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「情報化と密接に結びついたマレーシアの首都機能移転」


会津 泉氏の写真会津 泉氏 アジアネットワーク研究所代表、国際大学GLOCOM主幹研究員

1952年仙台市生まれ。1986年(株)ネットワーキングデザイン研究所設立。1991年GLOCOM(国際大学・グローバル・コミュニケーション・センター)企画室長を兼任。

1993年(財)ハイパーネットワーク社会研究所研究企画部長を兼任。1997年マレーシアに移動し、アジアネットワーク研究所を設立。2000年東京に拠点を移し、現在に至る。

主な著書に『パソコンネットワーク革命』(日本経済新聞社)、『進化するネットワーク』(NTT出版)、『アジアからのネット革命』(岩波書店)など。



私とマレーシアとのかかわり

私は97年の4月からマレーシアに3年間住んで、いわゆるアジアの経済危機とそれによる状況の変化をつぶさに目撃しました。マレーシアに行った理由は、直接的には東南アジアのどこかで、アジア全体のインターネットの普及活動のお手伝いをしようということでした。また、マレーシアにおいて、MSC(マルチメディア・スーパー・コリドール)という、新しい行政都市とITやマルチメディア産業の中核となる新しい産業地域を一体的に開発する計画があるということで、その仕事に情報化の面で関わっていたことも関係していたと思います。

マレーシアという国は、この20年で農業国から中程度の工業国への転換を遂げた、アジアの優等生の一つです。とはいっても人口は2200万で、経済規模は日本の40分の1ぐらいと、都道府県の小さいほう一つ分ぐらいです。そのため、97年当時すでに、それまでやってきた労働集約型の仕事は、バングラデシュやインドネシアなどから労働者を入れないとできなくなってきていました。マレーシアには、石油や農産物などもありますけれども、外資を誘致して加工貿易で食べているという部分がかなりあって、次の産業社会のエンジンを探す必要があったのです。その中で、マレーシアにとっては、IT・マルチメディア系の産業が、少なくともバイオなどの産業よりは有望そうだということになり、MSC計画を核としてITやマルチメディアへの産業構造の転換を図ろうということになりました。

彼らは2020年までに先進国に追いつこうという計画を持っているわけですが、マレーシアにとってこうした産業の転換は早すぎるのではないかという声が、当時のマレーシアの中でも日本でもありました。当時も現在もそうですが、MSC計画を核に振興しようとしているIT産業やマルチメディア産業というものが、マレーシアの産業構造として正解かどうかは、まだよくわからないというのが正しいかもしれません。しかし、だからやらないというのではなくて、マハティール首相という非常に傑出した指導者の思い切りによって、いずれ整備しなければいけないのだからやろうではないかということになったのです。

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国の構造転換と結びついた首都機能移転

MSCは、ある意味でマレーシア全体が経済上の構造転換をしなければならないことがベースにあって、産業のエンジンとして期待されていました。この国の産業構造の転換ということと結びついて、首都機能の移転も行われました。首都機能の移転については、国のデザインをどうするかという議論との連動性がかなり高かったのです。

そのため、行政都市となるプトラジャヤを作って省庁移転をすることと、先端産業が集積する情報化モデル都市としてサイバージャヤを、隣接したツインシティの形でMSCの核として作ることになったのです。そういう意味では、単なる首都機能移転とは少し異なると思います。

それと同時に、ある種の地域開発の側面もあったと思います。クアラルンプールというのは、都市計画で西の都市ポートクランに向かって発展していきました。両都市を結びつけるベルト地帯に工業地帯や住宅などを整備していったのですが、ここが飽和してきて、交通渋滞も相当ひどくなってきていました。それを南北軸の方へ変えようということで、新しい国際空港やMSCを南へ持っていったという面もあります。

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MSC計画により進んだ首都機能の情報化

もともと、プトラジャヤの都市計画的な要素の中では、情報化にはあまりウエートがおかれていませんでした。というのも、行政都市であるプトラジャヤを作ることは、MSC計画がスタートする97年以前に既に決まっており、96年に着工されていました。従来型の首都機能移転というか、行政府を箱物としてつくろうというのがプトラジャヤだったのです。それが、横にサイバージャヤが来ることによって、ネットワークづくりを考え直さなければいけないということになったのです。ですから、最初からMSCを前提に光ファイバーを埋め込んだり、役所のビルを設計したりということではなく、MSC計画後に整備していったというのが、正確なところだと思います。

一方、MSC計画を推進しようとしたときには、電子政府プロジェクトがかなり上位に置かれていました。電子政府は、プトラジャヤにも応用され、MANPUという行政改革庁とでもいうべきところが、電子政府の担当になって進めてきました。

首相府を先頭にして、首相府内をペーパーレスにするとか、マハティール氏が電子メールを使っているという話も聞こえてきましたし、行政マンの間では、電子政府化は避けられないので、その対応をしなければいけないとか、国民に電子政府用のカードを持たせるといった話があったようです。既にパスポートの新規発行は、全部ICカードに切りかわっています。現実には調達などでいろいろ問題もあったようですが、国全体の情報化を進める意味でも行政が先にやらないといけないということで、MSCの中に「フラッグシップ・アプリケーション」という形で電子政府プロジェクトを入れたのです。

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MSCの中で成功した大学教育

MSCでは、マルチメディア大学を新設しました。今は、学生が1万人ぐらいいると思います。私はMSCの中で一番成功しているのは、この大学だと思っています。民活の考え方で大学をつくるということで、学長も企業の経営者でした。

