水管理・国土保全

  

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神通川の歴史

県都富山市の発展と共に歩んだ神通川
神通川の浮城と言われた富山城
富山城は、天文2年(1543年)武将神保長職により神通川の南東(自然堤防の微高地)に築城されたと考えられており、当時の神通川の川幅は弓矢で射超すことができない幅と言われています。また、神通川の南東に城下町が建設されており、神通川やいたち川、四ッ谷川を富山城の外郭防護線として考えていました。


船橋及び築城当時の構造物・内堀の位置



江戸時代に架けられた船橋
江戸時代には、河川に橋を架ける事は難しくありませんでしたが、神通川には慶長元年(1596年)前田利家が創らせたのが始まりといわれる舟橋が架けられました。川に浮かべた52艘の舟を太綱で繋ぎ、その上に木の板を3枚ずつ並べて人を通らせました。その後、七軒町(古くは七間町)のあたりに架けられました。太綱は激しい流水により鉄の鎖2本になり、舟も64艘になりましたが、橋から落ちる人が絶えず、板は5枚に、さらに7枚と増やされていきました。


越中富山神通川船橋之図(松浦守美 画)


六十余州名所図会船橋

馳越線工事(流路の新設)
改修事業は、明治30年(1897年)から32年(1899年)にかけて富山県事業として行われた神通川旧川の川幅拡幅工事に始まります。
 明治34年(1901年)から36年(1903年)にかけては河口から6km~8kmにかけ大きく東に屈曲して(現在の松川、いたち川の川筋)流れていた神通川をほぼ直線で結ぶ馳越線(はせこしせん)新設工事(国庫補助率33%)を実施しました。これは、U字型にカーブした流路を直線化するもので、工事直後の馳越線の水路幅は2mしかなく洪水のたびに新しい水路に流水が流れ込み、その勢いで少しずつ川幅を広げていきました。
 その後、大正3年に起きた洪水では、ついに旧神通川にはほとんど流水が流れなくなりました。当時、架設された神通大橋は、流水により川幅が広げられることを見越して、長さ410mの橋を建設しました。


馳越線工事(流路の新設)


昭和初期の神通川廃川地の様子(所蔵:富山市郷土博物館)

富岩運河開削
桜の名所としても知られる松川は、神通川本流だった頃の名残となっています。なお、旧神通川川地跡には県庁、市役所、NHK、教育文化会館等の多くのビルが建設されました。船橋の両岸にあった常夜燈が当時の川幅を物語るように、今も静かに通りを見守っています。
 大正7年から昭和12年度にかけて 内務省直轄事業の神通川改修工事として、上流から運ばれる土砂で港が埋まるのを防ぐために神通川河口と東岩瀬港を分離させました。河口から上流2kmまでの川を西に移動させ、今まで川の左岸だった堤防を右岸の堤防として利用し、さらに海に突き出た突堤により土砂の入り込みを防ぎました。
 この工事の中で、東岩瀬港の修築にあわせて神通川右岸沿いに富岩運河が開削され、その掘削土を有効利用し旧神通川跡地が埋立てられました。


常夜燈


富岩運河環水公園





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