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道州制を踏まえた国と地方の関係のあり方

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宮脇 淳氏の写真宮脇 淳氏 北海道大学大学院 教授

1956年生まれ。東京都出身。1979年日本大学法学部管理行政学科卒業。参議院事務局、経済企画庁物価局、参議院予算委員会調査室、(株)日本総合研究所調査部勤務を経て、1996年より北海道大学法学部教授。北海道政策評価委員会会長、千葉PFI事業審査委員会委員長、岩手県行財政改革推進委員会委員長、総務省政策評価・独立行政法人評価委員会臨時委員、内閣特殊法人等行政改革推進会議参与、郵政民営化連絡協議会委員を歴任。

主な著書に『財政投融資の改革』(東洋経済新報社)、『行財政改革の逆機能』(東洋経済新報社)、『図説 財政のしくみ』(東洋経済新報社)、『財政投融資と行政改革』(PHP研究所)、『公共経営論』(PHP研究所)など。



国会等の移転論議の時代性

今までの国会等の移転の考え方の基本には、幾つかに機能を分散するにしても、それぞれの機能分野において中央集権的な発想があり、そこから場所をどうするかということがメインのテーマであったと思います。その前提となる時代認識としては、産業化の時代ということがありました。ここで産業化をどう定義づけるかといえば、大量生産、大量物流、大量消費という画一型の社会システムということになると思います。画一化を支える権威付けを国や首都が担う。その権威付けの機能をどこに持っていくかの議論であり、その中で、国会や首都をどう位置づけるのかということが、重要なテーマであったのだろうと思います。

ただ、90年代後半あたりから情報化の時代になってきました。情報化の時代に今までの産業化、画一型の延長線上としての国会等の移転という議論が、有効性をどれだけ持つものかということは考える必要があると思います。情報化の時代では、多様化が進み国と地方の関係も変わってくるわけで、国会の機能そのものも変わっていくのだろうと思います。そう考えると、今までの画一型発想で考えられてきた国会等の移転というのは、恐らくもう時代としては過去のものになっているのではないかと私は思っています。

これからは、国会の機能が何らかの形で地方に移るという時代になっていくのではないか。特定の機能が分散されていくのではなくて、意思決定そのものが多様化の中である意味で地方に移っていくことによって、国会等の移転の前提にあった概念も恐らく変化をしていくのではないでしょうか。

たとえば、道州制という議論を踏まえるとすれば、道州制の根本は国会の権限、意思決定の部分をいかに地方政府、議会に移すかという話だと思います。それぞれの地域の中で意思決定がされることになれば、首都機能の分散と同じような意味を持つわけです。そういうことでいくと、分散化する首都機能の一部が今の東京にあっても構わないということになるかもしれません。

いずれにせよ、これからの日本の社会システムは、国・中央が定義づけをして全部のものを作り上げていくという時代から、地域ごとに多様化したシステムをつくって、そこからダイレクトにいろいろなことが地域に展開できる応答性の高いシステムに変わっていくのではないかと思います。情報化社会がそういうことを可能にするツールになるのではないでしょうか。

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社会システムにおけるリスク管理

北海道というのはおもしろい地域で、日本全体の問題が先行して出てくる、ある意味での先進地域です。北海道では拓銀の破綻から始まって、公共事業がだめになるというように、日本全体で問題になること先行して出てきています。そして、いまの北海道は、高齢化・少子化の中で札幌一極集中になっています。

一方で、農業や水産業をやるにも労働力の6割以上が中国人になっている地域もあります。東京で外国人論を議論するとまず治安ということになりますが、北海道でいうと治安は副次的な問題で、労働力の問題、地域産業やコミュニティーの問題になります。同じ政策テーマを投げかけても見ているところが地域によって明らかに違うわけです。そうすると、東京だけで議論をしてしまうと、東京では成り立っても、北海道をはじめとした他の地域では成り立たないということになってきます。例えば、外国人を一切入れることはまかりならんということになったら、その瞬間に北海道では産業や地域が機能しなくなる部分もあります。国としての一元管理をどうするのかということはおいておくとして、北海道など地域はもっと緩やかな枠組みの中で多様な意思決定をしてもいいのかもしれません。

そういうことをやっていけば、北海道から沖縄に至るまで違った資源をもっと持つということになる。今までのやり方は、均衡ある国土の発展ですから、どこへ行っても同じような体質と仕組みになっていました。産業化の時代においてはそれが高い有効性を持っていたわけですから、それ自体は間違いではなかったと思います。ただ、これからの時代では、同質化はリスク管理や地域政策の面で考えると、逆にマイナスのほうが大きくなってしまいます。

そう考えると、これからは例えば北海道と東京が別の理念系で地域政策を展開してもいいかもしれません。そうすれば、北海道がだめになっても九州は生き残るかもしれないし、東京がだめになっても北海道、九州が生き残るかもしれません。どこかが生き残れば、日本全体の本当の意味のリスク管理になると思います。

