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現代の若者の心理と国会等の移転問題

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香山 リカ氏の写真香山 リカ氏 精神科医・帝塚山学院大学 教授

1960年生北海道札幌市生まれ。東京医科大学卒。学生時代より雑誌等に寄稿。その後も臨床経験を生かして、新聞・雑誌で社会批評・文化批評・書評なども手がけ、現代人の「心の病」について洞察を続けている。専門は精神病理学だが、テレビゲームなどのサブカルチャーにも関心を持つ。

著書に、『働く女の胸のウチ』(大和書房),『いまどきの「常識」』(岩波新書),『<いい子>じゃないといけないの?』(ちくまプリマー新書),『<雅子さま>はあなたと一緒にないている』(筑摩書房),『善の研究 実在と自己』(共著/哲学書房),『NANA恋愛勝利学』(集英社),『<私>の愛国心』(ちくま新書),『就職がこわい』(講談社),『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書クラレ),『本当はこわいフツウの人たち』(朝日新聞社)など多数。


<要約>

  • 現在の学生は、就職にあたって賃金や仕事の内容よりも実家からの近さを重要視する傾向がある。以前は地元を離れてどこかに行きたいという夢や意識が多くの人にあったが、今の若い世代にはそれが非常に希薄になっている。
  • 最近の事件や引きこもりの問題も、今の若者の関心と行動が外に向かわず内向きになってきていることを表している。
  • 今の若者の人間関係の基本はいつまでも「地元の友達」で、そこから関心や行動が外に向けて広がったり、発展したりするわけではない。以前のようにステップアップするにつれて社会に目を向けて人間関係を広げるような関係は変わってきている。
  • 最初から与えられている地元や実家というものを疑いもなく受け入れて、そこから関心が広がっていかないというのは気になるところ。彼らは、非常に視野が狭くなっていて、国会等が移転するといってもとても考えられないのではないか。
  • 今の若い人たちの中には、身近な問題には非常に一生懸命取り組んでいる人もいる。身近なところで自分でも何かを変えられるという感覚を持つことが出来れば、その延長線上に社会的な問題もあることに気がつけるのではないか。国会等の移転問題も、身近なところからの延長線上で考えてもらうしかないのではないか。

就職から見る現在の学生の心理

私は今、1週間のうちの半分近くは医師の仕事をしているのですが、あと半分は大学の教員をしていて、大学の就職支援の委員などもしています。それで、就職活動の時期になると、学生に就職について色々と考えてもらうのですが、地元志向の強い学生が多いように感じます。私の感触でいえば、この地元志向というのは、例えばただ「関西がいい」ということではなく、住んでいる実家を中心とした距離というものが非常に問題になっています。中には、電車を使わずにバスで行けるところが良いとか、半分冗談だとは思うのですが、自転車で通えるところに行きたいという学生もいました。就職活動を控えた学生に「就職にあたって重要視する条件は何ですか」というアンケートをとっても、やはり地理的条件に○をつける学生が多くて、賃金や仕事の内容よりも近いところで働くのが一番良いと考えている学生が多くなっています。

その理由の一つは、景気の悪い状況が長く続いていて、以前であれば親の世代が遠くの大学でも子どもを出していたのですが、今はなるべく実家から通えるところへと変わってきました。こうした、子どもに対して地元志向を勧めるような親の価値観も反映していると思います。もちろん、子供側もそれを踏まえて、「一人暮らしをして家賃を払ったりすることを計算したら、所得の面で厳しい。それなら実家にいたほうが良いし、交通費もかからないほうが楽だ」と考えるようになる。

ただ、そういう現実的な動機も大きいにしても、それだけではないと思います。もっと心理的な面で、自立する以前に、自分のいる場所を離れて外に出ていくというエネルギーが衰退してきているように思うことがあります。そういう学生たちに「どうして実家を離れるのが嫌なの?」と聞くと、もちろん「お金がかかるから」という理由が一番多いわけですが、それ以外にも「知らない街に行くのが怖い」、「知らない街で暮らす自信がない」、「関西弁が通じない地域では、とても生活していけないのではないか」という答えが返ってくる。地元を離れることへの恐怖や不安がすごく強いわけです。もちろん、レジャーでディズニーランドや温泉に行くのなら喜んで行くのですが、生活や仕事をするところとなると、自分の知っている地元でずっと暮らしたいという気持ちがある。

