水管理・国土保全

  

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神流川の歴史


神流川の源は、群馬、埼玉、長野の県境が接する三国山にその水源を発しています。
 かつてこの地域では、木材の供給が盛んで、神流川本谷と呼ばれる流域にまで、森林軌道が敷かれ、戦前から戦後にかけて多量の木材を都市圏に供給していました。その当時は、本谷の最奥の地に上野村分校が開かれ、現地で集材に関する人々や児童でにぎわったこともありました。
 烏川と神流川の合流点は、歴史上昔から現在に至るまで、重要箇所となっています。
 天正10年(1582)、織田信長が本能寺の変にたおれた直後、関東管領として北関東を制圧していた厩橋城(いまの前橋)城主滝川一益は、上州軍を率いて京都に上ろうとしました。これに対して小田原の北条氏直、武州鉢形城主北条氏邦の連合軍が阻止しようとし、滝川軍18,000と北条軍56,000が激突しました。戦場は現在の神流川付近が中心となったので、この戦いを「神流川合戦」と呼んでいます。
 戦いは北条軍の勝利におわり、滝川軍は斬首約3,760余級(豆相記)と伝えられています。「氏直、検視し此の地に埋蔵す、よって首塚の名あり(口碑)」岡之郷にはその胴塚があり、首実見したこの地を実見塚(字名)といいます。
 現在でも、新町ふるさと祭りにおいて、この勇壮な歴史絵巻が再現されています。
 江戸の当時、上里町には上州と武蔵の国を分ける、神流川の渡し場が開設されていました。川には橋を架けない政策があったため、川の向こう岸に行くことは困難でありました。英泉の浮世絵からも、半分橋が架かっていて、残りの半分を渡し船で渡っていた様子がうかがえます。


神流川合戦





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