水管理・国土保全

  

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相模川の歴史

流域の生活を支えてきた相模川 その生い立ち
相模川のなりたち
 約600万年前に海底火山の島だった丹沢が日本(本州弧)にぶつかり、その境目に挟まれた海がやがて今の相模川になりました。名前の由来は、大化改新で、「相模の国」と呼ばれたことから名付けられました。
 むかしから鮎が多くいたので「鮎河」と呼ばれて人々に親しまれ、また、鮎漁を通じて暮らしに深く関わってきました。江戸時代からは相模川は多摩川とならんでアユの名産地とされ、将軍家への「献上鮎」として江戸本丸城に上納されていました。




「富嶽三十六景 さがみ川」歌川広重



相模川の舟運と渡し
 戦国時代に開かれた舟運は、江戸時代になると盛んになり、木材の運搬などに広く利用されました。また、江戸時代には幕府が街道整備に力を注ぎ、相模川のように川幅の大きい河川は、防衛上架橋せず、関所と同じように検問所としての役割を担っていました。そのため、相模川には多くの渡し(渡船場)が設けられ、公用、私用で移動する旅客や物資輸送には様々な渡船が活躍していました。


舟運が栄えた当時の須賀湊


馬入川の渡し図 三代目歌川広重(相模川下流)


砂利採取
 大正時代から砂利の採取が始まり、戦後の復興期には、乱掘されました。特に昭和30年代には、東京オリンピックに向けて建設ラッシュの首都圏の建設資材として、相模川からも多量の砂利が採取され、経済発展を支えました。砂利採取により相模川の河積は拡がり、洪水被害の軽減に寄与した一方で、河床の大幅な低下による橋梁基礎の露出や河川環境への影響が生じました。昭和39年(1964年)には、砂利採取が全面禁止となりました。


戦後復興期の砂利採取


砂利採取により橋梁基礎が露出して倒壊寸前の状況(旧相模橋)

水資源として利用されてきた相模川
 相模川の水源は、地質的に見ると火山礫などで構成された透水性が良く、加えて全国でも有数の樹林地帯です。このため川に流れ込む水の量は比較的安定しており、水質も極めて良好です。この水は、我が国初の近代水道の水源として早くから利用されており、横浜の水道は、「世界一おいしい水」と言われるほどでした。
 その後、増加を続ける神奈川県の水需要に対し、相模ダムや城山ダム、宮ヶ瀬ダムが造られ、農業用水や発電用水、水道用水、工業用水などに幅広く利用され、流域の生活を支えてきました。



相模ダム(昭和22年竣工)


宮ヶ瀬ダム(平成12年竣工)












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