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災害対応に必要な機能の評価と文化としての防災

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河田 惠昭氏の写真河田 惠昭氏 京都大学防災研究所所長

1946年生れ。1969年京都大学工学部土木工学科卒業。1974年京都大学大学院工学研究科博士課程土木工学専攻修了。京都大学防災研究所助手、助教授、米国ワシントン大学客員研究員、米国プリンストン大学フルブライト上級研究員を経て、1993年京都大学教授に。1996年京都大学防災研究所 巨大災害研究センター・センター長を経て、2005年より現職。2002年より人と防災未来センター・センター長を兼務。工学博士。

学術審議会委員(文部科学省)、中央防災会議「東海地震に関する専門調査会」、「東南海、南海地震等に関する専門調査会」、「今後の地震対策のあり方に関する専門調査会」委員を務めるなど、公職多数。

主な著書に『防災学ハンドブック』(共著/朝倉書店)、『自然災害の危機管理』(ぎょうせい)、『リスク学辞典』(共著/TBSブリタニカ)、『水循環と流域環境』(編著/岩波書店)、『大震災以後』(共著/岩波書店)、『土木工学ハンドブック』(共著/土木学会)、『地球温暖化の沿岸影響』(共著/土木学会)、『都市大災害』(近未来社)、『地域防災計画の実務』(共著/鹿島出版会)などがある。


<要約>

  • 首都直下地震は必ず起こる。しかし、首都直下地震が起きたときに首都圏がどうなるかを的確にシミュレーションすることは出来ない。となると、首都の基本的な機能は代替的なものを準備する必要がある。
  • 首都機能を考えるときは、物理的な機能だけではなく、目に見えないソフトの部分を見通すことが必要である。そのためには、人や文化を含めたバックアップが出来るかどうかということが問われている。
  • 災害のときにどの時点でどのような機能が必要かということを含め、災害対応に必要な機能とは何かという評価をするべきである。そのときに何をすべきかということが、首都機能を移転するときの中身も決めていくのではないか。
  • 災害に強くなるには、防災を文化として定着させることが重要。いざというときは、日ごろからやっている以上のことはできない。日ごろからやっていることが文化であって、防災も特別なものにしてはいけない。首都機能の移転にしても同じではないか。

首都直下地震をシミュレートすることの限界

首都直下地震が危険域に入っているという認識は、皆が持っていると思います。首都直下地震というのは、実は1855年に起こっていて、安政の東海大地震と南海大地震の11カ月後に首都直下地震が起きています。現在、東海地震が30年以内に発生する確率は84%、東南海地震が60%ということになっています。2年前の十勝沖地震が同じく60%の段階でおきていますから、これらはいつ起きてもおかしくない。それと同じく発生確率が70%の首都直下地震との関係性はある程度分かっているので、現実的に要注意になっているということだと思います。

最大級の地震が起こる前に、どれぐらいの被害が出て、その後どうなるのかということは、頭の中ではシミュレーションできるのです。ですから、専門家としては、混乱してもある程度我慢すれば何とかなるだろうという見込みを持っているわけです。ところが、首都直下地震だけはその範囲を超えてしまっていて、シミュレーションできない。例えば帰宅困難者が650万人出るといったときに、現場で何が起こるかということは基本的に分からない。それから、避難所に逃げてくる方が460万人を超える。瞬間的に500万都市ができたとき、どういうニーズがあるのか、あるいは各種の対応の優先順位というのは分からない。つまり、分からないことだらけなのです。それでは、こういったことは時間をかければ分かるようになるかというと、そうでもない。そこに首都機能移転の大きな意味があると思っているわけです。

すなわち、我々人間側の都合でいろいろなスケジュールや理由を決めるのは勝手なわけですが、災害というものはそんなこととお構いなしに起こります。起こったときにどちらが泣くかというと、人間側が泣くわけです。自然との共生や共存という優しい言葉がありますが、自然は少しも優しいものではなくて、厳しいものなのです。優しかったら阪神・淡路大震災で6433名も亡くなったりはしません。災害というのは、人間側の都合を斟酌してくれて起こるわけではないのです。そういう意味では、首都直下地震が起こったときに首都圏がどうなるかということを的確にシミュレーションできない。つまり、そういうことには的確に対応できないということです。これは、これからも変わらないだろうと思います。

