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ニューズレター「新時代」 第64号(平成19年12月) 一緒に考えましょう、国会等の移転

「首都復興計画の歴史に学ぶ
 −生誕150周年:後藤新平の業績を振り返る」

江戸東京400年と2度の復興計画


北海道大学
大学院教授
越澤明

日本の都市の多くは400年の歴史を持っている。安土桃山から江戸初期にかけて城下町として一斉に建設されたが、太平洋戦争の空襲で破壊され、戦災復興の都市改造が実施された。江戸は最大の城下町であり、明暦の大火(1657年)の復興で市街地が拡張され、武家地・社寺・町人地が再配置され、火除地(ひよけち)注)が設置され、道路が拡幅され、人口100万人のロンドンと並ぶ世界最大の都市となった。

明治政府は江戸の大名屋敷を官公庁、軍用地、大学、大使館などに転用するのみで、銀座煉瓦街など局所的な都市改造のみ行い、都市政策を怠り、大正期には道路・上下水道・スラム・交通など都市問題が深刻化した。

1909年、イギリスで初めて都市計画法が制定されたが、その10年後、日本でも都市計画法、市街地建築物法(建築基準法の前身)が制定され、都市計画への取り組みが開始された。1923年の関東大震災で東京は壊滅したが、国は首都の復興に直ちに取り組み、帝都復興計画を策定して、帝国議会に予算を上程し、内務省と東京市が分担して復興事業を実施した。1930年、帝都興事業は完成し、東京の抜本的な都市改造が実現した。都心・下町のすべての道路網は作り直され、大小の公園や多数の橋梁が新設され、小学校と小公園が一体でつくられ、同潤会アパートが出現した。これらは帝都復興事業の大きな成果である。

都市計画法の制定、帝都復興事業は2度、内務大臣に就任していた後藤新平の卓越した指導力と見識のおかげと行って過言でない。

後藤新平は奥羽列藩同盟の地、仙台藩水沢(現奥州市)の出身であり、医師から厚生官僚となり、30代で内務省衛生局長に就任し、児玉源太郎(陸軍大臣、台湾総督)に見込まれ、41歳のとき台湾統治の責任者、台湾総督府民政長官に抜擢され、行政手腕を開花させた。その後、満鉄総裁を経て、内地に55歳で逓信大臣として戻り、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長、帝都復興院総裁など要職を歴任し、帝都復興事業が完成する前年、1929年に71歳で世を去った。

復興プロセスの教訓

後藤新平の政治家としての特色は、調査に裏付けられた政策立案を行い、確固たるビジョンを打ち出し、意欲的な官僚・専門家・学者がチームとなって政策を実現していったことである。また、日本の政治家の中では異例なほど、都市計画、上下水道、公衆衛生、広軌鉄道など社会資本整備に非常な情熱を注いだことである。

後藤新平は、欧米・アジアを見据えた世界的な視点で日本という国の将来発展を見据えて、日本全体の国力と繁栄のために社会資本整備、特に、首都の都市計画に情熱を傾けた。関東大震災の復興計画、東京市政調査会の設立、鉄道広軌案の推進(新幹線のルーツ)は後藤新平の特筆すべき業績といえる。

関東大震災の復興計画について、(1)政治的プロセスと計画縮小、(2)実現した都市計画の成果(正の遺産)、(3)未達成の課題(負の遺産)という3点から振り返ると、今後の首都のあり方を考えるためにも、重たい教訓として学ぶべきことは非常に多い。

政治的プロセスの教訓は、国レベルの政策決定の責任と人材の結集である。後藤新平は東京・横浜の壊滅で首都機能が甚大かつ深刻にダメージを受けている事態に対して、直ちに天皇の詔勅で遷都を否定し、「復旧ではなく復興である」との簡潔な基本原則を掲げ、人心の不安と混乱を取り除き、将来に希望を与えた。

後藤新平は省と同格の帝都復興院を設立し、内務省、鉄道省から社会資本整備に関する人材を結集し、内務省・鉄道省の平常業務とは切り離して、帝都復興の仕事に集中専念をさせた。建築界の若き指導者で都市計画法制定の立役者である佐野利器(としかた)(東大教授)を帝都復興院の理事兼建築局長に迎えている。このような原則の貫徹と人材の結集方式は今なお学ぶべき点である。

一方、長老政治家、政党指導者、有力財界人を網羅した帝都復興審議会という組織の設置と人選は大失敗であった。委員が大臣待遇を受けた帝都復興審議会は、内閣の思惑を外れ、復興の実現に責任を負わない長老政治家による復興計画縮小の攻撃を受けた。

