水管理・国土保全

  

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信濃川下流の歴史

人と文化を運んだ信濃川と先人達のたたかい
暮らしの川
信濃川の流域に住む人々は、信濃川を通じて移動しました。
 陸路の交通より水運がより多くの荷を運べる時代には、川は水路として大量の年貢米を運び、上流域でとれた山の幸を下流へ、下流でとれた海の幸を上流へ送るという大きな役割を果たすため幕府にとっても各藩にとっても貴重な存在でした。
 集落もまた、川に沿い、商工業の中心も川にのぞみ、流れを利用した舟運を行うなど大河に大きく関わり、水運から多くのものを得ました。信濃川を利用する舟運の特徴は、新潟湊の発展と年貢米の移送に関連して系統立てられ整備されてきたことにあります。川港にはさまざまな商品が舟で運ばれ、商業の拠点として市が開かれると、川港は大いに賑わいました。
 新潟の町づくりは、長岡城主堀直寄の構想にはじまります。古町、本町通りに続いて信濃川から掘り割った東堀、西堀等の川端にできた商店街、信仰を集めた寺町が中核となり新潟の町づくりは信濃川の舟運と新潟港の発展につれて進みました。


明治の三条市付近(出典:信濃川下流紀行)



低湿地での舟農業
新潟といえば米どころです。江戸時代に新田開発が盛んに行われた信濃川下流域でも、海抜ゼロメートルの低湿地帯での農耕はまさしく水との戦いでした。
 洪水の時だけでなく、通常の状態でも潟や低湿地が広がるこの地域では、田とは名ばかりの芦沼に腰までつかり、舟を押して稲を刈り運ぶなど「舟農業」と呼ぶにふさわしいものでした。


泥田の様子(本間喜八氏撮影)



実りを求めて
人々は度重なる水害に苦しみながら、肥沃な沖積地である低湿地を開拓し、泥田をつくり阿賀野川を分水し堤防をつくって洪水の氾濫を防ぎ、人工の水路を築造して芦沼を田に変える人々の努力は、厳しい条件の中で「農林1号」から「コシヒカリ」といった米を生み出しました。
 環境が一変したのは、大河津分水工事が完成してからのことです。洪水のたびに水害を起こしていた信濃川は穏やかな川となり、排水による乾田化で川沿いの耕地は美田に生まれ変り、腰までつかって稲刈りをしていた田も、大排水機場の建設によって乾田となると機械化も進み、昔に比べ2倍から3倍の増収穫となった下流域は豊穣な土地となり、日本の代表的な穀倉地帯となりました。


稲穂が広がる越後平野


先人の知恵
信濃川下流域では、明治の初期に関東で初めて使用されたと云われ、その後、全国で採用されながら、資材の供給が困難だとして減少しつつある河川工法「粗朶沈床」が現在でも広く使われています。
 粗朶沈床は、自然の山に繁殖している雑木を用いて組み立てたものを護岸の根固めなどに使用する工法で、洗掘防止、水生生物の棲息場として優れた伝統工法です。


粗朶沈床













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