長良川河口堰建設差止請求控訴事件判決(H10.12.17)


第四 本件各請求の根拠及び要件に関する当事者の主張



 一 控訴人らの主張



  1 はじめに



    本件のような公共事業の民事差止請求(本件堰の建設差止請求のほか、収

   去請求、運用差止請求を含む。以下、本項において同様に用いる。)の要件

   及び立証責任は、結論的には、次のように考えられる。

    権利侵害、またはその可能性があれば、公共事業に対する差止請求は認容

   される。ただし、その公共事業が「純」の公共の利益が最も大きい最適案で

   あり、かつ、被害防止対策がとられて権利侵害が防止、回復等される場合は、

   その差止請求は棄却される。そして、立証責任はこれらの主張者が負うが、

   資料の偏在等の理由により軽減される場合がある。



  2 権利侵害



   (一) 基本的考え方

     民事差止請求は、権利の保全を目的とすることに由来する。したがって、

    民事差止請求の要件として、権利侵害又は権利侵害の可能性のあることが

    必要である。公共事業の民事差止請求においても、すでに公共事業により

    権利侵害があったときは、その権利侵害により、権利侵害が発生していな

    いときでも、権利侵害の可能性により、差止請求は認容される。ここにい

    う「権利」には、社会的に法的な保護に値するものとされた利益、価値も

    含まれる。その意味で、「権利」は社会の動きの中で変化し、形成される

    ものである。

   (二) 本件における控訴人らの権利

    (1) 河川についての環境権

      控訴人らが本件で主張するのは、河川についての環境権である。

      「環境」とは自然環境や生活環境であって、元来自然のもので、人の

     諸活動により汚損されてきた。その結果、その保全の必要性が生じた。

     ここでいう「環境」とは自然の状態、人や動植物の生息・生育の場とい

     う意味である。

      河川は、基本的に、流水、河道、河道空間で構成され、これらは源流

     から河口へと形状を変化させながら連続している。これちは人為の加わ

     っている部分もあるものの、自然の営力の結果である。河川の多様な地

     形と流水の状態は、多種多様な生物の生息・生育を可能にする自然環境

     となっており、地形や流水の状態と合わせて生態系を形成している。都

     市化と工業化はこのような河川の状況を大きく変化させ、河川だけが多

     様な生物の生息・生育する場となってしまった。また、多くの河川では

     汚染・汚濁、河川工事によって自然環境が損なわれ、多種多様な生物が

     生息・生育するのは限られた河川になってしまった。河川での生物種の

     多様性は急速に失われつつある。サツキマスのような絶滅危惧種、さら

     には絶滅危急種になってしまった生物もある。長良川は豊かな自然が残

     された数少ない河川の一つである。

      河川は、これまでその自然環境を基盤にして、人、特に流域住民に日

     常生活で利用され、それに密接に結びついてきた。このような河川の利

     用と利益の享受は流域住民の共有に属するものである。河川環境に価値

     があり、それを全ての人が等しく享受するように求められている現在、

     河川環境は人、特に流域住民の共有に属するものである。

      このような、河川の自然的な価値、とりわけ多様な生態系を育むとい

     う価値を尊重すべきこと、および河川が流域住民の共有財産であること

     は、平成7年3月30日河川審議会答申「今後の河川環境のあり方につ

     いて」においても積極的に取り組むべき課題として明確に述べられてい

     る。

    (2) 安全権

      生命、身体、財産はその侵害から守られる必要があり、これらの安全

     性が確保されなければならない。水害等の災害からの安全性は、個々の

     生命、身体、財産だけでなく、それらの統合状態、さらに行動をも含む

     人の生活全体の安全性である。これを安全権という。

      水害等の災害からの安全性は、第一に堤防等の防災施設によって確保

     される。したがって、これらによって安全が確保されている状態が安全

     権の内容をなす。このような安全状態は、被害にさらされる全ての人が

     等しく享受している。その意味でこの安全状態はこれらの人の共有に属

     している。

    (3) 環境権、安全権の主体

      環境権も安全権も共有のものであり、その共有状態は空間的だけでは

     なく時間的なものでもある。つまり、これらは同一世代間の者の間だけ

     でなく次世代の者との間でも共有の権利である。個々の権利主体は、共

     有財(価値あるもの)の保存行為として、単独で、環境や安全状態の侵

     害に対して、その予防や排除をなし得る。それは自己のためだけではな

     く、他者、将来世代の者のためでもある。



  3 事業の公共性=公共の利益の存在



   (1) 公共の利益

     権利侵害となる行為であっても、正当性があれば、権利侵害が許される

    場合がある。

     公共事業に正当性が認められるためには、国や国の計画による事業であ

    るということだけでは不十分であり、公共の利益が存しなければならない。

     公共事業は、利益(プラス面)のみでなく不利益(マイナス面)をもた

    らす。また、事業の実施には費用を必要とし、不利益の防止等の対策が必

    要とされるときにはその費用も必要である。原判決は、差止請求者の損害

    の程度が公共事業による公共の利益を上回る場合に差止請求が認容される

    旨判示しているが、この「公共の利益」は「純」のものでなければならず、

    ある公共事業の「純」の公共の利益は公共の利益から公共の不利益や費用

