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江戸・東京400年の歴史を踏まえた首都機能移転とは

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大石 学氏の写真大石 学氏 東京学芸大学 教授

1953年生まれ。1978年東京学芸大学大学院修士課程修了。1984年筑波大学大学院歴史人類学研究科博士課程単位取得退学。徳川林政史研究所研究員、日本学術振興会特別研究員、名城大学法学部助教授、東京学芸大学助教授などを経て現職。

東京都中野区文化財保護審議会委員、東京都豊島区文化財保護審議会委員などのほか、NHK金曜時代劇『蝉しぐれ』(2003年8月放送)、NHK大河ドラマ『新選組!』(2004年1月〜12月)などの時代考証を担当。

主な著書・編著書に『吉宗と享保の改革』(東京堂出版)、『規制緩和に挑んだ『名君』−徳川宗春の生涯−』(小学館)、『江戸時代への接近』(東京堂出版)、『多摩と江戸−鷹場・新田・街道・上水−』(けやき出版)、『首都江戸の誕生−大江戸はいかにして造られたのか−』(角川書店)、『新撰組−「最後の武士」の実像−』(中公新書)などがある。



江戸時代の捉え方

昨年2003年は、徳川家康が1603年に江戸に開府してから、ちょうど400年目の年でした。その間の1867年に明治維新があったわけですが、今までの歴史の教科書などでは、ここから日本の近代が始まったという理解になっています。そして、1867年以前の江戸時代は、私たちには理解不可能な、遠く断絶した時代として捉えられてきました。しかし、近年こうした江戸時代像がゆらぎつつあります。

たとえば、時代劇などでも、江戸時代の捉え方はだいぶ変わってきています。昔は、主役が悪役をばったばったと切り、刃こぼれもなく、返り血も浴びずに去っていくという、いわば様式美を重視する別世界の出来事として描かれていました。ところが、最近では、私たちと同じような家族関係や感情が、物語の中心になっています。すなわち、江戸時代は私たちが理解可能な地続きの時代として捉えられるようになり、逆に幕末維新の変化は、これまで言われていたほど大きな変化ではないのかもしれないという捉え方が見られるようになってきました。

このような捉え方は、日本の歴史において、より重要な変化は戦国時代にあったのではないかという意見に連なります。すなわち、戦国時代から江戸時代にかけて、神や仏や自然に依存する社会から、人間が自らの力を信じ、主体的に行動する社会へという変化が見られます。たとえば、河川をコントロールし、国土の大開発を行い、合理的な思考や制度が発達します。こうした変化は「文明化」とも呼ばれますが、現在の日本から見ると、明治維新よりもこういった文明化への移行の方が重要ではないかと考えるわけです。

これら2つの考え方の違いは、江戸時代を明治維新によって倒される古い封建制の時代と見るか、それとも現代に連なるアーリーモダン(初期近代)と見るか、という江戸時代観の違いにもかかわりますが、私は江戸時代の「アーリーモダン=近代を準備した時代」の側面を重視したいと思います。

このような視点から、都市江戸がどのような役割を果たしてきたか、あらためて見ると、265年間にわたり全国約260の大名が江戸に参勤交代をすることで、江戸一極集中といえる状況が生まれ、列島社会が均質化・等質化する実態が見えてきます。明治時代から集権化が始まるという一般的理解をもとに、「江戸時代に帰れ」という主張がみられますが、実は江戸時代から列島社会の均質化は始まっていたのです。言い換えれば、統一権力、鎖国体制のもとで、国家が社会を管理する制度・システムが、江戸時代を通じて整備・強化されているのです。私は、その延長線上に明治維新があり、近代日本があると考えています。

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首都としての江戸と首都機能

明治維新の際、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城が無血開城され、新政府は列島において最もインフラ整備が進んだ都市江戸を無傷で手に入れ、ここをあらためて首都東京としました。しかし、これは決して偶然の選択ではありません。都市江戸が265年間かけて首都機能を蓄積してきた結果、首都を他の地に選びようがないほど、卓越した機能を備えていたことの裏返しとも言えます。

このように「江戸時代の首都=江戸」と考える「江戸首都論」には、かつて2つの方向から批判が出されました。1つは、鎌倉・室町などの中世史を研究する人たちからのもので、「江戸がいつ首都になったのか。首都宣言をしていないではないか」というものです。もう1つは近現代史を研究する人たちからのもので、「東京遷都により江戸が東京になったさいに、はじめて首都となったのではないか。それ以前は、論理的には京都が首都ではないか」というものです。

