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「歴史に見る都の移転と分散」

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高城 修三氏の写真高城 修三氏 作家

1947年、香川県高松市に生れる。1972年京都大学文学部卒業。1977年、『榧の木祭り』により新潮新人賞受賞。翌年、同作品により第七十八回芥川賞受賞。その後、作家活動に入る。1990年代半ばより、日本古代史および連歌に傾注し、2002年よりインターネット上で「高城修三の連歌会」主宰。

主な著作に『神々と天皇の宮都をたどる』『約束の地』『糺の森』『紫の歌』『京都伝説の風景』『大和は邪馬台国である』『紀年解読』『百花繚乱』などがある。



強大な文明との対峙と「遷都」

遷都と首都機能移転は似たような意味合いでよく使われますが、天皇が動かないのが首都機能移転で、天皇がお移りになるのが遷都だと理解しております。日本で天皇がお移りになるような遷都をしたこと、しかも権威としての天皇と権力が一所になったことは、今までに2回ありました。1回は、藤原京から平安京までの100年と、続く平安時代の400年をあわせた約500年。もう1回は、近代の100年ちょっとです。

このときになぜ遷都を行い、天皇と権力を一所にしたかといいますと、実はどちらも日本が大文明に遭遇したということが背景にありました。強大で圧倒的な文明に遭遇し、このままでは国体が危うくなるというときに、徹底的な中央集権をしています。最初のときは律令国家という中央集権制度を使いました。近代では、大日本帝国、近代国民国家をつくったわけです。

そうしたとき常に日本が使用したのが「和魂」というものです。奈良時代には、「和魂漢才(わこんかんざい)」ということで、知識や技術、つまり「才」は中国文明を取り入れる。しかし、精神、「魂」は和であるということを実行して成功しました。そのとき、非常に強力な中央集権制度をつくり、遷都をし、権威と権力を一つにしました。一致団結して強大な文明の取り入れをしたのです。

これは明治にも再現されました。大日本帝国という国民国家をつくり、強力な中央集権を行います。そして、「和魂漢才」を「和魂洋才」と言いかえて、実行するわけです。これが日本で遷都をしたときであり、天皇と権力が一所になったときです。一所になったというのは、天皇が権力を持ったということではなく、場所が一所になった、天皇の近くに権力があったという意味です。日本では基本的に象徴天皇でしたので、天皇が権力を持ったのは古代のほんの一時期だけでした。

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古代における首都機能の移転・分散 「陪都(ばいと)制」

日本では、魏志倭人伝に「男弟(だんてい)」という言葉で出てくるように政治を実際にする男性と神に仕える女性の二者による共治が、10代の崇神天皇まで行われていました。姫彦制とも言われます。最高女性司祭者を立てることにより、それこそ八百万の神を集めて、連合政権的なものをつくっていたわけです。崇神天皇のときに、男弟が象徴としての司祭者も兼ねることになります。
その後、本来は男弟として政治権力を持っていた天皇家が倭の王になっていくことで御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれるようになりました。本来、天皇というものは象徴的な存在として成立したのです。
ただ、特殊な事例として、中央集権国家成立の過程で壬申の乱があり、それに奇跡的に勝つことで、天武天皇が非常なカリスマ性を持つことになります。7世紀末、694年に遷都宣言のような形で藤原京に遷都が行われ、それから100年を期して平安京がつくられました。これで最終的に日本の首都の構造が定着することになるのですが、そこには100年間の試行錯誤があったことになります。日本人というのは、昔から100年を折り目にすることが割とあるのですが、この100年間で日本における首都の原形のようなものが確立します。
もっとも、これが普遍的な形かというと、そうでもありません。藤原の都をつくろうと計画していた段階では、天武天皇がいろいろな候補地を考えていました。また、積極的に「陪都(ばいと)制」ということを考えていたようです。これは、「複都制」という言い方もされますが、都城・宮室を一つとは限らずに二つ、三つつくるということです。つまり、首都機能を分散させることが考えられていました。
実際、あの時代に100年間機能していた都としては、まず難波(なにわ)の都があります。ここは、外交関係や港、交通機関の中心として、藤原京や平城京の時代まで陪都(副都)としての機能を果たしていました。長岡京のときに二つ、三つあった都を一つにしましたが、平城京のときにも、ほかに幾つかの都をつくろうとしています。平城京遷都は710年、それから20年ほど後には恭仁京(くにのみやこ)をつくったり、紫香楽京(しがらきのみや)に行こうとしたりします。もう少し後になりますと、滋賀県の保良宮(ほらのみや)、河内の由義宮(ゆげのみや)があります。ある意味では、そういうことが当然だった時代でもあるわけです。とにかくできる限りの試行錯誤をやっていた時期といっていいのではないでしょうか。そうした蓄積の上に平安京がつくられ、1000年以上続いたのです。