    を差し引いたものとなる。事業による公共の不利益(その一表現が費用で

    ある。)については、差止請求者の被害とは別に差し引かなければならな

    い。

     公共事業の公共の利益は、事業目的によって規定され、限界づけられて

    いる。

   (二) 最適案

     公共事業は合理的なものでなればならない。公共事業は単に、国や国

    の計画に基づく公団の事業ではなく、「公共的な目的を有する事業」であ

    る。公共事業が公共的な目的を持つには、事業が合理的であることが必要

    である。

     公共事業の合理性は、複数の事業案について、相対的に比較していずれ

    が最も優れているかを判定すること(複数事業案からの最適案の選択)に

    より達成され、あるいは評価される。逆に、ある事業案よりも優れた事業

    案があるとき、劣った事業案を選択することは不合理である。

     各事業案の中で最も優れている、すなわち、最適案は、各案の利益/不

    利益、利益/費用の比や純利益を比較して、その値等が最も大きいもので

    ある。そして、最適案の選択にあたっては、複数の事業案についての利益

    /費用比等を求め、それらを相互に比較して最も数値の良い最適なものを

    選択する方法を用いるべきであり、このような利益と不利益・費用の検討

    によって、複数事業案の中で最も優れている事業の選択が可能となる。

     以上のように、公共事業の決定に合理性があると言い得るには、複数代

    替案から純利益の最も大きい最適案が選択されていることが必要なのであ

    る。

   (三) 立証責任

     公共事業の公共性、すなわち、その事業が公共の利益をもたらし合理的

    なものであるということは、その事業の正当性の主張であるから、事業者

    が主張、立証すべきことである。したがって、公共事業の差止請求訴訟に

    おいては、当該公共事業が代替案の中で最適案であることを事業者におい

    て主張、立証し、裁判所はそうであるかどうかを判断するのである。



  4 被害防止対策



   (一) 本件各請求の対象となる公共事業の種類

     控訴人らが本件各請求の対象とする公共事業は、浚渫による塩害防止の

    ための河口堰建設事業や河口堰建設による地盤漏水防止のための漏水対策

    事業であり、被害防止・回復事業(他の公共事業による被害の防止や回復

    を目的とする事業)である。

   (二) 限界

     前記3(一)で述べたように公共事業における「公共の利益」は「純」の

    ものであり、それは利益から費用を始めとする不利益を差し引いたもので

    ある。この「純」の公共の利益は正のものでなければならない。これは事

    業の合理性から当然のことであり、費用等の不利益が、得ようとする利益

    を上回るのは不合理である。被害防止・回復事業の利益は、他の公共事業

    によって発生する被害の防止・回復であり、その大きさは、防止・回復し

    ようとする被害額等の被害内容で評価される。したがって、被害防止・回

    復事業においては、防止・回復しようとする被害内容を費用等の被害防止

    ・回復事業の不利益の内容と比較し(例えば、防止しようとする被害額と

    防止費用を比較する。)、前者が後者を上回り、「純」の公共の利益が正

    にならなければならない。これがその事業実施の限界である。

   (三) 補償性

     被害防止・回復事業は、他の公共事業による被害防止を目的とする事業

    で、他事業の補償である点に特徴がある。この補償性から、次のことが導

    きだされる。

     第一に、被害防止・回復事業の費用は、その被害を起こす他の公共事業

    の費用となる。

     第二に、被害防止・回復事業の内容、機能の有効性、純利益の大きさ、

    最適案であること等事業についての立証責任は被害を発生させた事業者に

    ある。

   (四) 立証責任の内容

     第一は、当該被害防止・回復事業の内容である。

     第二は、当該事業の被害防止・回復機能の有効性である。まず、設計条

    件の妥当性が明らかにされる必要性がある。そこでは、設計外力が妥当な

    ものか、機能は有効に働き予定された目的は達成されるのかなどが明らか

    にされなければならない。

     第三は、当該被害防止・回復事業の利益、つまり他の公共事業による被

    害項目と被害額などの被害内容、当該事業費用などの不利益の内容、両者

    を比較した純利益の大きさや内容である。

     第四は、当該被害防止・回復事業が最適案であることである。



  5 受忍限度論について



    公共事業の差し止めの要件の考え方として、受忍限度論がある。この点、

   被控訴人は、「本件事業が控訴人らに対し受忍限度を超える被害を及ぼすか

   否かを端的に判断すれば足りる」と主張する。

    受忍限度論は論理的に未熟である。受忍限度論は、それがどのような判断、

   思考過程をするのかの論理の枠組みを示すことができない。したがって、実

   際になされた判断過程の追試、検証ができない。結局、被控訴人のように

   「端的」というニュアンスでしか意味の分らない情緒的な思考過程しか示せ

   ないのである。

    受忍限度論において、差止請求者の被害のみから、受忍限度を超えている

   か否かの判断がなされるのではない。「受忍限度」とは権利侵害を公共事業

   の公共の利益と対比することによって、権利侵害による差し止めを制約する

   ものである。「受忍限度を超える被害」というものを差止要件に持ち出す以

   上、侵害行為である公共事業における公共の利益についての判断を欠くこと

   はできない。このような公共事業における公共の利益を含めた判断は、結局、

   前記4までに述べた判断である。受忍限度論は、必要な判断を論理立ててき

   ちんとしてゆくと、前記4までに述べた判断過程に収れんされる。