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河川伝統技術データベース:分類別リスト【堤防】



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整理
番号
水系 河川名 局名 事務所名 名称 分類 年代 当該河川伝統技術の解説・由来・意味
11 岩木川 岩木川 東北地方整備局 青森河川国道事務所 水戸口突堤 堤防 20世紀代  天和3(1683)年〜大正時代まで、水戸口の幅が狭く浅いため、強南西風による荒波で閉塞が繰り返され、そのため、湖水が溢れ、岩木川下流域で大きな被害をもたらしていた。
 水戸口の突堤計画のために、大正9年〜13年まで、240回の地形変化の調査をし、それらの結果から、ほとんど変化のない地点にヒントを得て、総合的に水戸口の両岸に設ける突堤の位置、幅、長さなどを決め、大正15(1926)年に工事着工し、昭和22(1947)年に完成した。
 水戸口は、完成後閉塞することはなく、河口処理工事としては全国でも数少ない成功事例となっている。
 ※北突堤:l=390m南突堤:l=340m
31 最上川 最上川下流 東北地方整備局 酒田河川国道事務所 河海分離背割堤 堤防 20世紀代  最上川河口に隣接する酒田港は、昭和以前には最上川河口を利用した河口港であり、古くから内陸舟運と京・大阪への海運との結節点として利用されてきたが、河川の流下や波浪などにより、地形は不安定で船の出入りには危険が伴った。
 大正6(1917)年に着手された最上川(赤川含む)改修事業では、これらを解消するため、港域を最上川から完全に分離し整備、最上川本流で洪水処理するための背割堤が築造され、昭和7(1932)年に完成した。
33 最上川 最上川 東北地方整備局 山形河川国道事務所 直江石堤(谷地河原堤防) 堤防 17世紀代  上杉景勝重臣・直江兼続により、米沢城下町を洪水から守るために築かれた。
 馬踏(上辺)約三間(5.4m)、根置(下辺)約五間(9m)、高さ五〜六尺(1.5〜1.8m)の石堤。
 その一部が米沢市の文化財に指定されている。(1.2km)
52 北上川 北上川 東北地方整備局 岩手河川国道事務所 藩政時代の杉土手 堤防 17世紀代  この堤防は雫石川が激突する合流点に位置し、城下町の洪水対策として、延宝8(1680)年から洪水流の緩和並びに根固めのため岩石投入を行い、元禄15(1702)年に完成した。更に堤防の内外に杉を植え、洪水流による崩壊防止策を講じた。明治初期における杉土手の状況は、長さ13町2間、高さ1丈2尺、馬踏1間3尺、根敷5間、根固めに杉の樹が植えられていた。太平洋戦争により船舶の材料として全部切られ、現在は当時の面影がない。
56 北上川 北上川・太田川 東北地方整備局 岩手河川国道事務所 藤原氏時代の囲繞堤 堤防 16世紀以前  この堤防に関する記録等はほとんど失われ、更にその後における洪水、河道変遷等により壊滅し、今はその片影をとどめない。しかしその概況は平泉古図に明記されており、藤原氏全盛時代、洪水対策として、北上川・衣川沿川に高さ5〜7mの堤防を構築したと書かれている。
65 北上川 北上川 東北地方整備局 北上川下流河川事務所 若狭土手工事・相模土手工事(宗直の河道変更工事) 堤防 17世紀代  慶長10〜16(1605〜1611)年に至る河道変更の大工事を施工し、北上川と迫川の流れを分離する相模土手工事をし、仙北開発の基石を開いた。相模土手の築堤工事がどのような方法、規模でなされたかは不明であるが、曲がっていた北上の流れをまっすぐにしたから、流れが急流となったため、二代宗貞がさしあたって着手しなければならないことは、堤防の強化補修でありこの補強改修された堤防を若狭土手と称している。
 このような強行された北上川改修工事の陰に、今に残る人身御供の悲しい物語が語り継がれている。堤防がつくられても、崩れるのは水神の怒りによるためであるという信仰が昔からあり、水神の怒りを鎮めるためには白羽の矢の立った家の娘を生きながら堤防に埋めて、人身御供として神に捧げる、いわゆる人柱としなくてはならなかった。お鶴は若狭土手のいけにえになって捧げられた。かくして若狭土手の長い堤防は完成した。
74 阿武隈川 荒川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 霞堤 堤防 17世紀代  水防林の役目を果たす水林自然林の中に、川縁に苔むした石積みの堤防がある。堤防は霞堤と呼ばれ、古いものでは江戸時代初頭から築かれた。
 霞堤は一直線ではなく、水流に対じするように斜めにくしの歯のように何本も並ぶ。堤の隙間を開けることで、水圧を分散して水の勢いを弱めるために工夫されている。
 過去、水防林と霞堤の「二段構え」で田畑への洪水の侵入をくい止めてきたが、現在は建設省の砂防事業によって「床固ダム」が階段状に整備され新旧の水防施設を見ることができる。
82 利根川 鬼怒川 関東地方整備局 下館河川事務所 霞堤 堤防    大正15(1926)年の鬼怒川改修計画策定時の築堤工事は、弱小部分を拡築し無堤地で氾濫の被害が大きい箇所に新堤を築くもので、霞堤を残していった。鬼怒川の洪水時に遊水効果を持たせるために造られたものである。現在でも洪水時には、遊水効果が期待できる。
93 利根川 利根川 関東地方整備局 利根川上流河川事務所 中条堤 堤防 17世紀代  埼玉県行田市で利根川に合流する旧堤防。別称「論所堤」。築堤年代は定かではないが、慶長5(1600)年頃から明治43(1910)年の大水害において破堤に至るまで、上流部で溢れた洪水の遊水、貯留施設として機能していた。
 利根川左岸の文禄堤(群馬県千代田町付近)と中条堤とに挟まれた洪水流は狭窄部となる葛和田(埼玉県妻沼町)でせきあげを起こし、中条堤より上流で滞留する。これにより葛和田より下流の利根川の洪水被害を軽減した。
 しかし、水害頻度の高まる中条堤上流側と、上流側よりは安全度の高まる中条堤下流側との対立を招く堤防でもあった。明治43(1910)年の破堤後の修復を巡っては埼玉県議会で警官隊が出動する騒ぎとまでなり、全面改修は行われなかった。昭和初期に連続堤が築堤されたことで論争は終結した。
104 利根川 神流川 関東地方整備局 高崎河川国道事務所 霞堤 堤防    神流川には数多くの霞堤が存在している。霞堤の効果は、洪水時に堤内側へ水を溢れさせて遊水効果をもたせ、利根川への流入量を増大させないこと。造られた年代は不明。
132 荒川 荒川 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 横提 堤防 20世紀代  大正7(1918)年の「荒川上流改修計画」において荒川の特性をたくみに取り入れた横堤が計画された。横堤の計画は、遊水能力の現況を保存し、大出水時に洪水の勢を緩和し、下流の流量を調節し、洪水の流勢を抑制して堤脚の安全を期し、作物を保護し、沈殿によって高水敷に堆積を行い、澪筋を誘導して河道に集中させ、減水を速かにする為に横堤を築設し以て改修の効果を上げる。「荒川治水誌資料 第3部 工事編 特殊堤たる荒川横堤について 昭和29年8月 より」  計画当初27箇所の内、荒川第一調節池により1箇所撤去されたものの、現在でも 26箇所現存する。
133 荒川 荒川 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 川島領囲提 堤防 16世紀代  川島領囲堤は、慶長年間(1596〜1615年)の増築の後、久下開削による洪水流増大のため、当時から川越藩の穀倉であった川島領を水害から防ぎ、農業生産力の安定をはかるため増築、増強が行われた。16世紀の終わり頃には川島領には小規模ながら囲繞堤があったとされている。