東京と大阪に機能を分散しても、今までと似たようなものです。地震などの天災が起こったときのリスク管理にはなっても、「金太郎あめ」になっている日本の経済社会システムが全部落ち込むことになります。そのときに、半分あるいは3分の2は生き残っているということになればいいのではないでしょうか。社会システムでの本当のリスク管理ということでいえば、意思決定のある程度の部分を分散していくということです。ただし、全国ベースでやらなければいけないものは、きちんと国会で決めていくということになるのだろうと思います。

道州制が連邦制と違うのは、どこまでいっても統治権が国にあるということです。ですから、権限の源泉は国会にある。道州制は、国会が地方議会に対して権限を委ねる形になります。だから、戦争になったというような高度の危機管理が必要なときには、全国統一でやった方が強いですから、国が権限を回収できることになるわけです。

地方の方でも国会を自分のところにくれといっていますが、この背後には中央集権の発想があると思います。自分の地域が全国の中心になることによってメリットがあると考える。これからは地方圏が多様な地方圏だけで自立しているという時代になるのではないかというのが、私の基本的な認識です。したがって、地方分権の中での国会移転とは何かを再度議論する必要があります。産業化から情報化に変わることによって、社会システムの根底のコンテンツが変わる、そういう時代に合わせて国会等の移転も考えるべきかと思います。

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道州制を議論するために必要となる要素

道州制の議論というのは、どうしても行政機関の議論になりますが、行政機関の分権という議論ということでいえば、二つの要素が必ずセットでなければいけないと思います。1つは権限と機能を地方に移転するということで、もう1つは事務配分ということです。事務配分というのは人とお金の問題で、予算と国家公務員制度の問題です。これがどのように国の決定権限から地方の決定権限に配分が移るか、機能が移るかということだと思います。

私は、第一義的には財源にしても何にしても、やはり地方が主体になって形成をしていくことが必要だろうと思います。しかし、今の細分化された地方自治体や都道府県では困難です。そこを克服するには、道州制という形態に限定はしませんが、少なくとも東北や関東というような地域連合体になって、経済的にいえばある程度の地域内循環が起こる単位でなければいけません。内部循環が起これば、そこに一定の課税ができます。そういうものをつくっていくプロセスというのが道州制の議論だと思います。

もちろん、今まで中央集権型でやってきて、東京を中心に循環していたものが、いきなり変わるわけがありません。恐らく内部循環ができたとしても、半分もいけばいい話であって、日本全国で循環するべき共通部分というものはやはりあると思います。金融などが共通インフラにあたるのだと思いますが、金融といっても例えば保険制度などは北海道の保険のリスクと沖縄のリスクでは違いますから、もしかしたら分割してもやれるのかもしれません。ただ、地域をつなぐ共通インフラというものは、地方政府だけではできないので、どこでそのすみ分けをしていくかという議論は、やはり道州制の議論の中でしなければいけないと思います。

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国がこれから果たすべき役割

国と地方の関係ということで言えば、今までは中央でやってきたことが画一的でしたから、地域にとっての応答性が高かった。ところが、情報化社会になると、どうしても1ヵ所に集中している方が応答性は鈍いということになります。

地方分権によって権限や機能が分散すると、国から地方に対する政策のラグというのも大きくなってきます。感応度というのは、地域で密着して自分たちでできるものに対して高くなっていきます。ですから、分権が進めば、地方の国に対する感応度は鈍くなっていきます。地方の感応度が鈍くなってもいいけれども、全国規模でやらなければいけないものというものというのもあります。例えば、地方だけで道路を張り巡らすというのは無理ですから、そういうものこそ国がしっかりした方針でやっていくということになるのではないかと思います。

また、これからの公共性というのは、オープン化といわれています。今まではクローズドでやってきましたが、国民参加とか住民参加でいろいろな議論をしていきましょうとよくやっています。

オープン化すると、一番疑問符が出るのは議会です。住民参加をして時間をかけて決めたことを議会が議論して否決すると、何事だということになる。一方で、オープン化すれば問題点の指摘はたくさんできますが、物事を決められるかというと疑問が残ります。

オープン化すると政策を形成するということが明確になります。ただ、明確になればなるほど利害関係は対立しますから、議論を絞りきれなくなる。そのときに政策としてリーダーシップをとる国会や中央政府が権力を持つことになると思います。

今までは、国会や中央政府は政策の価値付けまでは分からないし、そこまでやる必要もありませんでした。ただ、国民参加が進んでいってまとまらなくなった議論をまとめるためには、中央政府に集中した権力をある意味で強くしないといけない部分も出てくると思います。

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道州制のあるべき姿と首都機能の分散

道州制を含めた地方分権の議論の中で国会等の移転を考えたとき、危機管理の面で民間企業のようにコンピュータを分散させるというようなことはあると思いますが、国会や行政機能といったものが物理的に移動する必要はないのではないかと思います。

それよりも、社会制度としてそれぞれの地域が特性を持っていることの方が、グローバル化した競争の中で勝ち抜けるのかもしれません。グローバル化の中で、日本が今やっていることが負けてしまえば、それで企業が残っても日本国のシステムは残らないでは困るわけです。