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分権型社会が日本本来の形

日本では、大文明に対峙するとき以外、大部分がこういう形で権力の分散をしていました。このときは、集権制ではなく分権制をとります。言いかえれば、封建制、冊封(さくほう)制をとるわけです。律令国家ができる以前には、国造(くにのみやつこ)制というものをやっていました。地方豪族に土地の支配を安堵してやり、何か事が起こったときには兵隊を差し出させる。これが数百年続いた日本の本来の形式です。

律令国家は中央集権ですが、平安時代も中期になると、こうした日本本来の形に急速に戻っていきます。そして武士団が台頭してきて、自分の領地の安堵を求める寄進地系荘園が成立しました。しかし、そのうちに「安堵ではなく、自分の実力で取ろう」ということになってきます。鎌倉幕府の成立により、鎌倉幕府に安堵してもらうかわりに、何か事が起こったら、奉公に行くということが、また700年ぐらい続きました。日本の歴史では、こうした分権的な形がほとんどなのです。

こうした分権的な時代というのは、日本の自立的な発展がすすんでいたときです。強大な文明を急速に消化しなければならないときには、国民が一体となって遷都をし、天皇と権力の所在地を近くに置いて、それに対峙します。一方、自立的な発展がすすんでいたとき、つまり平安時代の中期から江戸時代まで、国風文化から江戸文化までの間には、京都を中心として日本文化が醸成されてきました。

こうしたときには、権力は別の場所に置いています。つまり、鎌倉、江戸に置かれていました。一度戻したことがあったのですが、これが大失敗に終わります。どうやってもうまくいかず、結局は応仁の大乱になって、100年以上も戦国時代が続いてしまいます。その反省から、権力の所在地は京都から離そうということになりました。200年ほど続いた室町時代の失敗を反省したわけです。そして豊臣秀吉は、権力を伏見、大坂に置きます。しかし、京都から30キロ、50キロという距離ですから、十分に離れてはいなかったのかもしれません。

結局、権力は江戸に移り、日本本来の体制、三都制が確立します。これはまさに、天武天皇が考えた陪都制による権力分散を社会全体に広げたものといえます。江戸時代には非常に高度な社会がつくられていましたから、その中で経済・文化・政治がそれぞれ適切な規模で調和できるようなシステムができたわけです。

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権力の相互牽制システムとしての陪都制

歴史的に見ると、陪都制に移行するきっかけは、ある意味自然発生的であったと思います。2世紀ぐらいまでは、北九州が倭を代表していました。もっとも、中国王朝から倭王の称号はもらっていなかったようです。中国王朝にとって周辺諸国に称号を与えたということは一つの徳であり、それを朝貢という礼で返してもらうというのが彼らの論理ですから、中国の歴史書は得意になって書くはずです。ところが、中国の歴史書には、北九州の王に倭王の称号を与えたという記録がありません。

その間、神武東征のような形で、何波にもわたって北九州から畿内に勢力の移動が起こります。その結果、北九州と畿内という2つの中軸が出来上がりました。そして対外的な緊急時には北九州が活用されました。畿内でも、4世紀後半から難波(なにわ)が非常に重要になっていました。4世紀後半の応神天皇のとき、朝鮮半島に兵を送らなければならないという事態があったために、どうしても海に開く拠点、外港が欲しかったのです。それで、大和と難波の二都的な形になっています。