 伊奈備前守忠次によって川島領の増築が慶長年間(1596〜1615年)に行われたことが伝えられている。
 川越城主松平伊豆守信綱が囲い堤を慶安年間(1648〜52年)に増築。
 川越城主松平大和守斉典の命により弘化3(1846)年に荒川通り川島領惣囲堤を増強。
141 富士川 富士川 関東地方整備局 甲府河川国道事務所 雁堤(かりがねつつみ) 堤防    「雁堤」(かりがねつつみ)は富士川が山間部から富士平野に出たところに築かれている。「雁堤」は左岸側の派川に添って起こる洪水氾濫を治め、新田を開墾するために富士川の流路を安定させるための施設である。扇頂地点に「出し」を、下流には「備前堤」(横堤)や「柳堤」、「雁堤」(本堤)を築造した。一連の施設は古郡氏一族によって元和7(1621)年に着手され3代に渡り幾たびかの破堤に合いながら改良を加え延宝2(1674)年に完成した。この堤防を高いところから見ると全体の形が空を飛ぶ「雁」の姿に似ていることから「雁堤」の名がつけられた。
143 富士川 釜無川
御勅使川
関東地方整備局 甲府河川国道事務所 信玄堤治水システム 堤防    1542(天文11)年の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となり、武田信玄によって治水システムの構築が始められ約20年の歳月をかけて完成した。工事の主眼は、御勅使川の流路安定と平地で合流する御勅使川を上流の崖「高岩」に向かわせ自然の要害で合流エネルギーを受け止める。また、平地部は「霞堤」を2重3重に築き氾濫しても次の霞堤で阻み洪水を釜無川に戻しやすくした。御勅使川が山間部から扇状地へ出るカ所(扇頂)に「石積み出し」と呼ばれる斜堤・横堤を8カ所(一番出しから八番出し:一番出しから三番出しは現存)築き流路を北に振った。扇状地を流れ下る御勅使川を分流しエネルギーを二分する施設として「将棋頭」を設置した。二分された一方は、元の御勅使川筋に添って流下(前御勅使川)し、もう一方は「高岩」の上流に向かうものとなる(後御勅使川)。新たな川筋には、竜岡台地が行く手を阻んでおり、これを人工的に開削「堀切」した。新たな御勅使川と釜無川が合流する部分には「一六石」と呼ばれる巨大な石が並べられ、流速の早い合流地点を安定させるとともに「高岩」に流れが向くような機能を持つと言われている(導流堤・背割堤・整流堤)。一六石は現在、河原に埋没している。合流後、左岸を守る重要施設「霞堤」に向かおうとするエネルギーを右岸側に向けるため「石積み出し」が三列築造され、水流を右岸に向かわせた。右岸側に向かった水流には「前御勅使川」を合流させ水流を安定させた。「信玄堤」(しんげんづつみ)とは、御勅使川と釜無川の合流点付近を中心に、施設構築や水路開削以外に、自然物の利用や水流さえも利用したものである。さらに、土砂の流下災害を防ぐため河岸付近への造林、抜開禁止、水防の重要性を領民に啓蒙するための水防に関わる祭りの実施、霞堤を守らせるための租税免除などを総称するものである。
150 信濃川 信濃川下流中ノ口川 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 まわり土手(めがね土手) 堤防 18世紀代  江戸期から、信濃川及び中ノ口川の沿川に広く作られていた。「まわり土手」とは、川から水を引く本樋の内側に半円形に築いた副提のことで、江戸期に、壊れやすい本樋の補強のため作られたもの。現在は、役割を終え、半円状の形状をとどめているのが数カ所残るのみ。
151 信濃川 信濃川下流 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 天野の瀬替え 堤防 17世紀代  信濃川の洪水を防ぐため、慶長19(1614)年に加茂町の中沢弥助及びその子太郎治が蛇行部のショートカットを計画。河道付替え完了は延宝7(1679)年頃。上記のとおり河道付替えが完了したが、ひとたび増水すると、旧河道にも水が流れ、天野は孤島のようになり、甚大な被害を受けた。そのため、旧川の河口及び流末に堤防を築く計画が天保8(1837)年に立てられるが、洪水の増加を心配する近隣村落の強い反対にあう。厳しい条件付きで万延元(1860)年にようやく工事を完了した。畑地等となっている。
161 信濃川 信濃川 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 左近堤 堤防 17世紀代  俗に「左近の土手」と呼ばれる江戸時代の名残を止める堤防の一部。信濃川の右岸に発達した長岡の城下町は、築堤が不十分で毎年のように洪水に襲われた。寛延元年(1748年)、2万人を超す労力を投入し、半年足らずで完成。近代になって本格的な護岸堤防ができるまで、左近堤は人々の生命と財産を守った。
163 信濃川 魚野川 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 堀之内の堤防 堤防 17世紀代  魚野川左岸、徳田から下新田にかけて「四ヶ村」の土手と呼ばれる護岸があった。
 四ヶ村とは徳田・下新田・下島の各村に加えて、対岸竜光村の飛地が入り組んで存在したことによる。
 四ヶ村は古くから魚野川の洪水に悩まされてきたが、その対策として共同して組合をつくり、堤防を築き守ってきた。文献での所見では、元禄7(1694)年で、徳田村が記録した内容による。
 当時、堤防のことを「川除」と呼び、大破すると復旧にあたり、幕府補助による御普請場となった。
 徳田から下新田途中まで堤防が完成している。
176 信濃川 千曲川 北陸地方整備局 千曲川河川事務所 坂城常山堤 堤防 19世紀代  天保12(1841)年におこった洪水は天領中之條の村々に大きな被害を与えた。そこで代官所は人夫3000人を動員して、弘化2(1845)年に完成した。此の堤防は天端巾9メートル、堤敷巾18メートル、延長300メートルで、川筋に対して直角に築堤されている。しかも基礎には巨石を用い、全体に強固なものとなっている。完成後「常山の蛇は頭が撃たれれば尾がこれを助け、尾が撃たれれば頭がこれを救う」と兵法書「孫子」から常山堤と命名した。
177 信濃川 千曲川 北陸地方整備局 千曲川河川事務所 牛島輪中堤 堤防 19世紀代  長野市若穂牛島地区は千曲川・犀川の洪水と向かいあって生活してきた。往時の人々は柳や桑を植え洪水を防いできた。寛保2(1742)年の「戌の満水」後松代藩の資金援助を得て輪中堤防を年中行事として住民総出で完成させた。それ以前は地盤を高くし住家を建て、石垣を築いて土蔵を建て、生活用水の井戸は、側溝を設け洪水による外水の進入、異物の混入防止を図る苦労を重ねてきた。
178 信濃川 千曲川 北陸地方整備局 千曲川河川事務所 小布施大夫千両堤 堤防 17世紀代  千曲川右支川松川は北西に乱入し、流域沿の現小布施町は洪水氾濫に悩まされていた。元和年間(1615〜1624年)に現高山村に蟄居していた福島正則は検地と治水に力をそそぎ、松川河道を付け替えて、小布施町に氾濫するのを防ぎ石堤を築造させた。この堤防は当時の伊奈流の技法により、水勢を弱めて溢流させる霞堤であったが、現在の石堤はその一部で、大夫の千両堤と呼ばれ現存している。
204 関川 矢代川 北陸地方整備局 高田河川国道事務所 矢代川改修 堤防 20世紀代  明治30(1897)年、31(1898)年と2年続きの水害が発生し、特に30年の水害では浸水家屋は3,257戸にも達し、明治45(1912)年にも水害が発生し1,921戸が浸水した。明治30・31・45年の水害を契機に、連続堤の構築が関川・矢代川の両岸に復旧工事として実施されるようになり、大正9(1920)年頃までに完成した。
 上越市石沢・下箱井地先の2箇所に矢代川改修の事情と完成を伝える記念碑が建立されている。