やはり、東京がもし何かの災害に遭って意思決定ができなくなっても、臨時的に他の地方で全国を見た政策形成ができる能力をつくっておくということが一番必要ではないかと思います。

危機管理ということでいえば、首相、内閣と行政機能が一時的に地方に行ってもいいわけです。地方政府が執行能力や政策能力を持っているということは、災害などのとき一時的に内閣や行政機能が移動してきて、その指揮命令系統に入って機能できるような受け皿が地方政府にきちんとあるということです。災害などといった非常事態で議会等の民主主義は一次的に停止すると思いますから、その瞬間は議会というのは副次的な存在となります。

現在の地方自治体の政策形成能力というのは請負型ですから、ある意味でそれを執行するという能力は高くても、政策を考えるということがあまりできません。いろいろな事業がある中で根底にある普遍的なものを見抜いて共有化することで制度はできあがるわけですが、今まで国がやってきてくれたということもあって、これができないわけです。

こういった能力を地方に持っておいてもらわないと、霞が関がもし機能しなくなったとき、我が国全体が機能しなくなるということになります。地方政府が一時的にでも、危機管理の中で肩代わりできるということがこれから必要になるのではないか。そう考えると、道州制で機能を強化された地方政府が、必要最低限の機能を持つという意味で、首都機能が分散されるような形にもなります。もちろん、それぞれの地方政府が違った資源を持っているわけですが、OSにあたる部分でノウハウを蓄積して、一応最低限はできるという状態が代替性という意味で必要なのではないか。首都は首都としてあるけれども、他にも地方政府が代替的な機能を持っているというような状態が道州制のあるべき姿であり、国にとっても全体にとってもメリットがある形なのではないかと思います。

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道州制をすすめる上で国会が果たすべき役割とは

これまでの道州制の議論は、いわば出来上がったときのガバナンスの話しをしているわけですが、そこへ持っていくためのトリガーをどうするかということも考える必要があります。今の時代のトリガーがいったい何なのかというと、市町村合併から始まった再編のようなボトムアップ型というものがひとつあります。それから、トップダウンで行うということも考えられます。

私は、ある程度はトップダウン型で進めていく必要があると思っています。都道府県単位の合併まではいかなくても、一定の形の共同体をつくる部分をある程度国がやっていかないと、今の変化のスピードに追いつかない。自治体はもっと能力を高めて、体力を持ってもらわないといけないと思います。単に今までの中央集権型の機能を幾つかに切り分けて、その一部が地方政府に移るということでは、情報化や地方分権と合うものにはなりません。

だから、道州制も国主体型で行うという考え方もあると思います。始動期には、道州制導入と地方分権というのが必ずしも一致しない部分が出てきます。それなら、例えば今の地方部局に権限を移して地方政府を吸収すれば、でき上がりベースでそこが地方政府になる。これはトリガーになるかもしれません。地方部局の職員の中で政策形成能力を持っているのは、やはり霞が関の中央から来た人が多いのが現状です。他は執行部隊ということになっている。完全にトップダウン型になりますが、もしかするとこういうやり方もあるのかもしれません。

やはり、道州制を考えるときに最後の壁になるのは、横の連携に限界があるということだろうと私は思います。同じ地方ブロックであっても、それぞれの県がどちらを向いているかというところが違えば、何かを決めるといってもおそらく無理です。その段階でいろいろな意見を聞いても、混乱するだけです。そういうときこそ、オープン型で議論して、国が大きな役割を持つ形で最後に決める必要性が出てくるのではないかと思います。

今まで調整というのは、アンダーテーブル型でやってきた部分がありました。それを、オンザテーブル型でやると、議論をしている人たちも自分たちで責任を取らなければいけない。そうすると、責任を取りきれないところが出てくるわけです。

いろいろな地域が持っている考え方をオープンにすると、その段階で国民的な議論になっていくかもしれません。国民的な議論になっていけば、国民の最終的な判断に委ねる。しかし、国民というのは、問題意識は持つけれども単に議論しているだけかもしれない。そういう状況になったときには、やはり時間軸の中でオープンで議論したけれどもということで、国がある一定の判断をして決断をするということになる。ある意味で、その議論に参加した人たちの求めているところです。あくまでもオープン化した中での、国会、霞ヶ関、内閣の決定ということです。国会は間接民主主義の中で信託を受けているわけですから、直接民主主義的な議論の中では収束しなかったものに対して、やはり責任を持って決断をする責務を負っているわけです。

そうすると、やはり地方分権の中で自分たちの意思決定のあり方をどうするのかということになってきます。国会議員の話ではなく、国会という構造的な機能としての問題をどうするかという議論です。ややもすると国会議員の視点とレベルの議論になりがちですが、これからは構造的な組織としての議会をどう機能させ、どういう位置づけにするかという議論をしていかないといけないと思います。

そういうところがどうも外から見ていると整合性がないために、「なぜ」ということになってしまうのだと思います。国会等の移転という議論は大きな話なのですから、実現するためには国民の政策への信頼性が必要です。やはり、地方を含めて大事業誘致というようなものではなく、政策を決定すべき議会がわが国全体のビジョンをどう考えているのかを示すことが重要ではないでしょうか。

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