しかし、幕府の記録である「徳川実紀」によれば、関が原の合戦後、徳川家康と息子の秀忠は、どこを政治の中心とするか話し合っています。このとき大坂に徳川幕府を開く可能性もあったのですが、結局江戸が良いという結論になり、大坂は豊臣秀頼の城下町になりました。つまり、江戸が首都として主体的に選ばれたと考えられるわけです。

また、8代将軍の吉宗は、儒学者の室鳩巣(むろ・きゅうそう)と、参勤交代に関する議論をしています。3代将軍家光のときに参勤交代が制度化されたわけですが、吉宗はその理由を、江戸が「国都」(こくと)の体をなしていなかったからだと理解しているのです。国都とは首都のことです。参勤交代により領地と江戸を往復する大名は、江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷と3つぐらい藩邸を持つことになります。その結果、今の千代田区、文京区、新宿区、港区あたりに広大な武家屋敷地が展開することになったのです。

こうしたことから、将軍吉宗は、首都を整備する政策として参勤交代制度を認識したのです。実際に、将軍家光がそう考えて参勤交代を制度化したのかどうかは不明ですが、江戸が百万都市に成長したのち、将軍吉宗がこのように考えていたことは注目してよいと思います。

さらに幕末期になると、勝海舟は、大政奉還をした上は江戸は皇国の首府であるという言い方をします。その首府で戦争をすることは主君徳川慶喜が望むところではないので、それは避けたいということで、江戸城の無血開城が成功したわけです。鎖国体制のもと朝鮮からの通信使や、琉球からの使節、さらにはオランダ商館長なども江戸の将軍にあいさつに来ますし、ケンペル、ツンベルグ、ゴローニン、シーボルトなど日本を訪れた外国人も江戸を首都と認識しています。幕末には、プロシア、フランス、オランダなどの大使館が品川区や港区付近の寺院に設置されます。この一帯は今でも大使館や関係者の住居などが多い地域ですが、幕末期にもここで首都外交が展開されたわけです。

以上のように、江戸時代において、都市江戸は、幕初から幕末にいたるまで首都機能を維持・強化していました。これまで、東京遷都というセレモニーが強調されて、明治維新で首都が移転したと言われてきました。しかし、あらためて、江戸時代の政治・行政の中心地を考えたとき、「江戸首都論」というのは十分に説得力のあるものと思います。

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新しい社会に対応するシンボル

このような江戸・東京400年にわたる首都機能が、今日大きく揺るがされようとしています。私は、首都機能移転の問題をそう位置づけています。

首都機能を移転するということは、政治・行政の中心を変えることによって、国家や社会のあり方を変えることです。今日、グローバル化の中で、新たな国家や社会が構想され、それに対応する新たなシンボルとして首都機能移転が考えられる必要があるように思います。

そのさい、道州制の議論も重要だと思います。道州制の議論は東京一極集中を是正し、東京の肥大化した機能を分散することにもつながるからです。

さて今日の構造改革は、国立大学法人化や郵政民営化などに見られるように、江戸幕府以来進めてきた「大きな政府」の方向を180度転換し、「小さな政府」を目指しています。「国家が民を守る。民というのは国家に頼っていれば安寧である」という大きな政府の理念が、グローバル化によって大きく崩れてきています。鎖国以来の保護貿易体制や、江戸時代の仲間組合・株仲間に起源をもつ「業界システム」なども崩れています。

江戸・東京400年の歴史の中で形成されたさまざまな制度・システムが、競争原理・市場原理のもとで崩壊しつつあります。そういう意味では、現在の首都機能移転を含む構造改革の意義は、江戸・東京400年の「歴史の転換」と捉えることができるのです。

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江戸・東京400年の歴史的蓄積は大事

今日、首都機能移転論議が停滞しているのは、やはり首都機能が東京を離れられないことが一因になっているように思われます。それは、江戸・東京400年の重みとも言えます。

これは冒頭で述べたように現代社会が江戸時代の延長上にあるという認識ともかかわります。いきなり首都機能を東京から遠く離れた場所に移転するのは、いろいろな意味での抵抗があるのではないでしょうか。首都機能を移転するのであれば、やはり歴史的な蓄積を大事にして移転先を選ぶべきだと思います。

言い換えるならば、首都機能の移転先は江戸・東京からそう遠くないところで考えるべきということです。400年の発展・蓄積を全て断ち切るとなると、これは大変なエネルギーが必要です。結局、明治維新のエネルギーでは足りなかったわけです。

そう考えると、私見になりますが、江戸・東京との歴史的な連続性からみて、山梨県の甲府市近辺を現実的な候補としてもよいのではないかという気がします。現在の候補地とは違いますが、歴史的な連続性を尊重すると、それほど突飛な意見ではないと思います。