206 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 霞堤 堤防 19世紀代  明治29(1896)年頃、政府は内務省嘱託工師のオランダ人デ・レイケに命じ、隈無く現地を視察させ、霞堤を設計させた。これによって起工された堤防は、
 ・小摺戸前各堤
 ・福島前森田伊右エ門南方より十番堤間
 ・上飯野用水二番水門より上飯野前堤に至間で
堅陳無極の堤防が完備したので、川原地帯の荒無地もこれより盛んに開墾するようになった。
 現在、黒部川には霞堤が14ヶ所あるが、改修事業の変更や土地改良事業により田圃等に変わって、古いもので形として残っていると思われるのは、右岸では7.0km〜10.0km、左岸では4.4km付近であろう。
207 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 沓掛地先の霞堤 堤防 19世紀代  文政年間(1818〜1830年)から昭和にかけて築造された霞堤。
 黒部川左岸で古くに築造された霞堤で、石堤・二番堤・三番堤(一部、土地改良事業により撤去)が残っている。
 本堤の裏に現存。
208 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 森林堤防 堤防 19世紀代  基礎整備以前には扇状地内に至る所大森林地帯があった。富山大学学術調査団編の『黒部川』の第6ページに「森林堤防も伝統工法の一つである。これは洪水が激突しやすい地形のために、堤防で護り切れない川岸を厚く森林帯で防ぐ工法である。洪水が森林帯の前面でたちまちに水勢が衰え、運搬砂礫を放置して泥水だけが森林帯を通り抜ける。この泥水が水田にはいると客土効果を現し、水田を肥沃にする。扇状地の治水にはこれらの二つ(霞堤と森林堤防)に及ぶものがなく、黒部川扇状地にはそのいずれもが残っている。」とある。
  基盤整備および国道8号線のバイパス工事により地形が大きく変化し、形跡が伺える程度になった。
209 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 村囲いの堤防・家囲いの堤防 堤防    村囲いの堤防:笹原地区の最南端部に竹島儀松氏の家がある。同家の屋敷の南西角すれすれに「村囲いの堤防」が築かれていた。 堤防はそこからカーブした村の南側から東側へと伸び、東側を囲う堤防の南端に接してさらにカーブして北方へ伸び、そこからは二重堤防のようになっていた。
 家囲いの堤防:下飯野地区の南端部にある野坂初郎氏宅は同地区の村囲いの堤防の中にあり、同家の裏側6〜70mのところにも、前側100mほどのところにも堤防があったのであるが、それでも用心して、屋敷の周囲に高さ1mほどの土堤を築き、内側に杉の木を植えて防風林としていた。洪水時に土嚢で屋敷の入口を防げば、輪中となり、完全に家・屋敷を護るようになっていた。近年圃場整備事業の実施によって、これらの村囲いの堤防、家囲いの堤防等はほとんどが消滅し、先人の足跡をしのぶものが姿を消した。
210 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 戦前の根固工(沈め枠、木工沈床、そだ沈床) 堤防 19世紀代  現在の黒部川の根固工は、異形コンクリートブロック施工され、戦前に施工された根固工(木製)は堤防の改修により見られなくなった。
221 常願寺川 常願寺川 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 済民堤 堤防 16世紀代  常願寺川左岸の富山市西ノ番に済民堤とよばれる堤防がある。この堤防は、以前に築かれた堤防が常願寺川の氾濫で埋まってしまい、その上に改めて築かれた堤防で、土地の人々が、常願寺川の治水に力をつくした先人をしのび、「民を助ける堤防」として済民堤と名付けたと伝えられている。
223 常願寺川 常願寺川 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 霞堤(デ・レイケの改修計画) 堤防 19世紀代  デ・レイケによる常願寺川改修計画は明治24(1891)年に測量着手、翌年1月26日に設計が完了し、本格的改修工事に着手することになった。デ・レイケは明治24年洪水後の堤内、堤外の状況および被害の程度、既存堤防の配置状況等、急流河川常願寺川の河道特性を十分に分析し随所に霞堤を配置した計画であった。霞堤は急流河川の代表的堤防であり、現在も随所に残っている。
224 常願寺川 常西用水 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 佐々堤 堤防 16世紀代  佐々成政は、常願寺川に「済民堤:民を救う堤防」を築き、灌漑用水を整備するなど、治水・利水に力を注ぎ、領民のための施策を推進したことが最近明らかになりつつある。現存する「佐々堤」は、常西用水の川底から顔をのぞかしている古い石の堤防で、霞堤を効果的に配置したものである。築堤後400年余りの歳月を経て、今なお堅固な構造を保ち、水路の床固めの役割を果たしており、当時の技術水準の高さを示している。安政5(1858)年の大地震に伴う大土石流により「佐々堤」がほとんど埋まってしまったことは、常願寺川の治水の困難さを如実に物語るものである。
231 庄川 庄川 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 松川除 堤防 18世紀代  寛文10(1670)年、藩は千保川をはじめ、今まで西へ流れていた何本もの川を締め切って東へ移し、庄川の流れを一本にする工事をはじめた。瑞龍寺や高岡町、砺波平野を水害から安定させるためである。
 堤防は長さ2kmにもわたり、45年の歳月と多くの労力をついやして、正徳4(1714)年に完成した。その後も補強工事が続けられ、堤防を強固とするために松の木が数百本植えられたことから「松川除」(「川除」は堤防のこと)と呼ばれるようになった。
232 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 堤塘 堤防 20世紀代  堤の表幅4間は、石を盛り詰め、堤の裏側は土砂を盛る。さらに堤の裏表とも石を端取る。石の積み方は谷落と一本返しの方法があり、両方とも六ツ巻にして積み、堤防の法面に対して石の中心を90度の角度にする。
234 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 導水提 堤防 19世紀代  河口の水面を下げることを目的とした堤防。
 出水のため、手取川の川底が2mも高まったことから治水策を確立し、破壊堤防の修理と補強とに従事し従前の堤防が大きいため、高さなどを増し、普通の河川改修に見るようなことは望まれない。しかし、根本方針として水制工を造り河床の上昇を防ぎ、従来護岸に重きを置いて補強に努め、河口の水面を下げることを目的とし河口において2、3m位の導水堤を出すこととした。
 この導水堤は、港湾の改修には見受けられるが河川の改修には全国に2、3を数えるのみである。
241 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 村囲堤 堤防 20世紀代  加賀藩では堤防のことを「川除」と呼んでおり、川除は一つの村だけで作っても効果がなかったため、村単独で洪水から身を守るために集落の周囲に土手を築いたことから「村囲」と呼ばれた。
250 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 梅ノ木堤 堤防 19世紀代  手取川左岸10km付近の霞堤の名前
