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多様な社会への転換と国会等の移転

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森 毅氏の写真森 毅氏 数学者・京都大学 名誉教授

1928年生まれ。東京都出身。1950年東京大学理学部数学科卒業。北海道大学理学部助手を経て、京都大学教養部助教授から教授へ。1991年に定年退官し、京都大学名誉教授。京都大学教授時代からユニークな切り口で社会や文化について評論活動を行っている。京都大学退官後は、講演活動からテレビ出演まで幅広く活躍するかたわら、執筆活動も続けている。

主な著書に『数学と文化』(現代数学社)、『数学の歴史』(紀伊国屋書店)、『居直り数学のすすめ』(青土社)、『数学的思考』(講談社)、『なんでもありや』(青土社)、『ボクの京大物語』(福武書店)、『数学と人間の風景』(日本放送出版協会)、『考えすぎない方がうまくいく』(三笠書房)、『二番が一番』(小学館)、『東大が倒産する日』(共著、旺文社)、『社交主義でいこか』(青土社)、『ええかげん社交術』(角川書店)、『異説数学者列伝』(筑摩書房)、『21世紀の歩き方』(青土社)、『元気がなくてもええやんか』(青土社)など多数。



歴史に見る首都の変遷

いろいろな国の歴史を見ても、中国やインド、中東などでは首都が変わっています。カンボジアあたりを見ると、古い都があって別の都ができるというのは、王朝交代と関係があるような感じがします。

日本の場合を考えてみると、首都が移転した例として考えるのは、京都と東京です。これは王朝がかわったわけではなくて、何となくつながった感じでやっている。僕が京都にいるせいかもしれませんが、京都からすると、京都は長岡京からだということになっています。ただ、長岡京時代も含めて、最初は薬子の乱などがあったりしてあまりうまくはいっていませんでした。

平安京にしても、最初は多少ガタガタしていて、100年ぐらいすると一応平安京のスタイルができ上がってきています。そして、200年ぐらいすると最盛期になる。最盛期というのは落ち着いてくるということで、藤原道長の時代あたりで平安文化というものがそれなりに落ち着いてきます。それから後にまたガタガタして、400年ぐらいたった新古今の頃になるとくたびれるわけです。ですから、400〜500年くらいの周期があるのではないかというイメージがあります。

次に東京をどう考えるかですが、この場合も、西南戦争が終わるまで10年ぐらいかかっている。しかし、東京をいつからと見るかというと、私には何となく江戸からというイメージがあります。その江戸にしても、江戸文化ができるのは徳川吉宗以降です。200年たって、いかにもというような江戸文化ができる。元禄が江戸文化だというのはうそで、あれは上方文化です。(井原)西鶴にしても近松(門左衛門)にしても上方ですからね。だから、江戸独自の都市文化が発達するのには200年くらいかかっているわけです。

ですから、非常に荒っぽく言えば、都市というのは最初の20〜30年はガタガタして、100年ぐらいで形ができる。そして、200年くらいするとそこの都市文化ができるのではないかと思うわけです。今回の問題も、そのくらいのスパンで見なければしようがないのではないかと思います。しかし、逆に言うと、400年くらいすると新しいことを考えなければ具合が悪くなってくる。日本の歴史からすると、400〜500年ごとに首都がかわるのが割といいのではないかということです。

そういう意味で、今回も「400年ぐらいたったんやから、この辺でパッと変わってもええんちゃうか」という感覚で進めてもよいのではないかと思います。

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「国家百年の大計」としてすべきこと

国会等の移転は「国家百年の大計」と言われていますが、その言葉はちょっと矛盾しているように思います。私の感じでは、人間が計画を立てられるのは10年までです。100年後に歴史がどう変わるか、どのように流れているかについては予測不能です。平安京でもそうですし、江戸幕府でもそうです。しかし、実際に首都機能の移転を考えるとすると、計画のスケールを5年、10年単位で考えることになるわけですが、全体のオーダーは100年ということになります。最初の20〜30年はガタガタして、50年もすると一応格好がつくけれども、実際に都市としてスタートするのは100年後になるわけです。

ところが、100年後はどうなっているかということを予測するのは不可能です。実際、先のことは誰にもわかりません。100年後には、こちらはもう死んでいますしね。「国家百年の大計」とは上手く言ったもので、自分はすでにいないという前提で考えようということです。100年後に向けてレールを敷くということは、原理的に無理に決まっているのです。ですから、どうしようもない世界を考えようというのが、国家百年の大計なわけです。今できることというのは、100年後の人がいろいろ考えられるようにしておくということです。