となると、基本的なファンクションは、やはり代替的なものを準備しておかなければいけないということになります。そこで、我々サイドの理屈をつけるのはいいですが、地震が起こる、起こらないは我々の力の及ぶところではありません。そこをごちゃまぜにして議論してはいけないと思います。災害に対応するには、人間がコントロールできる問題とそうでない問題とをどう結びつけるかに大変難しいところがある。そのあたりの認識を持たなければいけないと思います。首都直下の地震が起こらないならいいのですが、これは必ず起こるのです。起こることが分かっているのに手をこまねいているときではないと思います。それなら、戦略をきちんと作って対策を早くスタートさせて、長期継続的にやれば、被害は確実に減ることは間違いない。人間には知恵があるのですから、その知恵をどう生かすかということが、たぶん問われているのだと思います。

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「目に見えない被害」も視野に入れた首都機能移転論を

今は経済も政治もグローバル化しているから、例えば東京で地震が起これば、リアルタイムでロンドンやフランクフルト、ニューヨークなどに情報が伝わります。そのときに、日本円や日本株が大量に売られれば、地震の直接被害よりも間接被害の方がはるかに大きくなります。首都直下地震の112兆円という災害被害額は、国内被害のみの数字です。現在計算できない間接被害額は多分その数倍以上になると思います。

ですから、首都機能移転という問題は、単に物理的な機能にとどまらず、ソフトが問われているのだと思います。そういうことをマネジメントできるようにしておかなければいけないわけで、建物や高速道路の被害だけにとどまらないのです。そういうイマジネーションがないと、この問題はらちが明かない。コストの問題でもありません。日本という国をどうするのかという哲学の問題になっている。

首都直下地震の場合、東海や東南海、南海といった地震と直接被害額がほぼ同じであったとしても、国の存亡とどうリンクするかと考えると、比べものにならないほど被害は大きなものになると思います。首都の問題は、日本国の問題にとどまらず、世界の問題にもなってくる。それをマネジメントできるのは日本だけであって、アメリカ合衆国がいくら言ってもだめなわけです。ですから、日本がどうするかを意思決定する必要があるだろうと思います。そう考えると、モノが壊れるとか不具合が起こるとか、目に見えるような被害だけにとらわれるのではなく、首都機能が担っている部分をきちんと評価するということは非常に大事だと思います。

病気にしても、がんのような肉体的な病気と精神的な病気があるわけです。前者だけが病気ではなくて、後者も病気です。心にだって骨があるのですから、その骨が折れたら心に大きなダメージを受けるわけです。災害は文明と文化を破壊します。これらは前述の病気と対応します。特に成熟社会というのは、文化のウェートが大きいわけです。そこをどうメンテナンスするかということは、社会のサスティナビリティにとって肝心なことではないかと思います。

目に見えるものは、見える人が手当てできるけれど、目に見えないところの手当ては、そこを見通せる人にしかできません。道路や橋が壊れたということはだれが見てもわかりますが、それによってどういう機能が失われるかということは、それをイメージできる人にしかわからないのです。政治や経済でも同じですが、そういう後者の目に見えない部分をやるのがリーダーシップではないかと思います。皆が知っていることは誰かがやればいいのだけれど、すぐにイメージが湧かないことというのもたくさんある。首都機能を考えるときも、それを洗い出すことがとても大事なのではないかと思います。

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首都機能の移転に不可欠な人材の移転

首都機能というものを、例えばITによって置きかえられると思うのは間違いだと思います。機能の移転というものは、人が移転できるかどうかということです。あらゆることを動かすのは人間ですから、人間のバックアップがきくかどうかです。だから、コンピュータシステムをどこかに移したら、東京で動いているコンピュータの能力が別のところで発揮できるかというと、そんなことはありません。そのデータを判断するのは人間なわけです。機能を移転するということは、人材や社会がダブルでいるということです。そのためには人間も養成しないといけませんが、それは全然進んでいないのが現状だと思います。物理的にできる機能代替と、そうでないものがあるということではないかと思います。移転の予算をつければすぐにできるかというと、ハコモノはできたとしても、実際のファンクション(機能)はそう簡単には移らない。なぜかというと、機能には必ず文化がある。機能を移転するためには、文化の移転ということもやらなければいけないということです。

IT化によって何が分かったかというと、結局のところ、情報のやりとりは人間がかかわらないと上手くいかないということです。だから、いくら機器だけを整備してもだめなのです。例えば、インド洋の大津波の後、インド洋沿岸諸国に津波早期警戒システムがつくったらどうかという話がありましたが、我々がそれだけを作っても猫に小判だと言っているのも、同じ理由からです。なぜかというと、そういうシステムがどういう機能を果たすのかということを皆が理解して、はじめてメンテナンスができます。メンテナンスができて、100年とか120年に1回しか起こらないものに備えるためには、文化が要る。学校教育などでそういうものが揃った上で、はじめてシステムが機能するわけです。システム自体をつくることはそんなに難しくありませんし、お金もそんなに要りません。しかし、文化がなければ、つくった途端に、何も役に立たないということになる。

