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成熟した社会における暮らしと都市のイメージ

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佐藤 友美子氏の写真佐藤 友美子氏 サントリー不易流行研究所 部長

1951年生まれ。1975年立命館大学文学部を卒業、同年サントリー株式会社に入社。研究企画室等を経て、1989年サントリー不易流行研究所の設立に参画。1998年3月より現職。サントリー不易流行研究所は生活の中の楽しみにスポットを当て、21世紀の生活文化のあり方を探っている。

観光立国懇談会メンバーのほか、国土交通省交通政策審議会委員、中央環境審議会・自然環境部会委員、中央教育審議会委員、神戸大学経営協議会委員などを歴任。国際日本文化研究センター客員教授。

編著には、『ロストプロセス・ジェネレーション昭和50年代生まれ、こころのかたち。』(神戸新聞総合出版センター)、『時代の気分世代の気分<私がえり>の時代に』(日本放送出版協会)、『変わる盛り場「私」がつくり遊ぶ街』(学芸出版社)、『大人にならずに成熟する法』(中央公論新社)、『もてなし文化ルネッサンス』(共著/TBS ブリタニカ)、『現代家庭の年中行事』(共著/講談社)などがある。



若い世代にゆだねてみるという発想

今の日本を見ていると、社会のあり方と若い人たちの成熟した生き方というものにギャップが生まれてきてしまっているように思います。東京がこのままでよいということもないし、日本がこのままでよいということもないですから、非常に大きな曲がり角に来ているのではないかと思います。端的にいえば、今の若い人に元気がないとか、先が見えないといわれているのも本質的な問題と関係していると思うのです。それを解決する1つの大きな糸口として、東京ではないところにこれまでとは違う機能を持つ新しい都市のイメージをつくっていくことは、非常に大事だと思っています。

ただ、今の国会等の移転の議論は、年齢の上の人ばかりでやっていて、「大人」の論理になっているような気がします。「大人」だけで議論すると、自分たちが今まで生きてきたところに立脚して新しい都市像をつくってしまいます。新しい都市像を作るためには若い世代にゆだねてみるという発想が必要ではないかと思っています。

いま20代、30代で本当に能力のある人たちがたくさんいます。そういう人たちと成熟型社会とは何だろうかというようなところから新しい都市のイメージをつくっていくとか、少し発想を変えていかないといけないのではないか。豊かな、情報化が進展した中で育った新しい価値観を持っている人たちが何を望んでどう暮らしていきたいと思っているのかということを共有化した上で、どのように具体化するのかということを皆で議論すること、都市のことを長期的な視点で考えることが重要ではないでしょうか。

今は財政難で、投資が見合うかどうかという企業的な効率重視の発想が求められている時代ですから、残念ながら非常に短期的なものの考え方しかできなくなっているように思います。一極集中というものも、東京だけでなく地方都市でも進んでいます。集中のスパイラルが加速されていますから、今が必ずしもよい状況とは言えません。昔のように皆が平等によくなるという形で均衡がとれればよいとは思いませんが、市場原理にゆだねるだけでなく、国としてどういうことをやっていかなければならないのか、どういう都市が必要なのかということを議論する場がもっとあってもよいのではないかと思っています。

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世代によるライフスタイルの違い

生活者という視点から世代や都市のことを見ると、今は世代によって心地よいと思う空間が違ってきています。上の世代の人たちは、卑近な言い方をすれば世間体という言い方になるかもしれませんが、世間の評価を重要視しながら自分のポジションを決めていく。それが心地よさとも関係しています。しかし、若い世代は、そういうことにほとんど興味がありません。自分の世界の中、自分の仲間の世界の中で完結して、価値軸、評価軸が自分の中にある。例えば、私たちはハレ(非日常)とケ(日常)という言い方をよくしますが、若い世代はそれがほとんど一緒になっています。特別な何かを求めているというより、日常的な快適性をどうすれば確保できるのだろうか、というところに興味がいっているのではないかと思うのです。

暮らし方でも、私たちはオンとオフという言い方をよくします。オンタイムで仕事をしているわけですが、年齢がある程度上の人は日常生活のほとんどをオンの状態で暮らしています。しかし、昭和30年代生まれより下の人になると、オンとオフの切り替えをして、仕事は仕事で頑張るけれどオフのときは全く違うライフスタイルにしたいと思っているわけです。