それは、私の世代とはかなり違っていると思います。私の世代では、住んでいる地域の良し悪しにはかかわりなく「とにかく家を出たい」とか「地元を離れたい」というような、とにかくどこかに行きたいという気持ちが非常に強かった。それこそ「山のあなたの空遠く」ではないですけれども、「向こうに行けばいいことがあるのではないか」「ここではないどこかに自分の居場所がある」というような意識は、本質的に誰の心の中にもあるものだと思います。「私を待っている人がいるのではないか」「私を待っている職場があるのではないか」というような夢を抱くことは、誰の心の中にも普遍的にある1つのファンタジーだと言った心理学者もいます。かつては多くの人にそういう意識があったのではないでしょうか。東京に住んでいる人にも、おそらくどこかに行きたいという気持ちはあったのだろうと思います。

ところが、今の若い世代はそれが非常に希薄で、むしろ自分の知らない「山の向こう」に行くのは怖いという感覚です。知らないところに行ってしがらみもない状況からやり直すことが楽しいという感覚ではなく、むしろ怖い、考えるのも嫌だと感じるという状態というのは非常に深刻だと思います。

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内向き志向の若者の関心と行動

最近の少年の事件を見ても、本当に憎い相手を殴ったり殺したということではなく、非常に身近な人に対して衝動的に「その人が嫌だから消したい」というような事件が続いているように思います。最近の例では、静岡の女子高生がお母さんを毒殺しようとした事件がありました。その女子高生は理科系で化学が大好きな少女で、男の子の話題やファッションなどに夢中になるような普通の女子高生からはちょっと浮いていたのかもしれません。でも、そういう少女は、従来からどこにでもいたのだと思います。そういう少女こそ、「ここにはいないけれど、東京の大学に入れば、私を理解してくれたり、私の能力を評価してくれる人がきっといるに違いない」とか「将来は外国に行って、自分の好きなことを思う存分やりたい」という意識を持ったと思うのですが、そうではなくて将来への夢も持てずに身近にいるお母さんをちょっと消してみようか、という感じになっている。

2003年には、大学生がお母さんを殺害して、お父さんと弟をけがさせたという事件が大阪の河内長野というところでありました。これは、高校生の彼女と共謀して、お互いの家族を殺そうというということで、男の大学生がそれを実行したという事件でした。その大学生の男子も高校生の女子も非常に真面目で優秀な人と言われていて、交際にも誰も反対していなかった。にもかかわらず、なぜそういうことをしたかというと、「2人だけで暮らしたかった」と供述しています。2人だけで暮らしたいなら、駆け落ちでもしてどこかで暮らせば良いわけで、何も親を殺してまで留まらなくてもいいわけです。しかし、とにかく出ていくというエネルギーには結びつかずに、自分たちの願望を実現させるために家族を消して、そこに留まり続けようとしたわけです。

これは極端な事件の話ですが、私からみると、身近な人をとりあえず消して自分は淡々とそこに居続けるというような傾向は、一般の学生に見られる「出ていくのが嫌だ」という気持ちと何となく通じるものがあるような気がします。

例えば、青少年の思春期の問題、心の問題を見ても、最近は引きこもりになってしまうケースも多くなっています。従来なら家庭内暴力や家出というようにエネルギーが外に向かっていたりするものが、今はとにかく外に出ていかない。立てこもるというような状況では、親もどうしてよいのかわからない。家から出て行ってしまったら無事を祈ったりすればいいのかもしれないけれども、どこにも行かない。最近の事例では、居間を占拠してしまうというケースもよくあります。子供が居間に来て親に不満を言いだして、親の方が退散してしまって子ども部屋などに移ってしまう。本人は広いリビングルームや台所を占拠して、他の家族が別の狭い部屋でテレビなどを見ているわけです。親としてはいっそ出て行ってくれたらという気持ちになるくらい、本人は動かない。動かないから家族以外に迷惑をかけているわけでもないので、親としてもどうしていいのかわからないという例が結構あるわけです。