ですから、機能移転というのも、そこに必要な人間をどうやって供給するのかが重要なのだと思います。それも、何かが起こるまでずっと続けなければいけないという長丁場の話です。判断をするときに、いちいち東京と相談しなければ決められないということでは困るし、それでは代替施設にならないわけです。判断のできる人間がインディペンデントに政策決定できなければいけない。そういう人材を含めたバックアップができるのかというと、まだまだというのが現状です。ですから、お金の問題ではなくて、そこをどう考えるかということが問われているのではないかと思います。

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移転させる機能の優先順位

今、有明の丘と東扇島に基幹的広域防災拠点というものが出来てきています。首都直下地震が起こったとき、これと首相官邸の3ヶ所でオペレーションするメリットと、首相官邸だけでするメリット・デメリットを比べると、前者の方にメリットがあるから今作っているわけです。防災の観点から首都機能を考えてみても、少なくとも1カ所ではまずいと思います。やはり、多核分散型のような方向がいいのではないかと思います。ただ、そのためには0か100かというように一足飛びに移転を考えるのではなく、小出しでもいいから移転につながる戦略が要るのではないかと思います。

首都機能を移転するといっても、大事なものをいきなり100%移すなんて、できるわけがありません。やはり優先順位をつけて、必要なものから移していかざるを得ない。現実がそうであれば、現在の予算の範囲内で、できるところからやっていけばいいのではないかと思います。そして、実績をつくっていくことが必要だと思います。

日本という国は、実績がなければ、いきなり冒険ということをしません。ですから、いきなり全部でなくてもいいから、何らかの機能を少しずつでも移していくことが必要だと思います。例えば、それぞれの省庁が持っている機能を一つずつ出し合って、どこかにつくる。それをフィードバックして、どの機能までを移転させればよいかということは、やりながら考えるのが流れだと思います。何故かというと、社会はどんどん変わっていきますから、最初からすべてを見通すことはできません。それを最初に決めたとおり全てをやろうとすると、膠着してしまいます。長期的な戦略というのは、途中で何度かチェックポイントをつくって、そこで修正すべきことを修正しなければいけない。特に利害が色々なレベルで複雑に絡み合っている問題は、0か100かでやろうとすると、ものすごい抵抗があります。やはり、影響が目に見えるものをまず出していくという努力が要るのではないかと思います。機能を移転することによって、何かが起こったときに定量的な差が出てくるようなものをまず動かしてみる。そして、様子を見ながら考えるような政策があってもよいのではないかと思います。

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災害対応に求められる機能を評価する必要性

ファンクションの中には、川上に位置するものと川下に位置するものがあります。川上に位置するものがやられてしまったら、川下も必ずやられてしまう。機能を考えるときには、そういうツリー構造的な機能評価が要ると思います。

例えば、新潟県中越地震のときには、61の集落が孤立しました。しかし、それぞれが孤立した状況を見ると、国道17号線から枝分かれしている大きな道路の「根っ子」の部分がやられてしまったから、そこにぶら下がっている5つの集落が孤立してしまったということがありました。そうすると、地震時の道路の耐震性の議論としては、この「根っ子」の部分が先なのか、集落と集落との連絡道路が先なのかと考えると、おのずから前者が先だということになる。そういう評価をしなければならないと思います。

例えば、初動期の災害マネジメントをするときには、国会という機能が本当に必要なのかどうか。確かに、意思決定機関として一番大きなところですから、機能が移転しているにこしたことはありません。ですが、災害直後に国会の機能は要らないのではないかと思います。むしろ、大きい災害というのは長期化、広域化するから、それを束ねるところが必要ですが、その束ねるところがやられてしまうとずっとだめになってしまう。だから、どの時点でどのような機能を発揮しないといけないかということも、被害想定の中に入れないといけない。その上で、国会がフルに機能を発揮しないといけないフェーズというのはどういうフェーズかということを具体的に考える必要があると思います。

国会議員は、防災に関していわば素人ですから、災害の初動期には要らないと僕は思います。だけど、長丁場になっていくときには、ある時点で国会議員が意思決定をしなければならなくなることは確かです。ですから、災害が起こった瞬間に国会の機能が立ち上がる必要があるかというと、立ち上がるにこしたことはないけれど、アージェント(urgent/緊急に)ではなく、アズ・スーン・アズ(as soon as/早めに)でいいと思います。

