水管理・国土保全

  

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庄川の歴史

庄川治水の歴史
庄川の名前の由来と藩政時代の河川改修
 庄川は、古く雄神川と呼ばれていました。これは、砺波市庄川町の鉢伏山麓にある雄神神社が由来だといわれています。雄神神社のまわりの地域を「雄神の庄」といい、そこを流れていたために「雄神庄川」とも呼ばれていました。のちに、「雄神」がとれて庄川と呼ばれ、現在に至っています。
 寛文10年(1670年)、加賀藩では、高岡を中心として急速に開発が進んでいる砺波平野を水害から守るために、千保川をはじめ、野尻川・中村川・荒俣川等のいくつかの分流を扇頂部の弁財天社前(砺波市庄川町雄神橋付近)で一本の流れにする工事を始めました。堤防は長さ2kmにもわたり、44年の歳月と、延べ100万人をこえる労力を費やして、正徳4年(1714年)に完成しました。堤防が流されないように松の木が数百本植えられたことから「松川除(かわよ)け」と呼ばれるようになりました。現在でも、雄神橋上下流の堤防(弁財天付近)でその名残りの松を見ることができます。


昔の川筋のあと


松川除け


直轄河川改修に着手
近代的な河川改修が行われたのは、内務省直轄工事として実施された明治16年(1883年)からで、小矢部川合流地先付近から下流に低水工事が施されています。しかし、明治19年(1886年)に一時工事が中止されています。
 その後、明治33年に富山県最初の直轄河川に認定されてから改修事業が本格化し、新水路開削による小矢部川との河口分離・河口から二塚村(現高岡市二塚)付近までの川幅の拡幅に着手し、大正元年に完成しました。しかし、昭和9年7月11日の梅雨前線出水で、死者20名、流失家屋94棟、民家破損5,418棟という未曾有の大災害を被ったため、この洪水を契機として昭和15年に抜本的な改修工事に着手しています。


河口分離工事平面図


河口部(左:庄川、右:小矢部川)



戦後の河川改修
昭和15年(1940年)から15ヶ年継続の直轄事業として、砺波市庄川町から河口までの24.2km 間で改修事業が計画されましたが、第二次世界大戦により改修工事は進捗せず、本格化したのは昭和24年(1949年)頃からです。
 その内容は、庄川本川、支川和田川(下流4.6km)の築堤、河道掘削による洪水防御などのほか、和田川の河道改修、常水路の固定による乱流の防止、河川全域にわたる護岸・水制の設置などでした。また、昭和18(1943)年から同34年(1959年)にかけて、タワーエキスカベーターによる大規模な河床掘削と築堤を実施しました。
 庄川沿川の高岡市、砺波市等の市街地化が著しく進んでいることから、洪水被害のポテンシャルは増加の傾向にあり、地元住民から抜本的な治水対策が強く望まれ現在も改修事業が進められています。


タワーエキスカベーターによる河床掘削






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