上の世代はずっとオンで仕事をしてきて、家庭回帰しろといわれてやっと家庭が出てきたわけですが、若い人たちは仕事でも家族でもない、もう一つのシーンを持っているのではないかと思います。職業人としての役割、家庭の中の夫とか妻という役割だけではなく、個人として社会とどのように接することができるか。だから、1人の時間ということも含めて、私の世界を持っています。社会の中で、だれかのためではない自分というものがなければストレスになるということがあります。アンケートなどをとると、中高年は自分の時間がないことにイライラ感がないのですが、若い世代は、自分の時間がないことにすごくストレスがある。その実現のためには第三の居場所が必要で、そういうことをどうやって満足させるかということを、これからの都市では考えなければならなくなってきていると思います。

例えば、大阪でいうと新地みたいな場所の高級クラブやスナックなどでは本当に人が少なくなってきています。本当に良い店には人が来ていますけれど、昔のように新地というだけで繁盛するということはなくて、少し前までならば考えられなかった立ち飲み屋や若い人向けの店が進出しています。大阪のオフィス街で仕事をして、帰りに飲みニケーションのために寄る場所、接待する場所として新地という盛り場は形成されていたわけですが、不況やライフスタイルの変化によってそういうものが必要なくなってきているということだろうと思います。

いまの若い人にとって大事なのは、オフタイムのときに自分がどういうところに行くかですし、会社の帰りに仲の良い人とちょっと寄る場所というのが盛り場になってきています。関西では、いま淀屋橋ウエストという銀行街の裏筋みたいなところが結構お洒落な場所になってきています。銀行の空き店舗の1階が入ったところにスタンディングバーがあって、奥がちょっとしたレストランになっていたりします。そして、会社の帰りにちょっと寄る第三の場所になっている。オンとオフの間にスタンディングバーがあるというような感じです。東京でも増えていると思いますけれど、そのような境界領域にはオンのままでは行かない。そういうライフスタイルになってきているのではないかと思います。

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人と建物の関わり方と境界領域

いま、私がすごく大事だと思っているのは、境界領域をどのようにつくるかということです。境界領域というのは、街と街との間かもしれませんし、街と自然の間、建築物とストリートの間にあるものかもしれません。もしかしたら、公園と道路の間にもあるかもしれません。上の世代ではそういう境界があった方が秩序が保てたかもしれませんが、これからはもっと積極的に境界を崩していかないと、街がおもしろくならないだろうと思っています。例えば、40歳ぐらいの人たちに好きなところはどこかと聞くと、スターバックスという答えがたくさん返ってきました。道にも建物にも関わっているし、その間に自分の場所がある。そういうことを心地よいと感じている人たちが結構いるのではないかと思います。

店の作り方などでもそうですが、最近面白くて流行っているところというのは、公開空地の部分を広く取っています。床面積を非常におおらかにとって、間に無目的な空間部分をたくさんつくって、広場にしたりする。そういうのは、イベント目当ての人や、逆にゆっくりくつろげるということで人がたくさん来ていますし、一見床面積あたりの商売を考えると効率は悪いですが、そこができたことによって地価が上がるという例もあります。

ですから、床面積当たり幾ら儲けるかという今までの計算とは全く違う概念が導入されることによって、人と建物との関わり方が変わってきているのだと思います。快適性が非常に良くなって、時間の過ごし方が豊かになるということが起こっている。それが評価されているのです。これからは、そういうことをもう少しうまく仕組んでいくということも必要なのではないでしょうか。首都機能の移転先の都市をつくるときにも、そういうものをいかにつくっていって、人々が自由に使えるようにするかということが一つの大きなテーマになるのではないかと思います。

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変わりつつある働き方

最近、国家公務員の上級職でも辞める人が結構出始めていて問題にもなっていますが、それは労働の対価としてお金をもらうだけでは満足できなくなってきているということだと思います。それは非常に成熟してきているともいえるわけで、働き方自体もずいぶん変わってきているのではないかと思います。

逆にいえば、「好きなことを仕事に」という呪縛があるから仕事に就けない。好きなことはそんなに簡単には見つかりませんから、30歳まで先延ばしにするという状態が結構起こってしまっていて、いろいろなネックになっているのではないかと思ったりもしています。

実際、若い人たちに話を聞いてみると、彼らは「ライフスタイルと仕事を一致させたい」と言っています。こだわりを仕事にする人たちの評価が非常に高くて、サラリーマンの評価が非常に低い。私たちの世代は食べるために働くのが当たり前で、自分の思い入れと仕事は別のものだと認識していたわけです。しかし、若い世代は、仕事というのは自分の生きる証明のようなものだから、ライフスタイルと仕事を一致させたい。そうなると、なかなかサラリーマンにはなれません。

