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歴史に見る首都機能移転の力学

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井沢 元彦氏の写真井沢 元彦氏 小説家

1954年生まれ。愛知県名古屋市出身。1977年早稲田大学法学部法学部卒業後、東京放送(TBS)に勤務。同社報道局(政治部)記者時代の1980年に『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞。1985年に同社を退職し、作家活動に専念。歴史推理・ノンフィクションに独自の世界を開拓し、週刊ポスト連載の「逆説の日本史」は500回を超えてなお回を重ねている。現在、日本推理作家協会常任理事を務めるほか、テレビ出演、講演活動などに幅広く活躍している。

主な著書としては、『言霊』『穢れと茶碗』『隠された帝』『天皇になろうとした将軍』『逆説の日本史』(古代黎明編から戦国覇王編まで既刊)『世界の「宗教と戦争」講座』『銀魔伝』『黎明の反逆者』『魔境の女王』『恨の法廷』などがある。



近代以前に首都の移転が行われた理由

首都機能の「移転」という言葉が使われていますが、移転というと完全に動いてしまうという感じがあります。私は、首都機能が過度に集中しているから分散すべきだということでこの問題をとらえています。

歴史ということからいえば、長い歴史の中で首都の移転ということが何度か行われてきました。しかし、今回の首都機能移転は非常に特異なケースで、過去の歴史はあまり参考にならないような気がします。

なぜかといいますと、中国の例を見ると一番わかりやすい。ヨーロッパでは首都がローマ1つだけだったり、ころころ変わったりしているのですが、中国ではだいたい1つの大きな国家があり、そこで首都をどうするかということになっています。もっとも、最初のころは戦国時代で国がまとまっていないので、首都も定まっていませんでした。それが秦の始皇帝の時代になって、首都が定まります。しかし、昔は交通が不便でしたから、領土が広がれば広がるほど、国の中央部に首都を移転したいということがありました。また、異民族が攻めてくるということも考えられます。中国の場合ですと、北から攻めてくるということになりますが、そうするとやむをえず首都を南に移転することがありました。

このように近代以前に首都の移転がどういう場合に行われてきたかを考えると、国家発展上の事情で今までの首都では不便になる場合や、国防上の問題がある場合、それから人心一新、心機一転を図る場合に首都が動いてきているわけです。

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大きな危険を抱える東京一極集中

首都を考えるときに昔と今とで違うのは、昔だったらできなかったことが今ならできてしまうということにあります。少数のテロリストが首都機能を破壊するということは、昔は絶対に不可能でしたが、今はそれができるようになっています。現在では、首都機能が集中すればするほどそういったことが可能になってしまっているという状況にあります。そうすると、リスク配分という意味から、現在では首都機能を幾つも持つべきだということになると思います。

なぜこれまでは首都を大きくつくって機能を集中したかというと、そのほうが効率的に国家の運営ができるということがあったためです。特に昔は有力な通信手段もなかったですから、1つのところに機能を一極集中させることによって、国自体を発展させるということが考えられました。日本も、特に明治維新以降ある意味で地方は置き去りにして、東京に機能を集中させて道路などもまず中央でつくるということを進めてきたわけです。ですが、今はそういう時代の常識ではかれない部分が出てきてしまっています。

これからのキーワードはやはり安全だと思います。これは、首都に関しても食料やほかのことに関してもいえることです。

こうしたことは世界中どこでも通用する事情ですが、日本の場合はもう1つ固有の事情があります。日本は地震国ということで、首都圏、小田原まで含めれば大首都圏には定期的に必ず地震が襲ってくるわけです。そういうところに首都機能を集めておけば、被害が余計に大きくなってしまいます。地震ということでいうと、日本列島の中で安全なところというのはほとんどないのですが、それでも大地震が定期的に襲うということは考慮すべきだと思います。東京に一極集中させておくのではなく、機能を分散し、半分に減らしておけば、被害も半分で済むわけです。また、あまり過度に首都機能を集中させるということは、テロリストの絶好のターゲットになって国家の安全が脅かされやすいということもあります。

考えてみれば、アメリカですら首都をニューヨークではなく、ワシントンにおいています。アメリカにはたくさんの経済の中心がありますが、金融の中心がニューヨークで、国家の政治の都がワシントンになっています。アメリカのように広大な国ですら、機能を振り分けていることを考えると、日本はやはり異常だと思います。そこはなんとかすることが必要なのではないでしょうか。ですから、首都機能を分散すべきかどうかといわれれば、私は分散すべきだと思います。

