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鈴木 修氏 スズキ(株) 取締役会長
1930年1月生れ。1953年中央大学法学部卒業。1958年鈴木自動車工業(株)に入社。取締役、常務取締役、専務取締役を経て、1978年取締役社長に就任。1990年スズキ株式会社に社名変更。2000年より現職。(財)スズキ財団、(財)スズキ教育文化財団の理事長。
世界各地で「スモールカー」の生産販売に注力し、海外での売上が6割を超える。日本では軽自動車の第一人者としての地位を確立するとともに、最近では小型車づくりも評価されている。
また、企業経営だけでなく、浜松市行財政改革推進審議会の会長として地域活性化に尽力している。
<要約>
私がスズキに入ったのは昭和33年だから、今から47年前になります。このときの売上高は年間58億円で、1カ月の売上を5億にしたいなどと言っていた時代でした。当時のスズキというのは、オートバイではホンダさんが飛び抜けていて、ヤマハさんとうちが競っていた状況で、自動車に関しては1日10台つくるかどうかというような状況でした。
私は昭和53年に社長に就任したのですが、そのときでもオートバイでは3番目。3位といっても4社しかないから3位なわけで、相撲で言えば横綱、大関、関脇、小結で4役ですが、そのときのスズキが関脇だったかというとそうではなく、幕下の上位くらいの3番目でした。自動車も11メーカーあって11番目だということで、そのときに考えたことは何かというと、オートバイでは1位になっている国がありましたから、自動車で飛躍するためにどこかの国で1位になれないだろうかということでした。日本では47都道府県のどこでも1位になんてなれない。どこでも11位で10番目になるのも難しいような状況でした。これはもうしようがないから、世界中をまわって、あの国にいけばスズキが自動車で1位だとなるようにしようということでした。
それで、どうしたら1位になれるかとよく考えたけれども、これはいとも簡単でした。なぜ簡単だったかというと、自動車メーカーのない国へ行けば、生産が1台でも1位になる。どんなことでもそうかもしれませんが、案外いろいろ考えて悩むけれども、答えは意外と簡単だということだろうと思います。熟慮断行というけれども、どこかで1番になろうとしたら、自動車メーカーのないところにいけば1位になる。ただし、そう考えるということと、実行できるかということとは別で、それは決断できるかどうかにかかっているのではないかと思うわけです。
けれども、自動車メーカーのない国に進出するとしても、その国でどういう動きがあるか分からない。ならば、政府と合弁でやると1番よいのではないか。これは知恵ということになるわけで、知恵とはどういうことかというと、「家貧しくして孝子顕る」というように、貧しければ知恵が出るんですよ。恵まれすぎていると知恵を働かせない。それで私が決断して進出したのが、パキスタンであり、インドであり、ハンガリーだったわけです。そのときは業界の皆さんに笑われましたが、振り返ってみるとそうして1位になったことで、「スズキでもやる気になればできるじゃないか」と、従業員の士気はものすごく上がった。そう考えると、「世界のどこかで」ということで決断してやってきたことが、今日のスズキに結びついているのだと思います。
大きな決断ということでいえば、昭和52年に先代の社長が病気になりましたから、もうこれは来年から社長だなということが分かっていて、このときにもう1度モノのつくり方、考え方を変えようということで、昭和53年の5月に出そうとしていた新型のアルトの発売を1年延期したことがありました。
1年間延期したのはどういうことかというと、当時の車というのはスタンダード、デラックス、スーパーデラックス、カスタムというようにランクが分かれていた。まだ当時は昭和53年ですから、車を比べてあっちが上じゃないか、いやこっちだというようになる。それで、これは一律にした方がいいということで、生産を1年遅らせて、やり直させました。
それから、当時は運転席だけリクライニングシートになっていたのを、助手席もリクライニングシートにしました。今は当たり前になりましたけれども、これはものすごくコストが高くなる。しかし、昭和53年頃というのは、若者が車の中をマイルームにして、車でデートをするという段階でしたから、助手席もリクライニングシートにすれば、アベックが2人ともリクライニングを倒して話ができるようになる。そのかわり、後ろのシートを安くして、その分のお金を前の助手席にかけたということです。