その点では、「国民の意見を聞いて」などと言われるけれども、それは無理ですよ。「100年後のヤツの意見をどうやって聞くねん。」ということになる。今の意見を100年後に押し付けてもいいのかという問題もあるでしょう。しかし、いろいろなことをするのは今の人間がしなければしようがないから、今の人間でやりくりしながらやらなければならない。形ができあがる100年後くらいに今までどおりのものでよいかはわからないし、200年経ったら新しい都市文化が生れているだろうということを期待するしかないのではないか。それくらいの感じで、あまり慌ててもしようがないという感じがします。

京都についてよく話題になることですが、京都の町はどのようにできたかというと、全部よその人がつくったわけです。奈良から桓武天皇がやってきて、伊勢から平清盛がやってきて、鎌倉から源頼朝さんが来てというように、よその人が来て京都をつくりました。そして、それなりの枠をつくるわけですが、全てがそのとおりにはなりませんでした。桓武天皇が平安京をつくったときも、西の方の元々何もないところにつくったわけですが、実際は東のほうに偏ってしまう。それは、そのときの流れで変わっていくものなのだと思います。

結局、今我々がするべきなのは、100年後の人がどうするかということについて、議論がしやすくていろいろな考えが豊富に出やすくするということではないでしょうか。

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多様化を論じる必要性

今の日本の政治をどう見るかということを非常に単純に言ってしまうと、統一化と多様化の争いというようなイメージがあります。このごろの三位一体改革や郵政改革などを見ても、みんなそこでぶつかっている。私はわりとリベラルですから、「何で北海道と九州で同じことをせなならんねん」という感じがあるのですが、時代の流れはいろいろな面で統一化から多様化に舵を切っているような気がします。

今までのようにずっと決まった形で行くということではまずいということになってきたわけです。明治政府は、江戸時代の小京都文化を利用しました。津和野や津山など、小京都といわれるような文化的な中心で育った者を引き抜いてきて、中央の官僚にした。それが結構有効だったのです。今は、東京に一極集中しているので一つの型にはまってしまうと、逆に困ってしまう。

大学での研究も同じで、研究というのはもともとジレンマがあって、あるスタイルに早く溶け込まなければ何もできないし、そのスタイルどおりにやっていたら何も新しいことは生まれない。同じにならなければならないという面と、違うことをしなければならないという面の両方が必要になるのです。

当時、それをある程度支えたのが小京都文化であり、旧制高校中心の文化もその補完的な役割を果たしていました。ところが、戦後は旧制高校文化も消えたし、小京都文化も崩れてしまいました。文化のソース、資金源というものは、1ヵ所をいかに立派につくってもだめなのだと思います。必ず違うものをつくっておかないとだめになる。いろいろ異質なものがあるから、うまくいく。多様化というのは、元来そういうものです。みんなが同じになったら、つまらない。

異質なものがあると、調整するのに時間がかかったり格差問題が起こったりしますが、日本はこの辺で多様化問題をもっと根本から論じて、うまくやっていくにはどうすればいいかを考えないといけないと思います。

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社会が多様化するための方法

政治家さんに「何かいい政策はないか」と聞かれることがあるのですが、「ものすごくええのがある。それは絶対にやるべきと思うけれど、それを言うたら落選する」というものがあります。実際にやったら危ないのかもしれませんが、それは移民政策です。

世界的に見て、難民条約を批准しているのに、日本ほど難民が少ない国はありません。日本の場合、慈善政策や人権問題のように言い過ぎている。例えばヨーロッパの歴史を見てみると、16世紀にオランダが非常に栄えたのは、30年戦争の移民がすべてオランダに行ったということとも関係があります。当時のオランダは避難地だったので、クロムウェル革命でイギリスからロックやデカルトが来ました。良し悪しは別にして、それがいまだにオランダ文化のリベラリズムのベースになっています。スイスにしても、第一次大戦前に来た人たちが、戦後のアバンギャルドや表現主義などのモデルになっています。

日本の江戸時代を考えても、江戸生まれの江戸っ子なんてそうはいません。どんどんよそから人が入ってくることによって文化が栄えるわけです。東京文化にしても、いろいろなものがミックスして成立している。明治以降、戊辰戦争の負け組や御家人崩れというような江戸文化と地方から来た人の二つが東京文化の源流になっているわけです。

文化というのは、異質なものが入ってくることによって、扱いにくいけれどエネルギーを持つということのような感じがします。いろいろな人がいるとややこしいこともありますが、その中でやりくりして100年ぐらいすると花開くというのが文化の法則のような気がするのです。