251 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 權正寺堤 堤防 19世紀代  手取川の霞堤の名前
299 安倍川 安倍川 中部地方整備局 静岡河川事務所 霞堤 堤防 16世紀代  一般に新田開発は霞堤の内側を利用するものであるが安倍川の場合、新田開発が行われた後、築堤されたものもある。(遠藤新田等)
 安倍川の新田開発は、1500年代後期から活発化しているため武田信玄による甲州流治水技術の影響が考えられるが定かではない。
 安倍川には、数多くの霞堤が存在する。安倍川の場合、急流河川であるが故に、新田開発に伴い開発地を守るために築堤されたもので、遊水部の治水機能としての洪水貯留効果は考慮されていない。
 ほとんどの霞堤開口部は築堤され、連続堤となっているが山付部からの築堤部分は現存している。
300 安倍川 安倍川 中部地方整備局 静岡河川事務所 薩摩土手 堤防 17世紀代  17世紀はじめに徳川家康が島津氏に命じて築かせたといわれているが、歴史書等には記載がないため、確認はできない。
 江戸時代後期に書かれた『駿河国新風土記』の中に「島津家の功役によって築堤されたと言い伝えられている」と記載されているが、薩摩藩島津家および幕府の公式記録にはないが、『静岡市 近世』に「島津氏がお手伝いしたものであろう」と記載されている。
 「駿府お囲堤」といったほうが良いと思われる。
 大部分の築堤は撤去されているが一部現存している。現在堤防のあった場所は市道として薩摩通りと呼ばれている。
301 安倍川 安倍川 中部地方整備局 静岡河川事務所 築堤 堤防 18世紀代  堤防上に安永9(1780)年11月の記名がある川除地蔵尊像が安置されている。
 安倍川左岸中島地先の東名高速道路橋の北側に本堤から反れるように堤防が現存している。詳しい築堤年は不明であるが、安永9(1780)年11月と記銘された川除地蔵が安置されていることから、江戸時代中期以前のものと推察される。
306 大井川 大井川 中部地方整備局 静岡河川事務所 飛田提 堤防 16世紀以前  大井川水系で記録に残るもっとも古い堤防で平安時代に築堤された。
 高さ7.8尺(2.4m)、馬踏5.6間(10.2m)で当時としては大きなものであった。
307 大井川 大井川 中部地方整備局 静岡河川事務所 御囲い堤 堤防 17世紀代  慶長9(1604)年の出水により島田宿は大被害を受け、北側の山沿いに移転したが、徳川頼宣が元の位置に宿並を再興するときに宿域を土手で囲い水害から宿場全体を守ろうとした。
313 天竜川 天竜川上流 中部地方整備局 天竜川上流河川事務所 旧堤防(理兵衛堤) 堤防 18世紀代  長野県上伊那郡中川村には、江戸期に築かれた理兵衛堤防の跡が残っています。
 理兵衛堤防は、中川村の庄屋であった松村理兵衛が延享7(1750)年に手がけ、子、孫と三代にわたって、自分の財産を投げ出して工事を引き継ぎ完成させたものです。
 石積みの堤防は強固に築かれ今日に至ってます。
317 天竜川 天竜川下流 中部地方整備局 浜松河川国道事務所 旧堤防(天保堤) 堤防 16世紀以前  天平宝字5(761)年の水害で約1,000mの堤防が決壊したため、延べ人数303,700人あまりの労力によって修築された。(平安時代の「延喜式」によって算出した遠江国の全人口が約98,000人と推定される)
 修築堤防の断面は天端3.6m、高さ1.36m、敷高5.4mで当時最高の復旧工事をしたと思われる。
318 天竜川 天竜川下流 中部地方整備局 浜松河川国道事務所 旧堤防(彦助堤) 堤防 16世紀以前  開田を目的とした小天竜の締め切り堤防を下流に連続して本川をまとめることにより、開田はもとより浜松城の防衛に役立ち、又東海道の交通管理上にも都合が良いと言う一石二鳥の大きな効用があった。
 現在でも浜北市に一部が存在する。
321 豊川 豊川 中部地方整備局 豊橋河川事務所 霞堤 堤防 17世紀代  霞堤は当地方では鎧堤または蓑掛堤と呼ばれ、豊川流域には左右各岸に9ヶ所あった。鎧堤は字のごとく、切れ目のある堤防が二重三重に重なっているため上記の名称が付けられたと思われる。
 右岸側に位置していた4ヶ所の霞堤(二葉、当古、三上、大村)の締め切りが、昭和42年度までに完了した。
323 矢作川 矢作川 中部地方整備局 豊橋河川事務所 黄金堤 堤防 17世紀代  貞享3(1686)年、吉良の領主吉良上野介義仲が矢作川支川の広田川や矢作古川の洪水が吉良へ流れ込まないように築いたもの。
 この堤防を築くと、洪水は西尾領に流れてしまうため、西尾藩との交渉の末、一日で造ること、切れたら造らないことの条件で造ったため、一夜堤とも言われている。
 長さ187m、高さ4mで堤防の中心は粘土でできている。
329 庄内川 庄内川 中部地方整備局 庄内川河川事務所 洗堰 堤防 18世紀代  もともと、名古屋城を守るために、右岸堤が低く作られていたた。江戸時代の尾張藩主徳川宗睦の命により実施。
 庄内川の洪水被害軽減のため、右岸堤を一部切り下げ、新川への洪水の一部を分派させる施設を天明4(1784)年から3年間で実施。
350 木曽川 木曽川 中部地方整備局 木曽川上流河川事務所 御囲堤 堤防 17世紀代  尾張の国を水害から守るという目的もあるが、他国の大名の侵略を阻むという意味で軍事目的で整備された。その反面で木曽川右岸の美濃側は、本格的な河川堤防の補強が許されずに、洪水の被害を受ける。
 御囲堤は、慶長13(1608)年から慶長14(1609)年にかけて、尾張の国を木曽川の洪水から守るため、木曽川の左岸の犬山から弥富に至る延長48km(12里)の大堤防を築いたものである。またこの堤防は、尾張平野をすっぽり取り囲む形であったので「御囲堤」と呼ばれるようになった。
352 木曽川 木曽川 中部地方整備局 木曽川上流河川事務所 輪中 堤防 17世紀代  慶長5(1600)年以降に水防共同体として形成された。
 輪中は、周りを川ないし海に囲まれた地域で水害を防ぐために、耕地や村落を堤防で囲い、その中の水を外の川や海に排する水路をもうけているものである。一部現存。
353 木曽川 木曽川 中部地方整備局 木曽川上流河川事務所 水屋 堤防    江戸時代後半より洪水多発とともに築かれた。
 水屋は、屋敷内にあって一段高く土盛石積された建築物で、洪水時には個人的な避難場所であると共に米、味噌及びたまりなどを日常収納した所である。一部現存。
355 木曽川 木曽川 揖斐川 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 導流堤 堤防 19世紀代  三川分流工事に伴って、河口部の水深を維持するために河口部右岸に導流堤を建設する。
 木曽川導流堤は、明治23(1890)年に竣工したもので、全長は4680mあり、うち1820mは土堤、残りの2860mは石堤となっている。
 土堤については、新河道掘削の際の浚渫土砂や撤廃する旧堤の土砂で築造される。
 石堤については、一時はコンクリート塊を使うことが検討されたが、結局は石材で築造される。
 地盤沈下による嵩上げを行っている。
357 木曽川 揖斐川 長良川 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 輪中堤(高須輪中堤) 堤防 18世紀代  御囲堤が整備されたことによって美濃側は洪水にみまわれることが多くなり、美濃の人々は洪水から生活を守るため住民が力を合わせて堤防を強固なものにしてきた。そのため、美濃地方には多数の輪中が発達してきた。
 当初は集落の上流側に尻無堤を築いていたが、これだと洪水の直撃は避けられても水害を回避することができないため、下流側の無堤部に完全な連続堤を懸廻した。懸廻堤が築造されていき、輪中の形態が成立されていった。