ただ、若い世代にはニートやフリーターのような人がいる一方で、社会意識の高い人たちもたくさんいます。私たちが行っているヒアリングの中で、社会起業家と言われているような人たちにも話を聞いていますけれども、そういう人たちの意識は非常に高いですし、優秀な人が多いです。ですから、迷っている人たちがいる一方で、決めると非常に能力を発揮するということがあると思います。

農業を選択した若者たちの話を聞いていても、場当たり的にやり始めているのではなく、大学を卒業してからインターネットで情報を収集して、実際に何カ所か実習に行ったりしています。それで自分に合うところを探して定着するというような選択的なことをやっています。そういう意味では、非常に意識が高いですし、社会に対して関わっていきたいという意欲も上の世代よりずっとあるのではないかと思います。社会起業家の人たちは、儲けることがメインの目的ではないと言います。結果的にお金が儲かるということもあるのでしょうが、社会を変えていきたいとか、社会にとって意味のあることをしたい、と言っている人が増えています。

これからは地方からサラリーマンになるために都会に出てくるということは少なくなるかもしれません。自分の親の家業を継ぎたいという人が、上の世代と違って増えてくると思います。学生時代は東京に出るかもしれないけれど、もう一度戻るということは十分考えられるのではないでしょうか。Uターンではなく、IターンやJターンみたいなものもありますし、田舎暮らしをしたいと思っているのは中高年だけでなく、むしろスローライフを理想とする若い人たちの方だろうと思います。

中高年の人たちにも変化があると思います。団塊の世代の人たちがそろそろオンタイムを卒業して、オフに入るわけです。ただ、この世代は、本当のオフがなかなかできないこともあって、新たなるオンというか、これから積極的にやり残したことをやるのではないかと思っています。農業をするにしても単なる趣味ではなく、もう少し本格的なことを始める可能性はあると思います。そのモチベーションになっているのが人生のやり残し感ということと関係があるのではないかと思います。ですから、割と本気で新たにスタートするという人たちも多くいます。趣味で終わるという人もいますけれど、起業家になろうかという人も出てくると思います。会社を辞めた延長線は下り坂のリタイアの絵ではなく、20代のときの夢を実現できるような状況になってきているのではないでしょうか。

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対抗勢力の必要性

ふだん関西にいると、東京に行くごとに文化的投資などの一極集中が進んでいるように思えます。文化庁の河合長官は「関西元気文化圏構想」といったものをやってくださっていますが、そういう視点は非常に大事なことだと思います。会社でも何でも1つのものが強くなって頂点を登りつめると、しばらくすると、時代に取り残されて面白くなくなるということがあります。ですから、多様性を取り込み、変化するためには対抗勢力というものは絶対に必要ではないかと思います。

関西では、一昨年から去年にかけて劇場がいくつかなくなりました。企業のメセナとしてやっていくのには限界があったようです。東京は人口が多いのでお客さんがたくさん来るから2週間のロングランでもできるけれど、関西では観客である若い人も少なく難しい状況があります。同じ演目をするのにも、日数が少ないので、コストがかかってしまう。制作会社やマスコミも皆東京ですから、何でも東京中心になってしまう。

ただ、今は関西も、危機的状況を経験してまた盛り返してきています。そういう意味では、保護したからよいというものでもないと思います。関西ではインディーズ系がすごく強いのですが、関西で育って東京に行ってしまうことがあるにしても、それはそれでよいのではないかと思います。いま、「シアターパーク構想」ということで、大阪城のあたりをニューヨークのセントラルパークみたいにしようという運動を関経連のプロジェクトで提案し、実行しています。言っているうちにだんだん盛り上がってきました。そういう意味では、地方ならではの良さというものがあって、顔の見える関係の中で刺激しあったり、助け合ったりすることができます。そういった流れが発展していって、文化や都市が面白くつながっていけばよいのではないかと思います。

そうすれば、若い世代が東京に行かなくても、関西で仕事ができるようになる。芸術家が食べられるようになることと都市が面白くなることは関係が深いのではないでしょうか。

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成熟にみあった都市とは

今の街というものを見ると、若い世代を中心にリノベーション、コンバージョンというものがメインになってきています。昔は、建築は建築家のモニュメントというような感じがありましたが、今では建築が主張するのではなく、もっと都市の中に溶け込むものだという感覚が出てきています。それが街にはっきりと現れているのが古い建物を使った動きで、京都の町屋、大阪の長屋、神戸の倉庫といったものが素敵に使われています。建築的な価値が高いものだけでなく、中小企業の倉庫みたいなところが洒落たギャラリーになっていたりします。