国としての政策決断と諮問答申(あるいは普及啓発、世論工作)とは別の事柄であり、帝都復興審議会の役割はミニ議会やミニ元老院としての政治的パフォーマンスの場とすべきでなく、あくまで各界の専門的な立場からの意見・助言を受けるという役割にしておくべきであった。なお、戦災復興院にはこの種の審議会は存在せず、全国各都市の復興が迅速に推進されており、阪神・淡路大震災では国の復興委員会が存在したことは別途、比較検討してよい事柄である。

帝都復興の正負の遺産

1930年代前半、東京は帝都復興事業により道路、公園が美しく整備され、東京は美しい都市として甦り、良好な民間建築が随所で建てられた。しかし、今日、帝都復興の遺産は世の中では認識されていない。その理由は行幸通り、昭和通りなどメインストリートの街路樹、植樹帯が戦後、撤去され、隅田公園、浜町公園は首都高が貫通し、公園自体も改修され、完成当初の美しい姿が失われてしまったからである。

内務省が事業をした幹線道路、大橋梁、大公園は完成後、東京市に移管された。戦後さらに東京都から特別区にかなり多くの道路、公園、公共建築が移管されたが、自ら苦労して帝都復興事業を推進した訳ではない特別区には、帝都復興の遺産の価値を十分認識していない例も出てくる。例えば、帝都復興の姿を唯一残す元町公園と復興小学校については、保存活用ではなく、元町公園の廃止が提案された。これは都市の歴史と文化を尊重しない弊害、負の側面といえる。

美しく壮麗なパリの都市改造は実は、強権的であり、貧しい市民を追い出し、幹線道路沿いの新たな一等地を富裕市民に売却する超過収用方式を採用している。しかし、帝都復興事業は超過収用方式は採用せず、江戸の市街地になじむように地道な都市改造を行い、土地の1割無償減歩の代わりに元からの市民に住み続けていただくという、穏当な区画整理方式を採った。そのため、沿道は江戸の町人地に由来して小規模で零細な宅地が珍しくなく、どうしてもある程度、乱雑な街並み景観となってしまいがちである。

今日、東京の下町は小規模な中層ビル、マンションが立ち並ぶ街となっている。これは帝都復興事業で都市改造をした恩恵であるが、東京の都民、地元関係者はそのようには認識していない。墨田区を例に取ると、南半分(本所)は帝都復興によりある程度整然とした街並みとなっているが、北半分(向島)は帝都復興の対象外で、田畑がそのまま市街化した密集市街地となり、両者の違いは明白である。

帝都復興計画は帝都復興審議会と帝国議会の予算削減のため、計画の縮小・取り止めた事柄、箇所がかなり存在している。非焼失地の都市計画は京浜国道の拡幅(新橋・品川間)と明治通り新設(東京初の環状道路)を除いてすべて断念せざるをえなかった。

戦災復興計画は事業主体は国ではなく都道府県と市に委ねられており、仙台、名古屋、広島、鹿児島など全国各地で大きな成果を挙げた。しかし、東京都においては、駅前広場を除いて戦災復興計画は大半が廃止された。この結果、山手線内外の広い範囲で密集市街地が出現し、根幹インフラである環状2、3、4号線、放射5、6号線、補助線街路のかなりの区間がいまだ未完成である。

帝都復興、戦災復興の2度の計画縮小のツケが回り、東京オリンピックの都市改造では、帝都復興でつくられた並木、公園、運河が犠牲となり、高架道路を建設した。その結果、緑豊かなプロムナードで散歩をし、緑陰の下で語り合う楽しみ、ささやかな贅沢を東京都民は知らないまま、鉄とコンクリートの首都高速道路や現状の昭和通りを都市計画の姿であると思いこむようになってしまった。

帝都復興の予算削減の結果、断念した事業が共同溝であり、わずかに九段坂、京橋で試行された。帝都復興事業により道路の舗装、街路樹や歩道の整備は当たり前のものとなったが、共同溝は当たり前のものにはならなかった。その結果、先進諸国の中で日本の大都市は共同溝、無電柱化が大幅に立ち遅れている。華やかに見える渋谷や六本木の町もよく見ると蜘蛛の巣の電線が行き交っている。これも帝都復興計画の縮小に起因する負の遺産である。

注)火除地(ひよけち)とは、火災の拡大防止のための空き地で、広い意味では、街路である広小路(例えば上野広小路)なども含まれる。

参考文献
(1)越澤 明『復興計画』中公新書、2005。
(2)越澤 明「後藤新平と東京都市計画」『経世家・後藤新平 その生涯と偉業を語る』(都市問題公開講座ブックレット)東京市政調査会、2007。

「オンライン講演会」を開催しています

国土交通省の国会等の移転ホームページでは、これまで、学会、経済界等各界の有識者を講師にお招きして講演会を開催しています。平成19年10月以降、新たに次の講演を追加しましたので是非ご覧ください。
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/index.html