359 木曽川 長良川(大榑川) 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 大榑川洗堰 堤防 17世紀代  木曽三川分流工事が完成する以前は、川床が高い長良川の水の7割が大榑川を通って西側の揖斐川に流れ込み、度々被害をもたらしていた。
 上記のような背景において大榑川を築いた。
 ・大榑川は溢れる水を極力減らして下流域の水位、水量を調節する治水施設がある。
 ・長良川の水が大榑川に流れ込むのを制限すべく宝暦元(1751)年に食違堰を築いたが、水害根絶の目的を達することができず、薩摩藩の宝暦治水により宝暦5(1755)年に薩摩洗堰が完成した。その後大榑川洗堰は宝暦8(1758)年に地元民によって造られた。
 明治32(1899)年の木曽三川の分流工事に伴い、大榑川も締切り工事を行った。これにより洗堰は不要となり埋没した。
360 鈴鹿川 鈴鹿川 中部地方整備局 三重河川国道事務所 女人堤防 堤防 19世紀代  鈴鹿川の洪水に悩まされていた村民が、対岸の城下町を守るため、堤防の補強を禁止されていることを承知で、又、男性がそういう作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造ったと言われている。
 所謂、女人堤防は鈴鹿川本堤防ではなく、これに直角に南北に造られている。堤防延長は約400mで、上流本堤防から溢水した洪水から村を守る形である。また、避難の時間を確保する。
 現在は堤防上に竹林が繁茂し、又、所々道路で寸断されている。記念碑が堤防沿いに建っている。
361 宮川 宮川 中部地方整備局 三重河川国道事務所 はねだしていぼう(まごえもんつつみ) 堤防 17世紀代  松井孫右衛門さんは、堤防建設のために自分の財産を惜しげもなく使いました。
 大勢の人々に過酷な労役も頼みました。堤防は築いては壊れ、築いては壊れして失敗を重ねました。五つめの堤防ができあがる日を前にして、寛永10(1633)年8月25日に神に祈ろうと堤防に深く穴を掘り、その中に身を沈めました。
 本堤防から突き出した「はねだしていぼう」というものを五つも構築しました。この堤防に激突した水流は、渦を巻いて「はねだしていぼう」の内側に流れ込み、ゆるやかに反転して再び本流へ返っていきます。五つの「はねだしていぼう」を繰り返すうちに徐々に水勢が弱くなり、本堤防の決壊が防げます。
 「はねだしていぼう」は松井孫右衛門さんをお祀りしている堤防のほかに、度会橋下流の花見茶屋を設けるあたりの土手に、堤防の跡が二筋、残っています。「はねだしていぼう」は「まごえもんつつみ」と呼ばれ、近在の人々に慕われ、春の四月桜まつりのころと、夏の8月25日の命日に「松井孫右衛門供養祭」が行われます。
362 由良川 由良川 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所 明智光秀の築堤 堤防 16世紀代  当時の由良川は土師川合流点から市街地を西に流れ、福知山駅の近くから和久市、荒河に迂回していた。これを光秀が堤防を築いて今の由良川に付け替えた。
366 由良川 由良川 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所 福知山堤防 堤防 20世紀代  明治40(1907)年8月洪水を契機に造られた溢水防備の全面が石張構造の堤防が明治42(1909)年7月18日に完成し「福知山の大堤防」が完成したと報道された。
368 由良川 由良川 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所 岩沢堤 堤防 20世紀代  昭和2(1927)年の北丹後震災により被災した堤防を、ドイツ製の矢板とコンクリートを使って復旧した。
388 大和川 佐保川 近畿地方整備局 大和川河川事務所 順慶堤 堤防 16世紀代  筒井順慶縁のもの。
 筒井集落を洪水から守るための「請堤」。道として利用。
 請堤の役割は薄れる。
395 淀川 野洲川 近畿地方整備局 琵琶湖河川事務所 輪中堤(伊庭堤) 堤防 16世紀以前  堤防工事は平安中期頃といわれているが、弥生中期後の狩上神社鎮座の頃と期を同じくして、不完全ながら輪中方式の堤防が築かれた。中主町の堤という地名は輪中方式による包みの意の堤と思われる。したがって、普通名詞としての「堤」の成立と同じ過程をたどっていると考えられる。
396 淀川 野洲川 近畿地方整備局 琵琶湖河川事務所 二段式堤防(スーパー堤防) 堤防 19世紀代  守山市新庄の堤防は南北流の分派点、すなわち二本の細い川に分かれる非常に危険なところに位置している。いわば中洲ののど首にも相当し、ここが切れたら中洲のほとんどは浸水してしまう。
 明治29(1896)年9月7日、村人たちが寺の本堂に避難していた時、ゴウゴウという張り裂けるような水音とともに堤防が決壊した。この時は野洲川だけでなく、滋賀県中の川から水が流れ込み琵琶湖の水が溢れ、湖辺から水が押し寄せたため水位は屋根のひさしまで至ったという。
 洪水のたびに苦しめられてきた村人たちは、家や田畑を守るため、堤防づくりに励み、新庄では二段式、稲荷神社では二重式の堤防をつくり上げてきた。
397 淀川 野洲川 近畿地方整備局 琵琶湖河川事務所 六条堤 堤防 16世紀以前  かつて守山市の荒見の集落から湖岸まで延々5kmを越える六条堤が続き、それはあたかも万里の長城のような趣を呈していたという。村人たちはその堤を見るにつけ、幾度かの洪水にも耐え村を守ってくれたことに思いを馳せ、またそれをつくった先覚者に対する感謝の気持ちを禁じ得なかったことだろう。
 六条堤は法竜川の南400mに平行しているが、これは、鎌倉時代には大川であった野洲川分流の一つ、法西川の自然堤防を利用して作られ、野洲川南流の洪水から市内を守る受堤であったのである。
399 淀川 木津川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 囲堤・水防堤 堤防 19世紀代  安政6(1859)年〜文久3(1863)年。
 小田村の河道掘削によって出た土砂で4ヶ町村の囲堤を築堤する。安政6(1859)年に完成するが、その後2度の洪水で破堤した為、文久3(1863)年に石で固める修築工事が行われた。
419 淀川 服部川、木津川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 築堤・堀割り 堤防 19世紀代  安政2(1855)年8月20日〜21日、8月25日〜26日と2度の洪水が発生。築堤を行う。安政4(1857)年7月26日、8月19日の洪水で破堤した為、安政5(1858)年に河道掘削を行う。
 洪水で被害を受けたため築堤したが、その堤防も後の洪水で破堤したため河道掘削を行った。
431 淀川 宇治川 近畿地方整備局 淀川河川事務所 宇治川と巨椋池の分離 堤防 16世紀代  巨椋池に流入していた諸河川は水深が浅く、舟運に不便であった。そこで水深を保つため、槇島〜向島を結ぶ堤防を築き、河道を作成し材料を陸上げ運搬した。当時の築堤方法は、縄で堤防の断面を張っていきその縄にあわせて土を盛っていく方法であった。
433 淀川 淀川 近畿地方整備局 淀川河川事務所 茨田堤 堤防 16世紀以前  茨田堤は、淀川と古川の間の中州状の旧茨田郡(今の寝屋川市西半)の微高地を洪水から守るために作られた輪中堤のようなものであったと考えられている。
434 淀川 淀川 近畿地方整備局 淀川河川事務所 文禄堤 堤防 16世紀代  淀川下流の左岸は、当時は連続した堤防ではなく、淀川は本川の太間から古川沿いに至る派川などに分かれていた。豊臣秀吉は、左岸堤防を枚方から長柄に至る連続した堤防に作り替え、寝屋川、古川を淀川から分離し、河内平野を氾濫から守った。