若い人たちにとっては新しいものをつくるよりも古いものを生かすほうに心地よさを感じるし、工夫のしようがあるわけです。全部を一からつくるわけではなくて、不便なところがたくさんあるから、遊びがあって面白さも発見できる。要するに、建物や街と関わることができるわけです。ですから、自分とは関係ないものとして建築があるわけではなく、自分たちがどう関わっていけるかというところに満足感みたいなものが出てきているのではないかと思います。上の世代はそういう街との関わり方をあまりしてこなかったと思うのですが、若い人たちは街と関わるためには街を一から創るのではなくどのように街を使いこなすか、ということを大事にするようになってきているのではないかと思います。

日本はもう成熟型社会になってきているわけですから、そろそろ成熟にみあった都市とは何かという議論をしたほうがよいと思います。そうすると、大きくて高級なものを建てるという発想にはならなくて、ヒューマンスケールのものを新旧含めてうまく組み合せていくというのが理想だと思います。都市を若い人向けにするということではなく、成熟社会に応じたものにするということです。当然、質はよくなければいけないし、心地よくなければいけません。それは世代を超えているものであって、中高年の人が来なくなるということにはならないと思います。中高年の人だって、体験が違うので、今は若干違う感じになっていますが、心地よさを体験すれば変わってくると思います。逆にいえば、都市をピカピカで立派にしてしまうと、若い人たちはそれだけで引いてしまう、自分たちとは関係がないと感じてしまうところがあるのではないでしょうか。

いまの若い人たちは感覚がデジタル的になっていて、「この部分で共感できればいい」という感じになっています。上の世代の人はアナログ的に「こうあらねばならない」とか、「全部共有しなければだめだ」という感じなわけですが、若い人たちは「この部分で共感できたらここで一緒に仕事ができるね」というお互いにできることを持ち寄る関係になっている。そういう意味では、お互いがフラットな人間関係、フラットな組織でなければ、うまくいかないということがあります。

社会起業家のような若い人がいる一方で、社会は変わらないというあきらめに似た意識を持っている若い人も多いと私は思います。ですから、社会というのは若い人たちの力で変わるんだということを実現する場として、新しい都市づくりがあったらよいのではないかと思っています。若い人たちの元気を引き出すために都市づくりや首都機能移転を使ってみるなど、発想を変えて委ねていくのもよいのではないかと思います。

今の日本には、関西や東京を含めて面白いことのできる人がたくさんいます。意外に街づくりのプロは、街の中にいるかもしれません。そういう人は、若い世代だけでなく、中高年の世代にももちろんいるわけで、いかに協働するかということを考えていかなければならないと思います。

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本当の意味での「新しい都市」をつくるために

国会等の移転の問題というのは、移転先をどこにするかというような議論だけでなく、市民運動としてもう少し議論する場をつくっていくことが必要です。市民がどうやって地域活動と関わっていくかということは、できることを皆が持ち寄るというようなことだけではなくて、日本の将来を考えるというすごく大きなテーマだと思っています。

それから、20世紀型の経済の循環では、効率が悪いということで捨ててきたものがたくさんあります。アートや伝統芸能もそうですし、自然や農林業などもそうですが、そういうものをもう一度取り戻す必要があるのではないかと思います。百パーセント自給自足できなくてもよいのですが、若い人たちの「ライフスタイルと仕事を一致させたい」という夢に対して何が言えるのかということは、非常に大事なことだと思います。経済の循環を変えて、アートをやっていても食べていけるし、農業をやっても食べていける。そのような未来都市の絵を描いて、議論をしていければよいのではないでしょうか。

今回の国会等の移転の話では、ハードについての議論が中心になっています。話の中には、人の暮らしがあまりありません。世代間の違いの中で、どうやってこの街を使いこなしていくのか、どうやって経済が回っていくのか、どうやって公務員と一般の人が交わっていくのか、そういう絵を描いていく必要があるように思います。そこまで議論すれば、自分や子供の問題だということになって、普通の人が議論できるものになると思います。成熟社会における生き方、暮らし方の問題として新しい都市のあり方を議論していくと、この問題ともうまくリンクしてくるのではないでしょうか。

首都の機能だけを動かしても、考え方が新しくなければ「新しい都市」とは言えないわけです。首都機能を移転するのであれば、新しい成熟型の社会の中で暮らしていける本当の意味でのモデル都市である必要があると思います。そして、新しい発想を持っている人たちが集まるからこそ、国政も新しくなるのではないかと思います。そういう議論をもう少し巻き起こしてみればよいのではないでしょうか。

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