これからは、移民を増やすことがそういったことが多様化のきっかけになると思います。ただ、不思議なもので、外国人に来てもらうにしても、優秀な人だけを選んでしまっては絶対にだめです。ケネディ家の例を見ても、2代目、3代目くらいでいい人がでてきています。全部がケネディのようになるとは限りませんが、2代目、3代目くらいで面白い人が出てくるものです。

そう考えると、新しい首都には、100年くらいかけてでもいい大学を1つ作ってもいいかもしれません。そして、アジアのいろいろな国の大学から人を集めてきて、東アジアやASEANの文化的な核の一つとなるような大学にするわけです。

大学というのは、作って「はい、どうですか」というものではありません。50年、100年しないと格好がつかないものです。最初は大体ガタガタするものですが、初代の意気は校風に残ったり、学風に残ったりする。実際に格好がつくのは初代の弟子の弟子あたりの代になるものです。ケンブリッジやオックスフォードでもいろいろあった上で今があるのですから、どこでもそうなのではないでしょうか。MITにしても、ウィーナーが赴任したときに「どうしてこんな田舎の工業大学みたいなところに来なければならないのか」と言ったことが逸話として残っています。しかし、そのころの雰囲気が残って今のMITになっている。学風にしても、50年、100年して定着していくのですから、新しく大学をつくるにしてもそれぐらいの感じでつくってほしいと思います。

活気というものはどんどん外から流入してくることで生まれてくるのですから、首都機能を移転する都市も、外に対して閉じてしまってはいけません。それこそ特区のようにして、移民制限を緩くすることも考えられます。ものすごく大変なことだとは思いますが、アジア全体の将来を考えても、非常に意味のあることではないかと思います。

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多様化と統一化のバランスを

これまでの首都は、中央でまとめ上げる、皆が一つにまとまりましょうという方向でやってきました。一般の人からしても、国会や首都というのは、なんとなく日本統一の象徴というイメージがあるのだと思います。それは、ひょっとすると江戸開府以来の流れの中でそう考えているのでしょう。ただ、世の中はだんだん「それと違う方向が大事だ」となっているわけですから、あまり統一というようなイメージに縛られていても、つまらないのではないかと思います。

確かに、ばらばらでうまくやる方がはるかに難しいですし、ばらばらのまま放っておくとさまざまな危険が伴います。

京都の平安時代以降を見てみると、応仁の乱くらいからはある意味でうまくいったと思います。その時代にいろいろな日本文化の源流が生れているわけですから。もちろん、それは文化が変わったというより、社会の構造が変わったということもあります。例えば、経済や流通の関係が変わって、武士というグループのあり方が変わりました。武力の構造、軍団構造が変わっているのですが、考えてみればそれがよかったわけです。もちろん、あのころの人は大変だったと思いますが、応仁の乱のおかげで今の日本があるのだとも思います。

それぞれがばらばらでやっていくという多様化がゆきすぎてはどうしようもなくなりますが、統一化がゆきすぎても活力がなくなってしまいます。そのバランスが非常に大切なのだと思います。

統一化の方向に進みすぎると、どうしてもアイデアが貧困になってしまいます。大学の場合でもそのあたりがジレンマで、学派が形成されるとだめになるという話がよくあるのです。学派という枠にガッチリしてしまうと、そこからはみ出した考えが出てこない。ですから、「まとまらないけれど、いろいろある」という時代が一番オリジナリティのあるものを生んでいるのです。

大学の場合、普通は学派の周期が40〜50年でしょうか。最初は、物好きが集まって勝手なことをしている。そのまま衰退するものも結構ありますが、20〜30年たつと格好がついてきます。そうすると「また秀才の墓場が生まれたな」というような悪口も言われるのですが、ものすごく人気が出てくるのです。矛盾しているのですが、一つの流れがあるから論文の生産力が上がる。「学派が隆盛する」というのは、一つの流れに向かっていっせいにやるということでもあります。これは1つの流れにならないことにはできないことで、最初の梁山泊時代ではできません。しかし、そのままで行くと必ず行き詰まる。そして、また変なところから新しいものが出たりするわけです。

日本は、江戸開府以来の400年でどんどん統一化の方向に進み、明治政府がますますそれに拍車をかけて、戦後の体制ももっぱら統一化を志向してきました。しかし、ここにきて、「もうあかん」ということを言う時期になってきたのではないか。かわったものをどう取り入れるか、新しい文化をどうつくっていくかということを考えなければならない時期に来ているのだと思います。

ばらばらなものをうまくまとめるのはしんどいことですが、国会等の移転を考えるときにも必要なことだと思います。矛盾しているかもしれませんが、私のイメージですが、新しい首都は“ばらばら日本”のシンボルになればよいのではないでしょうか。

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