もう1つは、価格を全国一律にして、47万円にしました。この47万円という値段が画期的だったのですけれども、当時は店頭価格と運賃が別でしたから、名古屋渡しは6千円ついて47万6千円、東京渡しは8千円ついて47万8千円ということになる。それで、これはいかんということで、ある価格を上乗せして全国一律にしました。最低47万円一律価格というような全国一律価格を出したのは、スズキが初めてです。そのときに技術陣と大いにやりましたけれども、最後は決断するということでそうなりました。
決断をするときには朝令暮改がいけないというけれども、朝令暮改は大いにやるべきなんです。お役人の欠点は何かというと、一度決めるとああでもないこうでもないと理屈を言って、常識的に考えればわかるのに、止めるべきことをへ理屈をつけて続けようとするところがある。そんなことをやっていたら、民間の会社はつぶれてしまう。そういう点で、企業経営というのは「日々決断」なんですよ。
それから、決断をするときには、会社のためにこういうやり方がプラスになる、反社会的ではないと同時に、国家政策にも合致するというような前提条件があるわけです。その上で、やはり自分で汗をかく。我々メーカーの仕事というのは、社長室や応接室で利益が出るわけではありません。現場へ行って、油が機械で燃える臭いを「ああ、俺の原点のにおいだ」といって、機械にもたれかかってものづくりをするというのが、本当に汗をかくということだと思います。今の世の中にはそれが欠けているのではないか。
お役所や国家というのはつぶれないから、のんびりしているんです。だから、決断が遅くなる。けれども、これからは国家も、ロシアのようにつぶれるかもしれないから、国はつぶれないと思っているところに間違いがある。今、僕は浜松の行政改革をやっているんだけれども、国にしても県や市町村にしてもつぶれます。だから、行政改革が必要なんだと思います。
私はインド政府とけんかしたこともあるけれども、真理は一つ、正義は正義であって、必ず正義は勝つという信念をもっていれば、どんなときでも勝てると思ってやっている。もう、それ以外にはありません。
インドとの話を最初からしますと、実は、1983年に工場をつくったパキスタンにいく飛行機の中で、インドが国民車構想の募集をしているという新聞を見て、それに申し込みました。もう期限が過ぎたのでだめですというところを、日本へ調査団が来るならウチも見てくださいということで、スズキは補欠でした。
スズキは1982年にGMと提携していて、83年の3月の11日から15日までの予定で私がGMへ行くようになっていましたが、インド政府の担当がスズキに調査に来るといったのが14日か15日でした。それでは僕が会えないので、彼らの滞在先のホテルに行って挨拶だけして、僕はアメリカへ発つことにしました。
すると、挨拶だけじゃなくちょっと待てということになって、話をしていくうちに何かのきっかけでレイアウトや経営方針はこうしたほうがいいというような話になった。そうしたら、地図も広げてきて「実は工場があるんだ」というから、それを見て「こんな工場でできるわけはないじゃないか」なんていってばっさりとやった。そのうちに、しょうがないから黒板を借りてきて説明をしたりして、もう出発ぎりぎりまでやりあいました。
それで、3月15日に日本へ帰ってきたら、彼らがまだいるわけです。もう一度ミスタースズキに会いたいというので、17日から2日間浜松で話し合いました。それから1週間のうちに、彼らはインディラ・ガンジーさん(当時のインド首相)の決裁をいただいた。
そのときに私が言ったことは、「日本にはことわざがある。どういうことわざかというと、田舎の人間ほどまじめだ。都会の人間は人をだます。田舎の人間は純情だ。」と。当時のスズキ本社の周りはみんな田んぼでしたから、「これを見てみろ、カエルの鳴き声が聞こえるような田園風景でしょう。だから、誠意を持って技術の移転をしてほしいというなら、やはり田舎のスズキが一番いいんじゃないか。」と、こんな話をそこでしました。けれども金はない。金も技術もというならよそにいけとやりとりしていたら、10日くらいたって「お前のところに決めた。」と言ってきたわけです。
それで私が向こうへ行きまして、当時は国民会議派のインディラ・ガンジーさんが首相で、その後もいろいろな人が首相になったけれども、国民会議派のときはもう全部任せるということでした。全部任せるからということだから、ずっとやってきた。そのかわり、国民会議派の頃から配当を始めるようにしました。
