稲作用溜池の時代

明治以降工業化が進展するまで、我が国の基幹産業は、長く稲作農業でした。当初は湿地や天水頼りであったものが、耕作地が拡大するとともに次第に小河川や溜池に水源を求めるようになったと思われます。


古くから開発が進んだ近畿地方や降水量の少ない瀬戸内海の平野部を中心として、数多くの稲作用溜池が築造されてきました。その多くは堤高の低いアースダムでした。


文献(日本書紀)に残る最古の溜池として、 狭山 さやま 池(大阪府)が知られています。616年の築造以来何度も嵩上げ・改修がなされ、さらに、平成に入って多目的ダム化されました。1400年の寿命を実証しているダムです。


律令国家の時代の著名な溜池に、 満濃 まんのう 池(8世紀初め、香川県)があります。9世紀の改修には空海が携わったと伝えられています。現在、溜池としては我が国最大の貯水容量(1540万m3)を持っています。


その後江戸時代になると、中小河川だけでなく、大河川に堰を築いて取水する技術も進み、溜池の築造とあわせて新田開発が各地で行われました。この時代の著名な溜池が 入鹿 いるか 池(1633、愛知県)です。


全国の溜池の数は、1996年時点の調査(農林水産省)で、江戸期までの築造で受益面積2ha以上のものだけで約17,000箇所、貯水量合計約7億m3にのぼります。


このような努力の結果、耕地面積は江戸初期から明治初期の間に倍増し、同時に日本の人口も1600年時点の1200万人から幕末の3200万人まで増加しました。この人口は当時の農業技術で日本列島で養える上限の人口ではないかと考えられます。


一方、化石燃料に頼る現在と異なり、薪炭材が燃料であり、建築用材としても使われたことから森林伐採が進み、はげ山が全国至る所にあるという状況でした。


当時、世界有数の大都市であった江戸は、多摩川を水源とする水道配水システムを備えていました。その名残が、地名の溜池(港区)に残っています。江戸城の堀を兼ねた水道用貯水池でしたが、明治期には埋め立てられて道路になりました。