ペーター・ロンドルフ経済・科学担当公使へのインタビュー(平成21年12月2日)
*写真提供 財団法人日本生産性本部
1871年に初めて国家の統一(プロイセン王国によるドイツ帝国の樹立)があり、ベルリンが首都になりました。1990年の東西両ドイツの統一後、やはり、首都をどこに置くかという非常に激しい議論が起きました。しかし、ドイツの憲法に当たる基本法(ドイツ連邦共和国基本法:1949年制定)には、統一前は、ボンが一時的な首都であると明記されており、統一が実現し、ドイツ統一条約が発効(1990年10月)された時点で、ベルリンが首都になるということは明らかでした。
ドイツが他の国と違う点は、首都と連邦政府機関の置かれている都市とは区別されていて、連邦政府機関が置かれている都市を将来どのように定めていくのかということについて大きな議論がありました。
1991年6月20日に連邦議会で、ベルリンを連邦政府機関が置かれる都市として定めることが決議されましたが、本当にわずかな賛成多数で成立しました。この決議が実際に行われた背景には、今後、連邦政府機関をベルリンに移すことがあっても、本質的に重要な機関等はボンに残すと規定したベルリン・ボン法(首都機能移転の基本法ともいえる法律:1994年3月制定)が、将来的に改正されない限りは変わらないという賛成派・反対派双方の妥協と合意がありました。
もちろんいつの時代も、まだボンに残されている象徴的な機関をベルリンに移すべきだという意見はあり、特にベルリン出身の政治家からそのような意見が聞かれます。ただ、こうした意見が実現することは、恐らく今の政権が続くこの4年間はないと思っています。私は、このベルリン・ボン法を改正するために必要な賛成票は、今の政権下では得られないと思っています。
副首相兼外相のヴェスターヴェレ氏はボン出身です。実は私自身もボン出身ですけれども、ヴェスターヴェレ外相が副首相である限り、ベルリンとボンに連邦政府機関を分けて置くという議論に異論を挟むことは恐らく考えられないでしょう。
現在、ボンには六つ、ベルリンは八つの省が置かれています。ボンとベルリンの連邦政府機関で働いている人数については、最初の頃は、ボンは1万人、ベルリンが8,500人ということでしたが、今現在は大体同じぐらいです。今後も、省庁に勤務する人数に変化はあると思いますが、省庁の場所、置かれている機能がベルリンに移転するということは考えられないと思います。
コストが一体どれぐらい掛かるかということでは、ドイツ政府の公式な見解としては、首都機能が分散していることによって、年間900万ユーロ発生すると見られています。円に換算すると10億円ぐらいで、それほどではありません。
首都機能がベルリンとボンに分散されているのは、例えば地方分権化を推進するための手段として用いられているわけでは決してありません。ベルリンとボンの首都機能を分散するという決定がされたときの時代の要請であったということが言えます。
ボンからベルリンに首都機能を移転して、ベルリンを首都と定めてその機能を集中させたときに、実際に100億ユーロの費用がかかっております。ただ、これにさらに追加して、今6省ボンに置かれているのですが、これをまたベルリンに移すと仮定した場合、さらに40億ユーロの費用が発生すると試算されています。
今でも移転にかかった費用については、借金の返済をしていますが、それに対する利子が当然発生しています。先ほど分散されていることによって年間900万ユーロかかると言いましたが、実は、900万ユーロとほぼ同じ額の利子の支払いが発生していると考えられています。
ボンにもともとあった六つの省庁というのは、変わらずボンに置かれており、それ以外に22の行政関係、もしくは国際機関の関係機関が置かれています。
実はボンは、経済的に見ても首都機能のベルリン移転に伴い、有利な点を得ているということが指摘されています。というのも、連邦側の支援(ボン補償)によって、ボンにテレコミュニケーションセンター、情報技術関連の中心地というものが確立されたこともあり、連邦全体の失業者の平均に比べて、ボンは非常に失業者数が少なくなっています。一人当たりの購買力も、連邦全体の平均に比べて非常に高くなっています。