どんな準備をしていても、大規模な災害が起こったら、はじめは混乱します。3日目ぐらいまでは大混乱するけれども、4日目あたりからはそれなりに安定した方向で動くだろうと思います。4日目から何とかなるというのは、それまで起こった問題はそこで解決できるということです。しかし、それが原因で出てくる問題の方がはるかにボリュームはあります。阪神・淡路大震災で分かったことは、直後は大変だった。だけど、そこはがんばれば乗り越えられる。問題は、その後の復旧・復興が長丁場だということです。

今の政府の防災基本計画を見ますと、直後の応急対応には多くのページが割かれていますが、復旧・復興はその5分の1ぐらいのボリュームしかありません。しかし、直後の混乱さえ乗り切れば、復旧・復興も何とかなるというのは大間違いで、それは全く別のフェーズです。だから、直後の対応はそれ以前の価値観でやればいいし、住民もそう思っています。しかし、それが過ぎ去った後、新しい価値観の中でどういう社会をつくっていくのか、どういう国づくり、人づくりをしていけばいいのかということは、国会がやらなければなりません。そのときに国会というファンクションが機能していなければ困るということではないかと思います。

災害対応というのは、事前に「これくらい経ったら、こういうことが問題になる。」ということがだいたい分かってきています。しかし、災害が起こってから準備していても間に合わないし、起こった瞬間から対応しなければいけない。だから、起こる前からどういう準備をしておくか、そして実際にやるべきことを決めておかなければいけないわけです。そのリードタイムの使い方がとても大事なわけで、そのときに何をするのかということが首都機能を移転するときの中身も決めていくのではないかと思います。

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防災を文化にするために

阪神・淡路大震災ではっきりしたのは、日ごろからやり慣れていないことは、いざというときにできないということです。日ごろからやり慣れているということは、つまり文化です。だから、地震が起きた直後、防災グッズを枕元に置いて寝る。でも、そんなことを10年も続けている人はいません。大雑把に言えば「押入の片隅かどこかにある」という状態なわけです。それは文化になっていないからです。

防災は特殊なことではなくて、国民に対する安全・安心の一つのファンクションであって、日ごろから考慮しておかなければいけないものです。例えば、今、振込み詐欺が増えて、特に高齢者が狙い打ちになっている。じゃあどうするのというと、自分で判断せずに誰かに相談すれば、すぐにうそだと分かるのだと思います。つまり、共同体の中で相談するということが一般的になればいい。そうすると、大雨洪水警報で避難勧告が出ても、みんなで一緒に逃げようということになる。今は、避難勧告が出ても、高齢者の方は「みんなに迷惑をかけたくない」とか、「自分だけ逃げたら、弱虫と思われるんじゃないか」というように自分一人の世界で判断して、逃げない人が多いわけです。ところが、周りの人と一緒に逃げようということになれば、逃げるようになるのではないか。つまり、災害に強くなるということは、犯罪の予防にもつながっています。それはなぜかというと、文化だからです。

防災というものを特殊なファンクションにしてしまったら、いざというときに役に立ちません。日ごろコンピュータを使ったことがない人に、地震が起こった途端にパソコンを渡して、「インターネットで情報を集めてくれ」と言っても、できるわけがない。ですから、日ごろやっていることを、いざというときにもできるようにしておくことが大切だと思います。しかも、災害が起きたときは日ごろの5割くらいしかできないかもしれません。それは、1人でやるところを2人でやることでカバーするということでカバーできるのではないかと思います。それが文化というものであって、そういう社会づくりが必要なのではないかと思います。

首都機能の移転にしても、文化の問題だと思います。ビジネスの世界では、最近BCP(Business Continuity Plan)などで、災害が起きたらゼロになる機能の20%なり30%を担保するということをやっています。そして、立ち上げを早くするということですが、まさに首都機能も同じです。ゼロにしてはいけない。首都で地震が起こらないかもしれないのであれば、まだ選択肢はあります。例えば、大企業の中にも、地震保険は高いから入らないところがあります。しかし、地震で工場がつぶれたら、そこを新しい工場にするという選択をしているところもある。それも1つのリスクの捉え方です。

しかし、首都直下の地震は絶対に起こるわけですから、首都機能のどの部分は残すのかという議論はやらないといけないのではないかと思います。災害が起きたからといって、機能が100からゼロになるのは、誰だって困る。成熟社会というのは、その差をできるだけ小さくするということではないかと思います。

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