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甲州街道が結ぶ江戸・多摩・甲府

江戸時代、首都江戸と多摩・甲府は、甲州街道を通じて密接にかかわっていました。江戸周辺の開発の様子を見ると、江戸の東側、現在の江東地域は水が多くて、ベースは水田地帯です。今日でも荒川・江戸川など多くの河川がありますが、江戸時代は利根川流域まで水田が広がっていました。この地域と江戸の関係は、小松川の小松菜など江戸向けの野菜類も多く作られましたが、基本的には米が1年に1回作られ、江戸に運び込まれるというスタイルですから、江戸の西側にくらべると、両者の関係は希薄でした。

一方、西の多摩地域は基本的に畑作です。8代将軍吉宗の頃、大岡越前守忠相が町奉行を勤めた頃に最終的な新田開発が行われた地域なのですが、関東ローム層で水もちが悪いこともあって地質には恵まれませんでした。このため、開発後は、江戸の下肥えを買って畑に投下しました。そして、そこでできた野菜や穀物などを、江戸の町に売ったのです。練馬大根などはブランド品でした。米とは違い、野菜は、日々売られます。商品とともに、人、文化、情報も交流します。多摩は江戸城や江戸の町を支えるヒンターラント(後背地)としての性格を強め、江戸の東側にくらべ、より密接な関係をつくっていったのです。

以上のように、江戸の首都機能を直接に支える首都圏としての機能と性格は、東よりも西の地域で強化されたのです。近年、都庁も、八重洲から新宿へと西に移っています。江戸・東京400年の地域発展のベクトルは、西へ向かっているというのが実態ではないでしょうか。

このベクトルの延長上に甲府があります。甲府は、江戸初期以来徳川一門が領地とし、宝永元年(1704)に5代将軍綱吉が重用した側用人の柳沢吉保が領主となり、享保9年(1724)にその子吉里が大和国郡山(奈良県)に転封されて以後、ずっと江戸幕府の直轄地でした。

また、江戸と甲府の間にある八王子(東京都八王子市)は、山梨から江戸に入るさいの防衛拠点であり、八王子千人同心という江戸幕府が土着させた郷士1000人がいました。幕末の新選組隊士の井上源三郎は、千人同心の家の出身です。江戸の軍事施設である千駄ヶ谷と和泉の焔硝蔵は、甲州街道を通じて甲府城につながっていました。幕末期戊辰戦争の過程で、京都から江戸に戻った近藤勇ら新選組は甲陽鎮撫隊として甲府城に向かいますが、これは、江戸防衛のための作戦でもあったのです。さらに、甲府は江戸との文化交流も活発で、「西江戸」ともいわれました。

すなわち、首都機能の移転を考えるさい、歴史的・文化的に江戸との関係の深い甲府周辺がよいのではないかと考えるのです。首都機能の移転にはいろいろな要件を考慮しなければならないでしょうが、このような見方も歴史的には一つ成り立つのではないでしょうか。

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首都機能移転の現代的な意味

今日、首都機能を移転するのであれば、これからの首都とはどのようなものであるべきか、ということを示さなければなりません。すなわち、首都機能移転論は、新たな首都ビジョン、国家ビジョンを伴うものでなければならないということです。そのさい先に述べたように、道州制は避けて通れないテーマだと思います。現在、首都機能移転論と道州制の議論が別々に行われているのは、大きな問題だと思います。一元的・中央集権的な国家や社会の構造を転換するさい、首都機能移転と道州制導入はお互いに有効に働くと思います。各地の州都・道都の役割も重要になります。州都・道都は首都機能を分散させるとともに、各地の個性豊かな文化や情報のセンターとして発展することが期待されます。
以上のことを踏まえた上で、首都機能移転には2つの視点が必要だと思います。1つは、東京からの視点です。現在の東京の過密化をやわらげ、1人1人がより豊かなくらしができる環境整備の側面です。首都機能が移転しても、東京の文化・情報・経済などの独自の機能は引きつづき維持されるものと思います。江戸時代以来の蓄積は、首都でなくなったとしてもやはり魅力的です。道州制の下の1つの「州都」として発展してもいいと思います。
もう1つは、全国からの視点です。例えば、大規模災害の場合、これだけ東京に機能が集中していると、東京が被害にあったとき全国的に深刻な影響が出る。州都・道都へ首都機能の一部を分散・維持しておけば国家総体のリスクも減ることになります。
これら2つの視点を成り立たせるためには、私は江戸東京の魅力を残しつつ、少なくともそう遠くない時期に、首都機能を動かしてみても良いのではないかと思います。

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