 この堤防を文禄堤という。
445 加古川 加古川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 升田築堤 堤防 17世紀代  加古川の治水と新田開発を目的に江戸時代の姫路藩が加古川下流右岸に堤防を築いた。
 姫路藩主榊原忠次が万治元(1658)年に延べ36万人の農民を動員し、1ヶ月余で完成。新田開発は藩に利益をもたらせたが、出水のたびに堤防の修理、被害者救済が藩の年中行事のようになった。
 その後、度々の改修が行われ、加古川右岸堤となっている。
448 揖保川 揖保川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 余部千本松 堤防 17世紀代  揖保川河口に近い上余部村(姫路市余部区)において堤防強化として、元禄年間に名主岩村源兵衛が私財をなげうって松を植樹。
 元禄年間(1688〜1704年)、上余部村名主岩村源兵衛が堤防強化のため松の若木980本を植えた。
 明治中期まで「余部の千本松」として知られていたが、虫害により絶え、石碑のみが残っていたが、平成元年桜づつみ事業により余部千本松公園として整備されている。
451 千代川 千代川 中国地方整備局 鳥取河川国道事務所 胡麻土手 堤防 16世紀代  千代川左岸を治める鹿野藩の亀井城を度重なる出水から農地を守るため、慶長年間(1596〜1615年)頃に築造され、半石積堤で堅固であり、天端は元禄時代の参勤交代の街道としても利用されていた。
 千代川の改修計画では撤去されるが、保存を前提とした発掘調査等を平成2(1990)年より行っている。
454 天神川 小鴨川 中国地方整備局 倉吉河川国道事務所 二重土手 堤防 17世紀代  元和6(1620)年頃に藩の主要な施設を守るため、藩の改修事業として堤防を二重に築堤されたもので、延宝元(1673)年の大洪水には周辺の町は荒らされたが、二重土手の背後地は浸水を免れた。
 信玄流の築堤技術によってつくられたもので(推測であるが)、水衝部に堤防を二重に設け、洪水より町を守った。その形跡は現在残っていない。
455 天神川 小鴨川,国府川 中国地方整備局 倉吉河川国道事務所 一里薮堤 堤防    江戸時代前につくられたと推測されるが、いつ、誰の設計によってつくられたかは不明である。
 @土手をあまり高くせず、基底を広くかつ、堤上一面に竹を植え、密生させる。
 A小規模洪水は、この堤防によって水を防ぐ。
 B大洪水の場合は、水は堤防を越えるが広い竹やぶ林を通過することによって勢いがそがれ、家・田畑は冠水するが、流出はさせない。
 C言い伝えでは、高さ2m、横幅は11m(6間)あったといわれている。
 現在では河道も変わった箇所もあり、旧堤と推測される箇所には、竹林が残っている箇所もある。
460 日野川 日野川 中国地方整備局 日野川河川事務所 勝田(かんだ)土手 堤防 18世紀代  勝田町の東端の東山水泳場辺りにあった向山から、勝田山周辺にかけて築かれていた。享保年間(1716〜1736年)に荒尾氏によって米子城下を日野川の洪水から守る目的で築かれたもので、その規模は長さ160m、幅15m、高さ3.5mに及んだと伝えられている。日野川の堤防が整備されるにしたがって、その役目を失い住宅や公園、公民館等の用地として削られ、今ではわずか50mほどを残すのみである。残された土手も天端は畑になっており、かつての面影はない。
461 日野川 法勝寺川 中国地方整備局 日野川河川事務所 宗像(むなかた)土手 堤防 17世紀代  宗形神社の少し南の国道181号沿いの宗像公民館の西隣に堤防の痕跡らしきものが10mばかり残っている。宗像土手といって慶長11(1606)年に米子城主の中村伯耆守一忠(忠一)が、米子城下を法勝寺川の洪水から守るために兼久堤防の補助堤として築いたものである。
 宗像土手は加茂川をも塞いで今の国道181号と交差して築かれていた。加茂川には樋門が設けられ、兼久堤防が決壊すると樋門は閉じられ、加茂川の流れと共に堰き止められるようになっていた。宗像土手は幾度か小修繕をされながら約200年間米子の町を洪水から守ってきたが、弘化元(1844)年の洪水で兼久堤防が決壊した際、1週間にわたって濁流から米子の町を守り、副堤としての役割を果たしたものの遂には破堤し、その後復旧されることはなかった。加茂川の流路を遮断する治水方法には問題があるため、法勝寺川を戸上で日野川に合流させるように流路の固定が進められたことによるものであろう。
478 江の川 西城川 中国地方整備局 三次河川国道事務所 浅野堤 堤防 17世紀代  三次藩主浅野長治により堤防が取り組まれたものと考えられている。川原石を積み上げた物と割石を積み上げた物の2種類があり高さ1.5〜2.0m程度延長522mが確認されている。現在、長さ5mの堤防部分をモニュメントとして保存展示している。
497 佐波川 佐波川 中国地方整備局 山口河川国道事務所 霞堤 堤防 17世紀代  防府平野は、毛利藩が経済の建て直し対策として1600年代初めより始まった。開拓地として、経済・政治の中心部だったことから、上流部を霞堤に氾濫させておいて、遊水効果をもたらし、下流部の平野を守ろうと当時の人々が考えたと推察される。
 霞堤の特徴は、本川に入る支川の下流側に堅固な堤防を築き、下流を守るが反対にその上流は洪水の遊水池となる。そしてその遊水池で外水と内水との水圧の平衡を保って本堤を保護する。
 佐波川には、当時の霞堤とは判断できないが、霞堤は随所に残っている。
499 土器川 土器川 四国地方整備局 香川工事事務所 霞堤 堤防 19世紀代  急流河川である土器川は、ところどころに水の抜け道をつくって大洪水に対処すべく霞堤を整備してきた。現在も数カ所現存し機能ている。
511 吉野川 吉野川 四国地方整備局 徳島河川国道事務所 善入寺島(ぜんにゅうじとう) 堤防 20世紀代  善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500haの川の中でも最も大きい島である。
 吉野川第一期改修によって遊水地として全島買収される大正4(1915)年まで約500戸、3,000人が住んでいたが、これらの人々の犠牲によって下流の堤防が守られてきたともいえる。
 今でも島内には、当時の島民の生活を思い起こされる史跡が数多く残っている。
516 吉野川 吉野川 四国地方整備局 徳島河川国道事務所 藤森堤(三王堤) 堤防 19世紀代  原喜右衛門は、はじめ百姓たちに日当を払って掻寄堤を築かせていたが、工事中に水害で流されてしまう。残った土手に石が混じっていることに気づくと、今度は表面を玉石で覆うことを試みた。が、それも水の勢いには勝てなかった。最後に挑戦したのが石垣の堤防である。
 堤防は延長約600m、高さ4.5mであったという。貞光代官原喜右衛門は、見積もり違いと不調法のかどで切腹を仰せつけられた。
 ただ、この堤防工事によって貞光島の耕地が誕生するなど、貞光が大きな恩恵を被ったことは事実である。
 その後、明治26(1893)年には、自刃した原喜右衛門ら3名の功績をたたえて、三王神社という祠が建てられた。
522 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 万代堤 堤防 18世紀代  天明7(1787)年に着工し、5ヶ年を費やして完成した。
 阿波藩の命令を受けた古毛村の庄屋吉田宅兵衛が、私財をなげうって、1,070mの当時としては本格的な堤防を完成させた。
 当時の堤防は現在の堤防の位置にあり、当時の姿を見ることはできないが、現地に吉田宅兵衛を称える碑を建立し、年に一度「万代まつり」を行い、当時の労をしのんでいる。