今、青少年の関心が内向き志向になってきていると言われています。それだけではなく、行動面でも非常に内向きになってきていて、今自分がいるところからなかなか外に行けないという傾向があると思います。特に、心理的、社会的な面では、内向き志向の傾向が強いのではないかと思います。

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変わりつつある人間関係のあり方と若者の心のよりどころ

今の少女たちにヒットしているものに『NANA―ナナ―』という漫画があります。もう2500万部以上も売れていて、私も関連本を書いているくらい好きな作品なのですが、私の世代が読んでいた漫画とはいろいろな違いがあります。私が感じた一番大きな違いというのは、『NANA―ナナ―』というのは7〜8人の少年少女たちの人間ドラマなのですが、人間関係が全く変わらない。私の世代から見てとても不思議なのは、ミュージシャンを目指している若い女の子が出てきて、その夢がかなってCDを出したり、コンサートを開いたりしてどんどん成長していくのですが、地元のバンドの人間関係が基本でそこからほとんど発展しない。活動が広がる中で知り合った人がたまに入ってきたりはしますが、基本的な人間関係は極端にいうと地元の友達のままで、その中でカップルになったり、別れたりということを繰り返すわけです。

従来であれば、夢がかなうにつれて付き合う人間関係も広がったり、社会的なことに目が向いて、自分たちのやっている活動を社会に生かそうという感じを持ったりしたと思います。それで、視野が広がったり、高みからものを見たりできるようになるのだろうと思うのですが、今は、心理的に自分のよりどころが変わらずに、昔から知っている何人かのグループが一番大事ということになる。そのあたりが、今の若い人には非常にリアリティがあるということだと思います。私たちの世代が読んでいた漫画、例えば『あしたのジョー』や『巨人の星』などでは、ステップアップするにつれて付き合う人間も変わっていきました。そういう単純な成功物語を読んできたような人間からすれば、非常に不思議な気がします。

私も仕事で、若いタレントさんや作家の方などと対談やインタビューをさせていただくことが時々あるのですが、そこでも「自分にとって一番大事なのは地元の友達だ」とおっしゃる人が多いですね。今でも休みがとれると、何でも話せるデビュー前の友だちと地元で気兼ねなく飲んだりする。その人たちは、昔と変わらない態度で接してくれて、とても楽しいと言うわけです。仕事の幅が広がって忙しくなっても、帰るところはやはり地元という気持ちがあるのだと思います。もちろん、それはとても健全なことだとは思うのですが、逆にいえば、ある固定した関係の中でしか本音が言えない、自分をさらけ出せないということでもあるのかなとも思います。

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「地元」に閉じこもりつつある若者たち

現代の若者というのは、活躍している人から引きこもりまで現実にどういうことをしているかという点で違いはあっても、いろいろなものを発展的に広げたり全く違う世界に行くのは嫌で、帰る場所はいつも同じという、心理的な共通点があるように思います。それを「心のふるさと」と言うと聞こえがいいのですが、どうもそういうものではないように思います。最初から与えられていて自分では選択できない地元や実家というものに対して何の疑いもなく、「ここが私の場所なんだ。何があっても、ここに戻るべきなんだ」という感覚を持っている。それは、単純に故郷を愛するという意識とは少し違うのではないかと思うことがあります。「青年よ大志を抱け」というように外に関心が向かうことだけが良いとは決して思いませんが、彼らの感覚が他のものへ広がっていかないというのは、非常に気になるところです。