これらは自然発生的であり、陪都制がある種の権力分散になっているわけです。天武天皇などは直感的にこうしたことを感じていたのではないでしょうか。

また、逆に言えば、新しい権力基盤を築こうとするときに、陪都制を利用したりもします。藤原仲麻呂=恵美押勝(えみのおしかつ)が保良宮をつくったのは、そこに孝謙天皇を迎えて、自分の権力掌握に役立てようとしたからです。

ヨーロッパでは、三権分立、政教分離を近代化の過程でやってきています。日本でも、非常に古くから陪都制のように、都の機能を分散させることによる権力の相互牽制のようなことをやってきたのではないでしょうか。日本では、司法・行政・立法という三権分立が近代になって成立します。政教分離は割と早くできていて、江戸時代に完成します。もっと言えば、天皇が祭事をやり、政(まつりごと)は臣下の太政大臣などがやるという分離もやっています。日本人は分権、権力の相互牽制のシステムとして、こうした祭政の分離、首都機能の分散による権力の分離という形をつくり出したのではないでしょうか。歴史的に見れば、そのほうがむしろ普通なのです。

逆に、権力が集中しているのは非常に短い期間です。強大な文明から圧倒されそうになったとき、国民が一丸となってやらなければならないときというのは、ある意味では文化的な戦時体制、民族的戦時体制です。そのときには遷都をし、天皇権威と権力の場所を同じにして、一致団結します。首都は一つで、集権制で立ち向かうわけです。非常に効率的なやり方です。そして、その必要がなくなれば、また相互牽制のシステムを取り戻していくということを繰り返してきたのではないかと思います。

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日本の歴史的なパターンと日本人の精神的態度

日本は、これまで天皇と権力を同じ場所に置く、別々の場所に置くということを非常に規則的にやってきています。最初に一所になったときは、約500年続いています。次の鎌倉では分かれます。次の室町では、また京都で一所になって238年続きますが、これではいけないということで江戸でまた分かれる。そして、近代の東京で一所になっています。

これは、私が20年位前にある新聞に書いたことなのですが、天皇と権力が一所の時間は半分、半分になってきていることがわかります。最初が約500年、次はその半分の約240年、次の東京は、私が書いていたときで110何年になっていました。ですから、早くしなければ、日本の歴史的なパターンが変わってしまうというようなことを書いたことがあります。しかし、今年で135年ですから、もう10数年過ぎてしまっていることになります。

逆に、分かれている時間は倍になっていきます。鎌倉が140年、その次の江戸が266年です。片方は半分になり、片方は倍になっていっています。そうすると、次は分かれて、500年になるだろう。そうなれば、非常にシンメトリックな歴史ができ上がります。

日本の歴史的なパターン
【都】 【年代】 【天皇と権力が同じ所にあった期間】 【天皇と権力が分離した期間】
藤原京 694 約500年(498年)  
平城京 710 約500年(498年)  
長岡京 784 約500年(498年)  
平安京 794 約500年(498年)  
鎌倉 1192   140年
室町 1336 238年  
江戸 1603   266年
東京 1869 135年  

これは単なる偶然ではなく、順番に変わっていることには非常に意味があります。日本人はこれまで、権威と権力を一所にする、別にするということを順番にやっています。これをやらなければ、日本はうまくいかないのです。首都機能移転問題でも、「東京で改革をすればいい」と言う人がいますが、日本人は形が変わらなければ、変われないのです。

日本人は形が変わることによって、その精神、あるいは実態が一致するように常に働いています。いい例は「衣替え」です。日本では、6月1日と10月1日に衣替えをします。9月には寒い日でも半袖を着ていますし、10月になれば、暖かくても冬服にかえてしまいます。それによって気持ちが変わってしまうのです。それが日本人の伝統的な態度です。これは、おそらく稲作が始まったころ、あるいはもっと前からの長い伝統なのでしょう。お茶やお華という日本文化ができるのは京都を母胎にしているのですが、それよりもっと古い時代からの非常に大事な精神的態度ではないかと思います。