562 仁淀川 仁淀川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 八田二重堤防 堤防 17世紀代  野中兼山の時代に至って堤防を築き、河川の整理を行い、次いで井堰を設け疎水を通じて平野に給水し、開拓事業を大成した。そのうち左岸においては、通常の水害阻止の堤防以外に壮大なる特殊堤防を築いた。
 これは水害防備上の通例を越えた、例外の平地に高く築いた二重堤防で、当所以外に見ることのできないもので仁淀川氾濫の非常時に備え、また、開墾地保護の一策とした。
 現在も二線堤として機能し、本堤の漏水対策の一助としてある。
563 仁淀川 仁淀川,波介川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 宮崎水越(越流堤) 堤防 19世紀代  寛文6(1666)年の洪水の際、乱流する仁淀川本川は一気に用石の沃野を突っ走り荒川域(古川)をつくった。ここが自然に波介川最下流としての役割を持っていたが、人工的に水越(越流堤)をつくり、波介川の合流点を用石下の谷に固定。これにより、合流点の水位差を大にし、上流低地の滞水の被害を減少させた。現在は堤防の改修が進み、昔の面影は残っていない。
591 六角川 六角川 九州地方整備局 武雄河川事務所 永池の堤 堤防 16世紀代  今からおよそ400年ほど前、六角川は有明海が満潮時に海水が上流の29km付近まで上がり、その水が塩分を含んだいるために、田圃の水としては使用が困難であった。
 そこで水を田圃に供給するために、成富兵庫茂安がつくった三段式の堤が永池の堤である。
 水を堰き止めるために、水を通さない粘土でハガネをつくり、周りを土で固めたものである。また永池の堤の水を白石、福富町まで送られるように考えられている。
 現在もその役割を果たしている。
594 六角川 牛津川 九州地方整備局 武雄河川事務所 横堤 堤防    その地区より上流側の堤防越水による浸水被害等が、頻繁に生じていたため、下流の民家などへの被害軽減を図るためのもの。
 その地区の堤防整備がほぼ完了したため、堤体は撤去され記念碑が建っている。
602 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 千栗堤防 堤防 17世紀代  千栗堤防は、三養基郡北茂安千栗神社と三根町坂口を結ぶ筑後川右岸(約12km)に、洪水から佐賀藩の領地を守るため、成富兵庫茂安が佐賀藩による支配体制のもと築いた堤防である。
 千栗堤防は、河岸の汐土居(内土居)と堤内地(外土居)の二重堤防とし、これに囲まれる広大な高水敷により構成される。千栗堤防の効果は絶大であり、佐賀平野下流部の開発に大きく寄与した。築堤以来破堤その他損傷がほとんどなく、昭和初期まではその原形をとどめていた。
 流路に沿う堤防強化に伴い、千栗堤防は完成当時の姿を消していった。現在は、公園として、堤防の一部が復元されている。
603 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 安武堤防 堤防 17世紀代  安武堤防は、久留米市安武町(本川左岸)に、久留米藩領地の洪水防御のために築堤されたものである。
 かすみ堤による不連続堤とすることで、支川流入と上流からの氾濫を戻したり、遊水地的な効果を持たせた。
 現在では、筑後川左支川金丸川(筑後大堰上流)に安武堤防の一部が残っている。
606 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 デ・レイケ導流堤 堤防 19世紀代  デ・レイケ導流堤は、筑後川本川河口から早津江分派までの約6kmに位置し、筑後川本川河口から早津江分派地点まで川のほぼ中央に石組みの導流堤が断続的に設置されている。明治時代の重要な輸送手段であった船の航路確保を目的として設けられた堤防である。
 流路を固定することにより、本川左岸側に土砂が溜まるのを防ぎ、航路(船の通るみちすじ)を保つ。なお、完成から100年以上経った現在でも、航路確保の役割を果たしている。
615 筑後川 城原川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 野越 堤防    野越しは、城原川等に設置されており、堤防の一部を故意に低くすることにより、洪水がある危険な高さに達するとその一部を堤内地の遊水地(水田や耕地等)に自然に溢れさせ、下流市街地等を堤防決壊による壊滅的な氾濫被害などから守る目的でつくられた。
616 筑後川 宝満川・安良川・巨瀬川、佐田川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 二線堤・霞堤 堤防    霞堤は、三井郡北野町、大刀洗町他に設置されており、下流市街部を守るため、1つの堤防が破堤しても下流に被害が広がらないように、幾重にも平行した堤防がつくられた。
625 菊池川 菊池川 九州地方整備局 菊池川河川事務所 久津輪塘 堤防 16世紀代  加藤清正の河川事業。
 本来の堤防の外側に半円形の遊水池を設け、洪水であふれた水をここで制御したもの。
628 菊池川 旧菊池川(現唐人川) 九州地方整備局 菊池川河川事務所 石塘 堤防 16世紀代  加藤清正の河川事業
 石塊を積み上げたものであり、石と石の隙間は当然水が流れている。しかし、有明海が満潮の時には、あがってくる海水と上流から流れてくる川の水が石塘のところで滞留し、待ち合いの状態になり、海水が石塘より上流には流入しない仕組みになっている。
635 緑川 緑川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 大名塘 堤防    清正入国のころの御船川は現在の嘉島村六嘉の東方を廻って木山川とともに江津湖の末流鳥貝、渡付近で加勢川に合流していたようである。それでは新設の加勢川堤防に負担がかかりすぎると考えたためか、清正は御船川の河道を掘り替えて、西方嘉島村上島の南端に導き犬塚山の西北麓で緑川の本川に合流させ、八龍塘によって嘉島村六嘉地区および赤井川、木山川江津地区(熊本城下町)の氾濫を緩和させた。
 このようにして御船川と緑川の合流点は替えられたが、この合流による大氾濫を防ぐため八龍塘、大名塘以下の大堤防および城南町杉上一帯の轡塘等の大規模な霞堤を築き、さらに川尻付近において加勢川を合わせて有明海に注がせた。
 当時の肥後国では霞堤の技術はなかったわけで、清正によってもたらされたのである。
 ところで、霞堤をなぜ轡塘と称したかということであるが、馬につける轡のように一部が切れて輪になっていることから称するようになった。
639 緑川 緑川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 桑鶴のくつわ塘 堤防 17世紀代  加藤清正が最も多用した洪水軽減工法に轡塘がある。河川の合流点や水あたりの激しい部分に造られた遊水装置で、護岸の塘である本塘とは別に、川の中央に枝塘を造り、通常はここに水を流す。しかし、いったん洪水の場合はこの枝塘・本塘間の広い地帯を遊水地にして被害の拡大を防ぐというものである。
 桑鶴塘は、緑川と御船川が合流する地点の左岸一帯に設けられた。遊水池の範囲は城南町築地から坂本・千原・永・丹生宮に至る広大なものである。
 こうした塘に囲まれた遊水地は洪水防止の他に、もう一つ利点があった。それは、出水のたびに上流から肥沃な土が運ばれてくることである。よって平時は生産力の高い田畑として利用されている。