かといって、彼らが現状に満足しているかというと必ずしもそうではなくて、大げさに言えば与えられた運命に対してあまり抵抗しないようなところがあると思います。実際、大学生に今住んでいる街が良いところかを聞いても、「何もなくて不便だ」「好きじゃない」というようなことをいろいろ言うわけです。それでも、「ここに生まれてしまったから、この街が好きかどうかは別として仕方がない」と思っている。特に、私が行っている大学のあるところは古いニュータウンで、とにかく団地しかないようなところなんですね。そこに住む学生に聞いてみると、親の世代もニュータウン生まれでずっとそこで暮らしているという人も結構いたりします。そういう学生と話していたら、ニュータウンは規格化されているので緑道という車が通らない歩道みたいなものがあって、そこしか歩いたことがないので、街に行くと車がすぐ傍を通ってとても怖い、歩けないと言うわけです。ニュータウンで何代も育つと、そういう感覚もなくなるんだろうかと思って不思議に思ったことがあります。

それでも、自分の住んでいるところに何か便利なものがやってくることは歓迎する。便利なものといってもショッピングセンターだったりするわけですが、そこから自分が出ていく必要をますます感じなくなり、しなくて済むならしたくないと思っている。あるいは、出て行ってもうまくいかないのではないかという悲観的な気持ちがあるように思います。

そうすると、彼らの関心は広がっていかないし、社会的な問題へはなかなか向かないということになってくる。今問題になっている歴史問題や世界に対する認識などに関しても、彼らの視野は非常に狭くなっているように思います。自分さえ他所に行けないのだから、国会や他の首都機能が移転するかどうかなんてとても考えられないのではないでしょうか。自分のところに移転してくるということであれば「来るなら来れば」というぐらいで、首都機能を移転するということに対しては、関心外どころか、たぶん発想すらできないのではないかと思います。

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若者たちが国会等の移転問題に関心を持つためには

今の学生にとっては、東京というと、芸能人が住んでいるところというイメージがどうも強いようです。これは私が行っている大学だけでなく、いろいろな大学でよく聞きます。メディアの中の六本木ヒルズのように華やかなところというイメージはあるのでしょうが、日本の首都、あるいは地続きのところという感覚はあまりないように思います。自分とは関係ないというか、切り離されているという感じになっている。

ですから、買い物や遊びに行ってみたいという意識はあっても、決して「東京に出ていきたい」ということにはならない。もちろん、国政の話や社会的な問題であっても、例えばワイドショーなどで選挙の話が盛んになったりすると、それには関心を持つんですよ。ただ、それは自分たちの社会の問題というより、テレビの中の1つの話題というような捉え方をしているような気がします。一般の大人もそうかもしれませんが、学生たちにとって身近で自分に関わる問題としては見ていないのかもしれません。そういった問題として首都機能の移転も捉えられているのではないかと思います。メディアの中では情報があふれていろいろな問題が取りざたされていますが、それが自分の住んでいる等身大の生活空間とどう接続しているのかということが捉えにくくなっているのかもしれません。

彼らからすれば、自分の将来を考えようにも、社会的にこれから先どうなっていくのかがわからないというところもあるのではないでしょうか。最近、災害を含め、景気や少子高齢化の問題のようなネガティブな情報が非常に多いこともあって、20年後、30年後の生活設計をしたところで、結局どうなるかわからないという感じもあると思います。そういうこともあって、非常に刹那的になって、「将来にはこうする」という長期的なビジョンが持ちにくくなっている。それは若い人だけのせいではなく、今の日本の社会が、あまり将来を展望できるようなものになっていないという問題もあるのかもしれません。

そういう価値観をもつ若い人たちが国会等の移転問題や社会的な問題と接点を持つようになるには、社会と関わっているという感覚や手ごたえをどのように持ってもらうかということを考える必要があるのではないかと思います。彼らの中には、地域の活性化や市民活動のような身近な問題には非常に一生懸命取り組んでいる学生もいます。今の学生でも、ちょっとしたきっかけで地域の活動などに参加してみて、自分たちでも何かを変えていけるという感覚を持つことができれば、その延長線上に社会的な問題もあることに気づけるのではないでしょうか。ですから、国会等の移転のような大きな問題を考えてもらうにしても、やはり身近なところからの延長線上でやっていくしかないのではないかと思います。

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