マレーシアは、ブミプトラといってマレー人優遇政策といいますか、相対的な差別を是正するための政策があります。例えば、大学では入学者の比率を、マレー系6:華人系3:インド系1というようにほぼ人種別の人口比率に近くしています。必ずしも成績順ではないことは不満が強く、中国人はオーストラリアへ行ったり、カナダへ行ったりして、頭脳流出になっています。また、かえってマレー人をだめにしているという意見もあり、マハティール氏も、一部やりすぎだとか、安住するなということを言っています。

そんな中で、マルチメディア大学は例外規定を設けています。あまり公言はしていませんが、原則として人種に関係なく成績優秀な順に、特に数学ができる者から入れるようにして、シンガポールと優秀な学生の取り合いをしているのです。シンガポールの優秀な大学は、キャラバンを派遣してマレーシアの優秀な学生に奨学金を出して入学させています。マルチメディア大学は立ち上がりが早かったということもあり、優秀な学生を入学させ、人材の育成を熱心にやっています。

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強いリーダーシップによって実現した首都機能移転

サイバージャヤに行ったことのある人は、ジャングルの中に新しい首都をつくるのかとよく間違えます。ですが、実際には、本当のジャングルではなく、既に人の手が入った、人工の農園で、油やしの林やゴム園なのです。プランテーションですから、大型の地主や州政府が土地を持っていましたので、比較的地権者との争いは少なくて済んだようです。そういう場所を選んで移転をしたということはあると思います。ただ、そのような場所へ首相府を先頭に移転をするということで、当然抵抗はあったし、今もあるようです。
マハティール氏は、自分が率先してやらなければ、不便なところへ行けといっても人はついてこないとよく言っていました。一概には言えませんが、彼のリーダーシップが計画実行の強烈な条件になっていたことは確かだと思います。
もっとも、マレーシアの中で開かれた議論をした結果決めたのかというと、そうとはいいきれません。国会そのものが政府にかなり追随しています。これは、マレーシアに限らずアジアのかなりの国がそうなので、社会体制や文化が違うということはあります。ただ、やはり議論型のコンセンサスが十分にあって首都機能移転をしたというよりは、トップダウン的な要素が強かったように思います。
首都機能移転のような場合、ビジョンなり先見性なりを持つことは、国民の合意ができてから決められるとは通常はならないでしょうから、ある種の積極的なイニシアチブが必要でしょうし、後世の評価に耐えられるだけの人物や組織が出てこないと進まないのではないかという気がします。

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MSC計画の現状と効果

MSC計画は、現在のところ、予定より相当遅れています。これには、1997年から98年にかけて突然発生したアジア経済危機でかなりのダメージをうけたことがまず影響しています。もともと、首都機能の移転に際しては、民間企業の資本を活用する「民活」路線が中心で、たとえば政府の建物も民間に建てさせて家賃を払うというようなことを計画していました。高速道路も全て民間活用ということになっていたのですが、むしろ民間企業の方が先に経済的ダメージを受けました。

その後、民活でできないのなら国の資金を入れるということで、かなり計画の縮小はしましたが、事業は継続しています。マレーシアでは、経済危機の影響で発電所などの大型プロジェクトがほぼ全面的に見直された中で、MSC計画だけは、ほとんど見直しが入らずに進められました。政府にとって最も優先順位の高いプロジェクトだということを明確に示したもので、そのMSCを進める公社は、まず先に自ら移転をせよと首相に迫られ、当初、仮建築の建物に移転したほどです。

このような状況について、マレーシア国内でも、全く批判がないわけではありません。ただ、国民の大多数は、「よくわからないけれどもやはりいいことじゃないか」と思っているようです。ITやマルチメディアへのシフトについては、野党の批判的な人たちを含めてだれも全面的な否定はしません。

「もしMSC計画なかりせば」と考えれば、現在でも十分評価されるものだという気がします。あれがなければ、マレーシアの経済はさらに落ち込んでいたことは間違いないと思います。IT産業に従事する人を増やすことだけが必ずしも目的ではないとも思います。マルチメディア大学での教育に限らず、メールを使いり、パソコンで計算したりすることは、国民一般にとっても、これからの社会の読み書きの能力の取得といえます。MSC自体は、農業技術、医療分野など、広い範囲で十分な効果を挙げていると思います。国際的な知識の取得、知的水準の向上、情報の伝播という面でも、大きな影響があったのではないでしょうか。

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情報化に合わせた首都機能移転のデザインを

日本の首都機能移転を考えた場合、これだけ情報化が進んできますと、物理的な機能や場所をどう変えていくかという議論だけをしていても、これからの社会のデザインという意味では、決定的に不足だと思いが薄れてしまいます。

人の移動、情報の移動、物の移動の3つの間のパラレルな関係そのものが変わってきています。電子政府を実現すれば、行政も政治も全部オンラインでできるなどということを言うつもりはありませんが、これらの相対的な関係が変わるとすると、国のデザイン、交通のデザインの仕方も、コミュニケーション系のあり方によって変えていくべきではないでしょうか。

たとえば、日本では、電話会議が極めて少なく、会議はやはりフェース・トゥ・フェースでやらなければいけないのが現状です。電話会議も、少し慣れるとかなりのことができます。フェース・トゥ・フェースと、電子メールや電話のやりとりの間の中間的なコミュニケーション手段として使えます。それで地上交通や航空交通が減るかというと、そんなことは全くありません。ただし、電話や電子メールが効率よく使えるようになっても、空港に行ったらメールも使えないのでは困ります。全体のデザインは、こうしたことを相乗的に見て変えなければいけないのではないでしょうか。

最後に、日本の場合は、組織にせよサービスにせよ、常に中央集中型にデザインされています。しかし、現在出てきている情報のネットワークというのは、分散化が基本です。インターネットは自立分散を中心にできています。首都機能の移転にあたっても、自立という要素をきちんと制度的に取り入れていく必要があるのではないでしょうか。

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