白石 真澄(しらいし ますみ)氏(関西大学政策創造学部教授)

白石真澄氏の写真テーマ:「国民の理解を得られる国会等移転の推進を」

要約

  • 移転に向けて国民の理解を得るためには、移転によって国全体の便益がどのように向上するのか費用対便益をあわせて明確にする必要がある。
  • 現状においては、移転はバックアップ機能としての最小限にとどめ、東京で抱えている問題や、疲弊している地方にお金を投入するほうが、国民的な合意は形成されやすいのではないか。
  • 移転先の新都市に期待する点は、環境と高齢化への対応などこれまで実現できなかったようなこと。単なるハード面だけでなく、生活のアメニティや楽しさなど、ソフト面での充実が望まれる。
桑野 和泉(くわの いずみ)氏(株式会社玉の湯代表取締役社長)

桑野和泉氏の写真テーマ:「東京と地方の関係を見直すきっかけになる国会等移転」

要約

  • 国会等の移転先である未来都市は、日本中のローカルな部分を持ち、良さも悪さも含めてお互いが混じり合う中から生まれてくるおもしろさがあるとよいのではないか。
  • これからは地方と都市が対立構図ではなく、お互いが補え合えるいい関係を結ぶことが大切。そのためにも地方は都市の人に地方のことを知ってもらう努力が必要。
  • 移転は東京と地方という関係を見直すきっかけになる。東京を経由せず地域のブロック間で直接キャッチボールできるようになることを期待している。
美馬(みま) のゆり氏(効率はこだて未来大学システム情報科学部教授)

美馬のゆり氏の写真テーマ:「移転をきっかけに共同型による政治・行政の実現を」

要約

  • 移転にあたっては、行政機能等だけでなく、そこで暮らす人達の生活環境を考えることが重要。まちづくりにあたっては地元の人と転入してくる人達が協力して進めていくのがよい。
  • 新都市には、国の科学技術政策を示すショーケースや対話の場を設置するとともに、産官学が連携して政治・行政に取り組む仕組みが必要である。
  • 首都機能移転についての国民の理解を深めていくには、生活者の視点を含めた理想的な絵を示すことが必要。新都市づくりにおいても技術ベースによるボトムアップだけでなく、まずは理想像を示すことが重要。
マリ・クリスティーヌ氏(異文化コミュニケーター)

マリ・クリスティーヌ氏の写真テーマ:「国民一人一人のセンシブルな(常識的な)判断が求められる首都機能移転」

要約

  • 一極集中の悪いところは、結局「持つ人」と「持たざる人」の格差をつくっているところ。一極集中のよさを保ちながらも、格差が極端に生じないような施策づくりが必要。
  • 首都機能移転問題を考える上で、自分たちの心の拠り所、日本のスピリットはどこにあるのかということをもっと考えなければいけない。
  • 首都機能移転問題は、新たな公共投資を見据えた上でセンシブルな(常識的な)判断が求められる。一般国民の考えを十分に聞いた上で検討していくべきであり、オープンな議論の場を設け、いろいろな人たちに参加してもらうことも考えられる。
平野 二郎(ひらのじろう)氏(ジャーナリスト・学習院女子大学特別専任教授)

平野 二郎氏の写真テーマ:「既に始まっている首都機能移転―国による明確なプランとイニシアチブを」

要約

  • 外国で行われているように、日本も一時期だけでも首都機能を移動させるなど、複眼的に国家構造を考えてもいいのではないか。それは日本版の首都機能移転となる。
  • 筑波研究学園都市やインターネットを通じたオンデマンドの仕組みの充実など、既に首都機能の移転は始まっているとも考えられる。
  • 国土の均衡ある発展のためにはそれなりに国土の改造が必要で、有権者を納得させるためには、ビジョンが必要。首都機能移転を進めるには、国がしっかりとしたプランを提示し、イニシアチブを取ることが必要不可欠。

トピックス

最近の国会等の移転に関する各地域の主な動き

福島県では、県が提唱する21世紀の新都市像「森にしずむ都市」をテーマに県内の小学生を対象とした絵画コンクールを実施。11月〜1月までの入賞作品展と併せ、PRパネルの展示やパンフレット配布により首都機能移転の意義、必要性をPR。

栃木県国会等移転促進県民会議は、宇都宮市内で開催された「とちぎ住宅フェア2007」(10月19〜21日)に、国会等移転情報コーナーを出展し、PRパネルの展示、パンフレットの配布、ビデオの上映等、国会等移転に関する情報提供を実施。

<お詫びと訂正>

前号(Vol. 63)1頁の文中、「シェーネベルグ空港」とあるのは、「シェーネフェルト空港」の誤りでした。
ここにお詫びして訂正させて頂きます。

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