今から約280年前(江戸時代中期)の阿賀野川は、河口部より西に折れて信濃川と合流して日本海に注いでいましたが、新発田藩の水田開発を目的とした放水路の開削により、現在の阿賀野川の河口が形成されました。
開削当時は洪水防御と水田排水が目的でしたが、翌年の融雪洪水で堰が破壊され、放水路が阿賀野川の本流になってしまいました。
結果として阿賀野川下流域は水田地帯として栄えることとなり、鉄道や道路交通が発達していなかった江戸~明治時代には、新潟港から会津方面への物資の輸送路として舟運が大きな役割を果たしてきました。また、長さ23mの大揚川船(おおあがわぶね)と呼ばれる帆船が阿賀野川を往来して活躍しました。