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六波羅探題、鎌倉府の果たした役割

日本の歴史を見てみると、鎌倉幕府の場合、鎌倉のほかに六波羅探題というものが京都にありました。室町幕府の場合でも、京の室町に本拠があって、鎌倉府がありました。もっとも、鎌倉幕府に関しては、ちょうどイギリスの植民地であったアメリカが独立したのと同じような形で、武家が東国だけで独立しようとしたということがあります。そして、返す刀で本国も支配してしまったような状況でした。鎌倉幕府とは東国の武士たちが中心となってつくった、いわば独立国だったわけです。ですから、鎌倉幕府の成立によって日本の政治の舞台が初めて関西から関東へ移りましたが、西国では相変わらず朝廷が政治を行っていました。その朝廷の監視、あるいは西国全体を治める要職として、六波羅探題を京都に置いたわけです。

なぜこういうことをするかといいますと、昔は通信手段も交通手段も不便でしたから、直ちに連絡を取らなければならない緊急非常の場合、対応する手段がありませんでした。今であれば電話や無線で中央に指示を仰ぐことができますが、昔はそのために何日もかかりました。何日もかかるということは往々にして手遅れになる場合もあるので、大きなブロックごとに自治権を与えるような感じで拠点を置いたわけです。

ただ、今は通信状況も非常によくなりましたし、昔とは比べものにならないスピードで物資や人間が移動できますので、昔の例はあまり参考にならないと思います。鎌倉幕府に対する六波羅探題もそうですし、室町幕府に対する鎌倉府もそうなのですが、要するに首都のコピーというようなところがあって、機能の分散ではないわけです。例えば、国会機能と行政機能というように機能を分けているわけではなく、それぞれが小さな政府になっていました。

室町時代になると、首都が鎌倉から京都に戻ってきます。これは、室町幕府成立の事情に引きずられたところがあります。京都の後醍醐天皇を中心とした勢力が鎌倉をたたきつぶしたため、一度鎌倉は廃墟になっています。そして、後醍醐天皇をうまく棚上げしてしまって、京都の地で政争に勝って天下を取ったという感じです。そういう意味で、京都を離れにくかったのでしょう。武士の本場は関東ですから本当は関東に本拠を置きたかったのでしょうが、鎌倉政権をつぶすために、もう一つの有力な政権の地である京が利用されたわけです。それで結局、京の地位が重くなってしまったというところがあったのだと思います。

もっとも、室町幕府の場合、鎌倉府がいうことをきかなくなって逆らうようになってきたので、一度たたきつぶしています。しかし、それだけではだめで、結局2つに分裂してしまいます。その結果、ますます幕府の支配力が弱まることになってしまいました。鎌倉、室町時代では、機能を分散するときに通信手段、交通手段がないということが非常に大きなネックになっていたわけです。

もっとも、今はそういう問題はありませんから、機能を分散させることによる危険性、マイナス面というのは考えにくいと思います。例えば、1つの省庁を別のところに移転したら、役人が勝手に変なことをするという事態はまず考えられません。現在の機能分散を考えるのであれば、通信は一瞬にして結べますから、同時に人間やものを動かす道路や高速鉄道網などでもしっかりと結ばれていたほうが何かといいと思います。

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江戸と大坂の成り立ちと役割分担

今の首都機能移転を考えるのであれば、江戸時代の江戸と大坂の分担が参考になるかと思います。当時、江戸は政治の都であり、大坂は物資の集積地でした。昔は、陸路での輸送があまり役に立たなかったため、海運が非常に重要なファクターになっていました。そして、海運の中心となっていた大坂湾を抱える大坂は、物資の集積地として非常によいところだったのです。そのため、「天下の台所」と呼ばれるまでになったわけです。このとき、経済の中心は大坂であり、政治の中心は江戸であるという分担が成り立っていました。

家康はなぜ幕府を江戸に置いたのかというと、1つには日本の領域が広がったということがあります。それまでは、蝦夷地、北海道は日本の領域として意識されていませんでした。一番南にある松前だけに少し領地があるという感じでした。しかし、これから北海道を開拓しなければならないということになると、やはり首都が京都では、西に偏りすぎているということがあったのだと思います。

しかし、そうであれば別に江戸ではなく、関東地方のどこかでもよかったはずです。実際、鎌倉時代、あるいは小田原・北条氏にしても、江戸を首都とはしていません。これは大変不思議なことですが、一つには国防上の理由がありました。小田原は細くくびれた地形で、大軍を待ち受けやすく、国防上便利な土地でした。鎌倉も三方を山に囲まれ、前が海です。