日本との比較でいえば、ドイツというのは16州ありまして、各州がそれぞれ政治・経済・文化において非常に強みを持っていて、バランスが取れていることが特徴です。これはやはり中央集権的な国と比べて大きな違いです。
ベルリンは文化都市として、またデザインの分野や観光都市としても既に地位を確立しておりますので、実際、今8,000人程度の連邦政府職員が勤務していますが、さらにボンに置かれている6省が移転してきて、勤務するような状況に依存する必要は全くありません。
ベルリンには実は大きな産業というものがなくて、失業率はほかのドイツの平均からしても非常に高い状態です。ベルリンの人口の4分の1は、連邦政府もしくは他の行政機関に従事しているということになっていますが、経済的な面では実際に産業が発達しておらず、そもそも産業的な背景のない都市になっています。ですからベルリンの将来というのは、文化や芸術の精神だとか、それから東ヨーロッパのゲートとしての役割を担うことで今後強みを発揮していくということが、私どもが考えていることです。
過去20年間、私が思い出す限りでも、首都がベルリンに移転したからといって、ドイツの大企業や金融機関、商業、サービス関係の企業が、その本社をミュンヘンやハンブルクやフランクフルトからベルリンに移転したということはないのではないかと思っています。
問題にならなかった理由は、もちろん六つの省が残ったということもありますけれども、それだけではなくて、1995年から2006年の10年間にわたり、首都機能の移転によって年間15億ユーロがボン市に支払われ、ボン市がほかの分野で経済的な発展を推進するためのプロジェクトにその費用を充てたということがあります。
また、ボンは、ヨーロッパの中でジュネーブとウィーンに続く国連都市としての地位を確立しています。ヨーロッパにおける第三の地位を確立するために、実は連邦政府もかなりの支援金をつぎ込んでいます。
戦後ボンに首都の機能を置くということが決定されたのには、三つの理由があります。
一つ目は、あえて首都を小さな都市に置き、あまり重要な意味のある都市に置かないということにしました。それは、統一をしたときに、首都が変わることになっても全く支障がないようにしたかったためです。やはり将来的には統一を望んでいて、東ドイツと西ドイツの分断は国民として全く了承していないということを示すためにも、あえて首都をボンに置いたのです。
二つ目は、ベルリンに首都が置かれていた時代の「ドイツ」のイメージをできるだけ克服して、変えていこうという意図がありました。ベルリンが首都だったときのドイツのイメージというのは、帝国主義的で軍事的で、そのような独裁的なイメージがありましたので、あえて小さな都市に首都を置くことによって、ドイツというのは平和を目指し、ヨーロッパの統一とヨーロッパの他の国との連携を目指しているということを示す必要がありました。
三つ目の理由は、最初の東ドイツ・西ドイツ分断後のコンラート・アデナウアー首相が、ボンから30キロしか離れていないケルン出身であったということと、彼の家が、私の名前に似ていますが、ルンドルフというところにあったので、実際に政権を担ったときに都合が良かったということが挙げられます。
カールスルーエは、1871年にドイツが最初に統一されたときにバーデン州の州都であったこともありますし、ボンと人口的にも同じくらいですし、宮殿がある都市ということでも非常に似通っています。
二つ目の理由は、ベルリンをもっと寛容で、世界、ヨーロッパに開かれた首都としてプレゼンス(存在感)を高める必要があるということです。やはりベルリンというのは、残念ながらまだ、ヒットラーやワイマール共和国の過去の歴史からのイメージをなかなかぬぐい切れていないところがあります。もちろんドイツの国民も、そのような過去を否認したり否定したりするということはありませんが、過去からの克服ということもあり、ボンが持っていたような「寛容で、世界に開かれた首都」という特徴をベルリンに持たせて、世界にアピールする必要があるのではないかという意見があります。