国民会議派のときは非常に信頼されていてよかったのですが、その後労働党政権になった。やはり、人間の誠意を踏みにじられるのは本当に悲しいことで、マルチ(スズキのインド合弁会社)がこんなに儲けているということは、スズキはよほど儲けているに違いないという話になってしまったわけです。僕のところは何とかインドで成功させたいと思っていたから、他所に比べて特別価格で部品を出していました。それを逆にとられてしまう。
当時の出資比率は初めが26:74で、それから40:60になって、ナラシマ・ラオさんが首相のときに50:50になっていました。そのときに、社長と会長を交互にやらないかということになって、まずスズキが5年間社長をやることになった。それで、私が社長を日本人ではなくて、実ははじめの調査団の副団長だったバルガバさんにしたいといったら、それならインド側の会長はいらないという話になったわけです。ところが、これがあとで労働党政権に変わったら、落とし穴になってしまった。
なぜかというと、社長と会長を5年ずつやる、両方が合意した人を社長にするということになっていたのに、インド側が一方的に工業省のお役人を持ってこようとしたので、反対だともめてしまった。そうこうしているうちに、インド側の社長の任期が満了になったから、今度はスズキ側のインド人を社長にしようとした。そうしたら、社長を渡さない。と同時に、会長もインド側の1年目だと言い出して、社長と会長をとってしまう。それで、「これだけ誠意を尽くしたのに、こんなことをやりやがってけしからん。よし、戦うなら、戦おう」ということで、調停に持ち込んだわけです。
それで、ロンドンで調停に臨む少し前の話ですが、インドの首相が、検事総長から「この裁判は負けますよ。」といわれたものだから、それであわててしまった。向こうは急遽、工業大臣を切り替えて、清廉潔白な人を調停の和解に送ってきたので、和解をすることになった。やはり、信念を持ってやっていれば、真実が勝ちますよ。
もちろん、僕は好んで争いを起こさなくてもいいと思います。好んでというよりも、むしろ争いは起こさないほうがいい。けれども、世の中に正義というものがなくなったら、まさに暗黒になってしまう。やはり、一寸の虫にも五分の魂というのと一緒で、正義を貫けば必ず勝てる。信念として邪道がいかんということは、経営をやる上においても必要なことであると同時に、人間の人生においてもやはり理に適ったことなのだと思います。人間としての道を踏み外したことをやらないということは、企業や個人についてだけでなく、国家についても要求されることじゃないでしょうか。
国会等の移転も、候補地が3つあるというふうにおっしゃるけれども、日本の真ん中がどこであるかといったら、やはり中部圏ということになる。交通の便やいろいろな機能を考えれば、やはり真ん中に持ってくるのが普通じゃないかと思うわけです。気候が温暖という点でも、中部圏の環境はやはり一番優れている。
それからもう一つ、地震の問題が欠点で東海地震があると言われているけれども、阪神や新潟でも大地震があったように、日本のどこでも地震の確率はある。だから、地震があるからではなく、地震の対応策をどうするかということを前提にすれば、この問題はそれでいいんじゃないか。けれども、残念ながらこの国会等の移転の問題は「決断」ができていない。だから、いいか悪いかは別問題として、小泉さんは最近いろいろなことを決断し始めましたけれども、もっと決断すべきだと私は思う。
決断するときにも、何かを答申して出すときのお役人の文章というのは、「東京でもいいところがあるし、京都でもいいところがある。さりとて名古屋もいいところがある。今後は慎重に調整の推移を見極めながら選ぶべきである。」というようになる。これでは、どこを選んだらいいんですか。だから、決断する人がいないのだと思う。これが会社だったら、つぶれてしまいます。そういう点で、この国会等の移転の問題というのは、なぜ決断しないのかと思うわけです。
首都移転をしたということで僕がつぶさに見たのは、パキスタンのイスラマバードの新都市をつくるときです。あれを見て思ったことは、やはりもう東京は過密だということです。僕が言えることは、地域の平等を考えたら、京都や江戸には首都があったのだから、今度はいっぺん真ん中に来て、機会均等、教育・文化などのあらゆるものを平等化していったらどうかということです。そして、これを機会に道州制を採用するような、単なる国会移転という捉え方ではなく、地方分権をやるというようなことを考えていくべきであって、これはリーダーがいなければやはりできない。それはもうお役人ではなく、今の政治家がやらなければならないことであって、そのためにも決断が必要だということじゃないかと思います。