交通の便がいいところというのは、逆にいえば四方八方から攻められやすいし、略奪もされやすい。中国はそれを城壁で囲うことで解決しました。日本はずっと解決方法がありませんでしたので、あえて天然の盆地である京都にこもったりしていたわけです。

その問題を解決したのが秀吉でした。本願寺に見習ったのでしょうが、巨大城郭を建てることで安全を確保すると同時に利便性を生かすということをしました。

そういう流れの中で考えると、江戸が開発されていなかったのは、地形上の問題があったということです。江戸は、平野とはいうものの、やたらに小山がありました。現在、神田台や駿河台と言われているところは、みんな山でした。平地の真ん中に要らざる山がたくさんあって、非常に使いにくい土地だったわけです。また、巨大な人口を潤すような水源もありませんでした。そういう意味でも、江戸は首都としてふさわしい土地ではなかったのです。

しかし、家康は全国の大名を動員できるようになりましたから、大工事を行うことによってこの2つの問題を解決しました。山を突き崩して、その土を使って埋め立てを行い平らにしました。築地などはそうしてできたところです。川の流れは、もっと後になりますが、玉川上水などをつくらせました。古い例はほかにあるかもしれませんが、水道を大規模につくったのは江戸が最初です。そういうことをして都市としての機能を維持させました。そして、政治の本拠を置くことによって、人工的な大都会にしたわけです。

「難波は天然の大都会」という言葉があります。難波は交易に便利な土地で、琵琶湖という巨大な貯水池もあって、広大な耕地を抱えていますから、ほうっておいても人が集まります。しかし、江戸は人工的に都市機能を維持するようなことをしなければ、あっという間にだめになってしまう。江戸は、「難波は天然の大都会」ということの逆だったわけです。

今であれば、こうした人工的な大都会というのは、政策でできることだと思います。何もないところであっても、施設をつくり、あるいは特例税制を敷いて税金を下げるという特区のようにすれば、あっという間に大都市ができ上がるというのが政治の妙味です。昔はそういうことがなかなかできませんでした。ですから、そういうことを利用して、首都機能移転も進めていけばいいのではないかと思います。

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説得力のある首都機能移転の目的

これまでの日本の戦後政治の流れでいけば、首都を開発すればするほど、人が集まって経済も豊かになるという考え方もあるかもしれません。しかし、リスクを分散するのであれば、それぞれが相互に補完しあうような機能がなければ意味がありません。また、補完できる機能をつくるにしても、近くにつくったのでは意味がありません。同じ地震圏内に予備の機能をつくっても、一度にやられてしまうだけです。

例えば、東京で大地震が起こって壊滅的な打撃を受けたとしても、どこかに首都機能が分散されていて同じようなレベルですぐに代行することができるのかということを考えるべきではないでしょうか。

そのためには、サブ機能、予備のようなものがあって、何かがあれば全部移せるという状態をつくっておくことがまず必要です。もう一つには、ふだんは動かしていないけれど、いざとなったら、すぐに動かせるところをつくっておく必要があります。いざというときには、みんながそこに行くとすぐに機能が立ち上げられる。リスクを分散するのであれば、そういうものがあってもいいのではないかと思います。

今までは、本四架橋にしても、成田空港にしても、そこに有力な先生がいるというようなことではなく、国全体の立地条件を見て大所高所からきちんと決まったのかというと非常に疑義を抱かざるを得ないところもありました。これはどちらかというと政治家の責任なのですが、本四架橋のように話がまとまらないから全部通すというのは、国費の無駄遣いでもあるわけです。

世論というのは非常に浮ついていて扱いにくいものではあるのですが、日本は民主主義国家ですから、まず国がしっかりと説明をするということが重要だと思います。例えば、首都機能移転で最も重要なのはリスク分散ということであれば、非常に説得力があるわけです。リスク配分ということで、東京にばかり首都機能が集中していると危ないということを言えば、わからない人はいないのではないでしょうか。基本をいえば、まず政府がこうしたことを納得できる論理で国民をしっかりと説得していくことが必要だと思います。

あえて極論を言えば、仮に今の3候補地が本四架橋のようにすべて立ち上がったとしても、やらないよりはいいと私は思っています。日本はそういう予算状況にないのかもしれませんが、もし東京に大地震が起こっても、どれかが使えることになります。

首都機能移転というのは、まさに国家百年の計というべきプロジェクトです。ですから説得力のある形で移転を模索してほしいと思います。

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