この夏を通して見つめる国土

この夏を通して見つめる国土

 「あ、あれもやん!」

 「あ、あっちも!」
市バスに乗って、町を観光中。福岡ではない。京都の町である。昨日まで福岡にいたなんて、まるでうそのようで、京都に訪れているという現実についていけてない私。そんな私の目玉は、あっちへきょろきょろ、こっちへきょろきょろ。バスに乗ってから、絶えることなく動きっぱなしだ。

 「あ、あれもやん!」
の、あれとは、コンビニやパチンコ店といった建物のことだ。これら建物がどうだというのか。それは、とにかく看板が低い、色が地味、パチンコ店なのにネオンがないのだ。私はそれを見た時、なぜなぜだらけだった。
「どうして建物の色が地味なの?」
「どうしてあんなに目立たない低い位置に看板をつけるの?」
「あれは本当にパチンコ店なの?」

 答えは、京都の土地にあった。そう、ここは観光地。日本の歴史を体じゅうで感じることができる地で、外国からの来客も多い観光地なのだ。京都のような文化遺産が残されている地では、派手なコンビニやパチンコ店などで、美しい町並みや日本の古くからの文化の風を失ってはいけない。守っていかなければならないのだ。低くて地味で、ネオンもないような建物たちは、守るべきものあっての姿だった。このことに気づいたのは、母に言われてからだった。この出来事以来、他に町並みを守ろうとしていることなどを探し、国土について考えるようになった。

 その次の日には私は新潟に訪れていた。もともと父と母の実家は新潟であるが、父が仕事の都合上単身で京都で暮らしているので、最初は京都に滞在し、そこから車で新潟に旅立った、というわけだ。新潟のいとこの家に訪れたのだが、以前は、家の横一面は全て田んぼで、稲穂がきらきらと揺れていた。ところが、この夏に訪れた時には、その田んぼの4分の1程度が、大きな広い駐車場に変わっていたのだ。私も、家族みんなが驚いた。

 少しといえど、田んぼはなくなってしまったことに変わりはない。でも、それによりとても便利になったらしい。いとこの家の近くに市役所がある。今までは市役所にも、その近くにも駐車場がなく不便だったが、今は新しくできた駐車場を利用できるので、役所の人や役所に用がある人は大助かりだそうだ。私の家の車も、いつもはいとこの家の前にとめていて、隣の家の人が車を出す際、邪魔な時はどかしていたのを、駐車場にとめることでする必要がなくなり、便利さを実感した。

 その駐車場になった光景だけを見ると、また自然の緑が減ってしまった、と思ったけれど、よく考えると、不便だった生活を支えてくれているわけである。また、その駐車場はいとこの家のすぐ横にできたのであるが、駐車場と家の間に、溝があり、水が流れているので、駐車場に行くには少し足を伸ばして飛び越さなくてはならない。これに対して私は、この溝がなかったら、飛び越さずに楽に通れるし、駐車場から車ででる時にいとこの家の前を通り抜けられるから、近道ができるのに、と思った。でもこの溝は、他の田んぼに水を運ぶもので、溝を流れる水は稲穂たちの命の源だった。それに、もしいとこの家の前を通り抜けられたとしても、道が細いし前を通られる家の方は迷惑かもしれないし、トラブルになりかねない。

 自分でいろいろと考えた末、この駐車場は自然環境と交通の便利性が共存できているのではないかと思う。

 京都で見た建物の低さなどに気がついた出来事も、新潟での新しい駐車場の出来事も、どちらもとても大切な私たちの国の国土に関すること。そして、どちらも私がこの一生に一度の夏に、普段住んでいる地とは異なる風景に出会い、触れたことで気づけた貴重な経験だったと思っている。

 私は今まで国土について考えたこともなかったし、「国土」ということがふと頭をよぎることもなく、いわば「遠い存在」だった。でもこの夏の経験から、国土に関することってこういうことだ、とわかり、身近なものだということにも気づいた。国土を守るのは大切だと思ったし、交通の便は私達の生活に必要不可欠なので、どちらについても自分の考えをもったら、その一歩先まで見すえること。そうすることで、さらに深く考えることができ、現在どうしてそういう状況なのか、意図を感じとることができるかもしれない。

 だから今度は、私が住んでいる福岡の地で国土と交通について考えていきたい。

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