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遷都の意思決定メカニズム

これまでの日本の場合、どのように遷都の意思決定をしてきたかと言うと、まず陪都をつくってどれがいいかを選び出すということからはじめていました。陪都をつくることには、誰もそれほど文句を言いません。陪都をつくると、今度はどこに行こうかというような選び方をするわけです。聖武天皇は3つくらい陪都をつくって、あっちに行ったりこっちに行ったりしていました。そして、最後にどこに行っていいのかわからなくなって、役人に投票させたりしています。

日本での大きな決断としては、桓武天皇の平安京への遷都、その前の長岡京への遷都があります。これは、それまでの陪都制を一つの都にまとめたということで非常に大きな意味を持っています。このときはものすごい権力で遷都をしたわけです。あのときの桓武天皇は珍しく専制権力を持っていました。

その次は鎌倉幕府と江戸幕府です。このときも、戦争に勝ったことでやれたのです。戦争に勝つと、非常に大きな権力ができます。ただし、それでも天皇にお移りいただくということまではできませんでした。ですから、機能を分散し、陪都をつくったのです。近代は強大な西欧文明との対峙ですから、これはともかく天皇に来ていただかなければなりませんでした。それでも、京都の人間から言わせれば「あれは行幸だ」というような形で遷都が行われました。

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首都機能移転は時代の要請

日本はシステムを大きく変えるとき、常に遷都、首都機能移転を行ってきました。千何百年かの歴史を通観すると、これが事実ではないかと思います。遷都をするのは、大文明に遭遇して国家の体制が危うくなるときです。自発的な発展、成熟、展開などをしようとするときには、首都機能の分散や移転をしています。

私が古代宮都を探索しだしたのはバブルが崩壊した直後のころからですが、このときは首都機能移転の好機だと思いました。構造改革という問題が提起されて、戦後の55年体制と言われるようなシステムだけではなく、近代のシステム全部を変えることが要請される事態になっていると思いました。

そのころ、首都機能移転とセットで出てきたのが道州制です。道州制は今なおできていませんが、今のまま東京に首都機能を集中させていたのでは、絶対にできません。司馬遼太郎さんは「東京は近代の配電盤だ」と言っていましたが、東京とは、近代という電力(エネルギー)を集め、適当に変圧をかけて、全国に送るための場所なのです。ここを移さない限り、近代のシステムは変わりようがありません。

歴史的に見て、今の日本には首都機能移転が求められているのだと思います。先ほどの歴史的パターンからいえば十数年遅れてしまっているのですが、今からでも首都機能を移転すれば、日本は嫌でも変わることになるでしょう。分権制も進んでいくはずです。そうすれば、構造改革も進んで社会システムも変わることができるように思います。

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現代日本に求められる陪都制

「今は首都機能移転の問題よりも、国や地方の抱えた借金をどうするかのほうが喫緊の課題だ」という意見もあります。今の日本においては、高度成長でなくても3〜4%ぐらいの成長ができるようなシステムをつくるには、構造改革をするしかないわけです。先ほど言いましたように、形が変わらなければ、日本人は変われません。ですから、構造改革を進めたいのであれば、まず首都機能移転を考えるべきだと思います。
首都をどうするかという問題は、国家にとって非常に重要です。歴史的には、日本は外圧に対する反応によって、集権制をやっています。外圧がかかったときには、集権制にしておかなければ、効率的に対応できません。ばらばらであれば、それこそ植民地化されてしまったりします。外圧はもちろん日本を変えますが、それは日本が中でしっかりと団結していることが前提です。集権的に団結し、外圧に耐え、それをてこにして変わっていく。それは近代でもそうですし、その前の古代でもそうです。律令国家というものをあれだけ早く、一気につくっていくことができたのは外圧があったからです。
逆に、自ら変わるとき、例えば江戸時代には外圧はほとんどありませんでした。そういうときには、三都制をとりました。これが日本的な権力牽制の形です。歴史的な視点で構造改革や地方分権などをするためには、現代における陪都制のようなものが必要だと思います。うまくいった時代はいつもそうでしたし、どちらかというとそのほうが長いのです。危機に際してだけ、あるいは急速に国体を変えなければならないときだけ、100年か200年ぐらいの単位で集権的にやっています。ですから、長い歴史を通観すれば今が異常な状態なのだという認識を持つべきだと思います。

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