京の再活用に向け、ここの部分をつくるためにどこかを移すというように、再活用と移転とをセットにして、同時に考えていくことが必要だと思います。また移した先で同じように無秩序にならないような都市づくりを考えなければいけません。

東京をつくり直すために新しい都市をつくる。その新しい都市は、どうせつくるんだったら都市の中だけではなくて、遠くから見ても、上から見ても、横から見ても、周りから見ても、調和のとれているような空間を持った都市にしてほしいです。そして東京と新都市は補い合うものになるのです。

京都は東京と補完関係をつくってきました。天皇が今の皇居に行かれてから、京都は急に人が減って、田舎になってしまいました。田舎になったときに、どういうまちにしていくかということを考えて、かなり多くの人たちが美術などの芸術に力を入れて、いわば古い都らしさを実は近代になってつくったのです。そのため、京都は芸術系の大学がとても多いのですが、そこで学ぶ人たちは最先端のニューヨークだ、何だというようなものをただ取り入れるのではなくて、最先端の知識を得ても、その知識を生かすために古いものを使ったのです。だから、着物なども実は最新の繊維を使ったり、技術を使ったりしながらも、古いものを活かしています。和菓子やお酒などでもそのようにしてつくってきました。京都は最新のものを取り入れていながら、まちの売り出し方は、東京とは違う、つまり東都に対して古都という補完関係をつくり、東京にないものが京都にあるというまちづくりをしました。このため外国人が東京にないものを見たいと思ったら京都に来るわけです。

もし東京をつくり直すためにある都市をつくるとしたら、東京にないものをどうやってつくれるか、あるいは東京が持っていない機能を何か持っているかということが大切になります。京都はまだ歴史を持っていましたが、東京と同じものをここにつくっていたら、みんな東京に行ってしまったでしょう。

では大阪はどうかと言うと、みんな東京のコピーをつくろうとして負けてしまったのです。関西で起きた会社が結局大阪本社をつくっても、気がついたらほとんど東京に行ってしまいました。大阪はもっと別の都市をつくるべきだったのです。京都は大阪にはなれません。東京も京都になれません。ですから、大阪は大阪でしかあり得ないまちづくりをすべきです。

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国見の思想で遠くから見ても美しい都市を

新しい都市をつくる場合、都市それ自体の中心を何にするかを考えなければいけませんが、例えば国会などが挙げられます。政治家たち全部、それに付随するような機能を移して、東京には絶対持たせないということが大切です。東京にも事務所を置いてこれまでの機能を温存するなどの二重構造にしてしまってはだめです。仮に国会を移すとしたら、そこに入るものと入らないものをきちんと決めて、絶対にまぜこぜにしないということです。それを何にするかはいろいろ考えなければいけないことだろうと思いますが、とにかく新都市と東京の両方にあるようなもの、あるいは季節で振り分けるような中途半端なことをしたらだめでしょう。

また、新しい都市でビルを建てるときは、その高さに見合う森や公園などの緑が必要です。ビルに隣接して森に埋まるような形での遊び空間が必要で、施設と遊び場と森の三つがセットになり、創造力を膨らませることができる場所です。借景とよく言いますが、これがある家とない家では、住んでいる人間は全然違うのです。やはり借景を持てるような空間が必要でしょう。

しかもきちんと開発しないと水脈を切ってしまい、砂漠になってしまいますから木も枯れてしまいます。実は地下を流れる水は非常に大切で、それがあることによって地上の緑が支えられます。

都市というのは本当に宇宙です。宇宙の中に存在しているもので、見えない部分で支えられています。山で支えられていたり、川で支えられていたり、地下水で支えられていたり、森や植物で支えられていて、その中でまた人間が住む場所はすみ分けされているのです。そのような見えない部分を大切にしながら、空から見ても、遠くから見ても美しい都市をどうやってつくるかが重要だと思います。昔だったら、それを国見といったのですが、現在ならば、都市見ということになります。

ヨーロッパの都市では、遠くから見ても、近くに行っても美しい都市がとても多いです。山の上から見ても、結構それなりに個性がありながらもある程度の統一がとれています。しかし、日本の都市ではそのようなところは少なく、京都でも自然が壊されてきていることが非常に問題になっています。何もないところに機能を移すというのは、しょせん合理的な機能主義ですが、これからは多くの人が知恵を絞って、国見、都市見の視点で、遠くから見ても近くを歩いてもいい町並みだと思えるものをつくってほしいと思います。

また、東京からどの機能を移すのかというよりも、まずどのような都市をつくるのか、という理念を掲げなければならないでしょう。英知を絞って、理想都市を考え続けることにより、時期が来たときにはもうしっかりと幾つかのプランが用意されているような蓄積をもっていなければ、また中途半端な都市をつくらざるを得なくなるのではないでしょうか。そうならないことだけはお願いしたいと思います。

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