640 緑川 加勢川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 清正堤(江津塘) 堤防 17世紀代  緑川の支流である加勢川は矢形川、木山川、沼山津川、江津湖などの水が落ち合うところで、さらに清正以前は現在の流路と違って御船川までも合流しており、常に出水、氾濫を繰り返す沼地のようなありさまであったという。嘉島町の鯰という地名は大昔、阿蘇湖の大鯰が流れ着いた伝説に由来するといわれているが、当時それほどの湿地帯であったことを指している。また、加勢川一帯は有明海からの海水も入り込んでおり耕地化は困難であった。
 そこで、清正は有明海からの海水と加勢川からの流水の侵入を防ぐため、江津湖から川尻の野田に至る加勢川右岸沿いに長い堤防を築いた。これが江津塘とも呼ばれる清正堤である。
641 球磨川 球磨川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 萩原堤防 堤防 17世紀代  八代城主加藤右馬允正方は、元和5(1619)年から2年半を費やして八代城を築城したが、それと時期を同じくして築造したものと伝えられ、遥拝堰の取付部、古麓町の山際よりから城北の松浜軒にいたる延長6,190m大土堤であった。堤防に松を植えさせたので松塘とも呼ばれ、八代城下を洪水から防御するために築かれたものである。
 このうち水衝部にあたる現在の新萩原橋付近から上流は、特に萩原堤と呼ばれ、7ヶ所の強固な不透過水制「はね」を備えた半環状の大塘である。巧妙な水はね水制は、それぞれ堤脚取付部の角度を少しずつ変え、洪水時の激流をいずれも流心部へ跳ね返すよう工夫されている、石張りの強固なものである。
 萩原堤は、宝暦5(1755)年の大洪水で10町余(約1km)にわたり破堤したが、八代郡目付の稲津弥右衛門が陣頭指揮をとり復旧し、天端幅約13m、基礎幅約45m、水面からの高さ約9mの堤防とした。人々は「あのや稲津様は仏か神か死ぬる命を助けたも」と歌い、弥右衛門の功績をたたえた。
 現在は、直轄河川改修により裏腹付け、川表護岸が施工され、八代市を守る堤防として重要な役割を果たしている。
663 山国川 山国川 九州地方整備局 山国川河川事務所 金谷大築堤 堤防 17世紀代  慶長9(1604)年、細川三斎(忠興)によって工事が行われた。
 中津城南にある金谷地区で、分流する大家川の入口の締切工事を行うとともに、延長1kmに及ぶ金谷大築堤を設けたものである。城下の洪水を防ぐとともに、締切られた流路を埋め立てて、幅6kmほどの外掘として利用した。
 城下の洪水の防御が可能となり、現在に至る。
687 山国川 中津川 九州地方整備局 山国川河川事務所 三百間の堤防 堤防 18世紀代  享保2(1717)年頃、中津藩主、奥平昌成が築堤。
 中津川河口に三百間の堤防を築造。築堤により、文政12(1829)年に角木新田が開発され、現在に至る。
688 大分川 大分川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 「土手長さ四町」の築堤 堤防 16世紀以前  鎌倉時代の大分川は、明磧橋上流付近から奥田より左に流れ、古国府の南から元町付近に流れ込んでいたといわれる。古国府の南には、豊後の国府があったとされ、この地を守るために「土手長さ四町」の築堤が行われた。
 位置・規模等は未詳。
 現在の大分川の流路は、昔の大分川に比べて大きく変わり、かつての国府の跡は、大分川よりかなり離れた位置にある。
691 大分川 大分川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 賀来地区の築堤 堤防 20世紀代  大分川の改修工事は、明治年間に賀来地区などで堤防を築いたという記録が残されている。
 全川にわたる大規模なものではなく、部分的な改修工事であった。
 当時の痕跡はとどめていない。
692 大分川 大分川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 享保の改修 堤防 18世紀代  享保13(1728)年8月3〜4日に洪水被害が発生し、府内藩日記や三浦家年代記抄などによれば、ある程度の改修工事がなされていたものと判断される。
 上記文献によれば「井手211間・井堰116間・土手129間・田畑岸257間・川除柵285間」などと記されている。
 享保の改修箇所は不明である。
693 大分川 大分川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 県営による改修 堤防 20世紀代  明治26(1893)年および大正7(1918)年の大洪水に基づき、昭和5(1930)年に県営工事として着手し、本格的な改修工事が行われた。
 滝尾橋地点から河口までの区間にわたって、築堤や護岸などの工事が行われたが詳細は不明である。
709 大野川 大野川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 塘手再築 堤防 17世紀代  万治元(1658)年:「塘手再築の議ありて…」という記録あり。
 慶安3(1650)年:小規模ながら各所で築堤。
 洪水防御に対して、小規模ながら各所において築堤されていた。
710 大野川 大野川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 高田村の輪中 堤防 17世紀代  高田村志によれば、寛永元(1624)年〜慶応元(1865)年までの240年間に30回、明治から大正4(1915)年までの48年間に18回の洪水被害を受けている。従って、古くから洪水時に備えて、屋敷には石垣を築き、1〜2mの盛土をしてその上に家を建てている。
 鶴崎市南部の高田は大野川本流と分流乙津川に囲まれ、南北3km、東西1km、面積3.5km2の輪中である。
 輪中とは低湿なデルタ地域で、洪水を防ぐためにつくられた堤防に囲まれた地域である。
716 大野川 大野川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 昭和初期の改修 堤防 20世紀代  昭和3(1928)年:河川法の適用を受ける。
 昭和4(1929)年:施工準備、測量に着手。
 昭和5(1930)年:土地買収・掘削・築堤。
 掘削・築堤工事を開始したが国庫財政の都合上、工事費減額や施工年度延長があったり、また日華時変に遭遇してさらに予算の繰り延べ、施工年度の延長があり、77%の完工を見たところで昭和18(1943)年9月の大洪水が発生した。
743 大野川 乙津川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 乙津川の築堤 堤防 19世紀代  明治時代。乙津川に水害防備林の竹林や堤防を設けた。しかし、延長や高さもわずかなものであった。
759 小丸川 小丸川 九州地方整備局 宮崎河川国道事務所 佐久間土手 堤防 19世紀代  江戸時代中期以後の小丸川の治水の歴史を示す。
 佐久間土手は史実に残るものである。
 各種資料を裏付けるものとして佐久間土手の名称が残る。
 佐久間土手の上に現在、小学校がある。
766 川内川 川内川 九州地方整備局 川内川河川事務所 長崎堤防 堤防 16世紀代  川内市高江町の長崎新田は、かつてろくに米も取れない潟であった。第19代薩摩藩主島津光久は小野仙右衛門を普請奉行に任じ、この地の大規模な干拓工事を命じた。工事は延宝7(1679)年に着工、8年後の貞享4(1687)年に竣工した。長崎堤防は、この工事の中で苦心の末造られたものであり、堤防の長さは360間(約640m)、形状は鋸の刃のような形をしている。また、仙右衛門は工事を完成する際、一人娘(袈裟姫)を人柱としたと伝えられている。




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