水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


鵡川の歴史

川を中心にまちや産業が発展
 鵡川の流域には、考古学的な遺跡の発掘によって相当古い時代からアイヌの人々が定住していたと想像されています。明治時代の地名が全部アイヌ語で続一されでいることなどから、この地域がアイヌの人々の生活圏として広く利用され、また、近世までアイヌ文化が維持されてきたものと考えられます。
 流域への和人の入地は、河口に位置する旧鵡川町が早く1800年で、上流に向かう程遅く、旧穂別町が1800年代の後半、占冠村が1900年代となっています。
 以後、肥沃で温暖な鵡川の流域では、明治初期以降、鵡川の豊かな水を活用し開田を進め、特に下流の平野部は道内指おりの稲作地帯として発展しました。また、明治後期では川を利用して河口まで木材を流送するなど林業も発展しました。
 今ではその豊かな水を活用した4,000haにも及ぶ、水田が広がり、緑の大地では放牧された牛・馬が草を食む姿もが見られます。また、漁業・農林業・鉱業などの開発も進んで、現在の鵡川・穂別・占冠などの集落が形成され、地域の行政・経済の中心として発展してきました。



汐見地区のコタン〔大正末期〕(鵡川町史)

原木の流送風景〔大正末期〕(新穂別町史)



治水事業の沿革
 鵡川の河川改修は大正時代に小規模な護岸工事に始まり、戦後の昭和26年に本格的な治水対策に着手しました。
 治水計画は、昭和25年に計画高水流量を鵡川基準点で3,600m3/sとする計画を策定した上で、昭和26年には直轄河川改修に着手し、河口から似湾川合流点までの区間について改修を進めてきました。しかし昭和36年7月洪水、昭和37年8月洪水による大きな被害を受け、昭和38年に新たに似湾川合流点から穂別市街部までの区間の改修に着手しました。
 昭和42年に一級河川に指定され、計画高水流量を鵡川基準点で3,600m3/sとする工事実施基本計画を策定しました。
 平成9年の河川法改正に伴い、鵡川水系河川整備基本方針を平成19年11月に策定しました。この基本方針では、昭和42年鵡川水系工事実施基本計画の流量を検証したうえで、基準地点鵡川においては基本高水のピーク流量を3,600m3/sとしました。



護岸工事(昭和27年)

馬トロによる築堤盛土(豊城築堤)(昭和26年)





ページの先頭に戻る