水管理・国土保全

  

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木曽川・長良川・揖斐川の歴史

お囲い堤と輪中

慶長13年(1608年)に尾張の国を洪水から守るため、木曽川の左岸にある愛知県の犬山市から弥富町までの約47kmに徳川家康の命令により大堤防「お囲い堤」が築かれました。水害から尾張の国を守るだけでなく、大阪城に余勢を保つ豊臣秀頼をはじめ、西軍大名の侵入を防ぐ意図もあったといわれています。尾張藩は対岸の美濃側に「美濃の堤は尾張の堤より3尺低かるべし」とし、大堤を造らせないようにしました。そうすることで、洪水が起こった場合、堤の低い美濃側へと水がなだれ込み、家康のいた尾張側はお囲い堤により守られたと伝えられています。それに対抗して、右岸の美濃側では自衛手段として輪中を築くようになりました。


お囲い堤と輪中


お囲い堤(現在の様子)



宝暦治水

宝暦3年(1753年)の大洪水の後、水害に苦しむ人々の申し出を受け、徳川幕府は薩摩藩に木曽三川の治水工事を命じました。宝暦4年、平田靭負を総奉行とする947名の薩摩藩士が美濃に派遣され、いよいよ宝暦治水の開始です。ほぼ下流部全域におよび、なかでも油島締切り工事、大榑川洗堰工事(おおぐれがわあらいぜきこうじ)、逆川洗堰締切り工事は最も難しいといわれる工事でした。途中、工事計画の変更や大雨により工事をやり直すことも度々で多額な費用を費やしましたが、ついに宝暦5年(1755年)5月に工事完了。しかし、工事中51人の割腹者と33人の病死者を出したことと、多額の借金を出してしまった責任を負い、総奉行の平田靭負は割腹自殺をとげたといわれています。日本の治水事業の中で最も困難な工事と言われた宝暦治水。木曽三川の完全分流には至らなかったのですが、治水の先駆けともいえる工事だったことから、今でもその偉業がたたえられています。


油島締切り(千本松原)


大樽川洗堰図



明治改修

明治時代になり、政府は河川・湾岸事業に外国の新技術を取り入れるため、オランダから技師ヨハネス・デ・レーケを招きました。淀川の砂防工事をかわきりに日本各地で河川改修や湾岸計画に従事。木曽川の明治改修では、まず現地調査を行い、明治20年(1887年)から本格的な三川分流工事がデ・レーケの指導のもとに始められました。4期に分けて施工された工事は、明治44年(1911年)に完成。長年望まれていた三川分流の願いがついに叶えられ、
デ・レーケは日本の河川・湾岸事業に大きな功績を残しました。


明治改修計画図


明治改修で分流された木曽川(右)と長良川(左) 中央は背割堤



大正改修

大正時代の木曽三川上流部は河川の湾曲が激しく、川幅も広いところや狭いところと定まらず、堤防も劣弱でした。大雨が降るたびに各河川は破堤、越水し、地域の人々に大きな被害をもたらしていました。こうしたことから上流部の改修を求める声が高まり。大正10年(1921年)に木曽川上流改修に着手しました。各河川の川幅を定め、狭いところは引堤を行い、湾曲の激しい箇所は流路を直線に近くする整備を行いました。
木曽川においては、川島村(現各務原市川島)の乱流区域の改修を行い、洪水時の主流を本川に導き、異常出水の時には南派川、北派川に分流するようにしました。長良川においては長良福光から岐阜市江口に至る区間で、古川、古々川の派川を分派口で締切して、すべてを本川に流すこととしました。


木曽川上流部の改修


長良川の改修(現在の様子)

ゼロメートル地帯
昭和30~40年代の高度経済成長期に地下水の汲み上げの増大にともない生じた急激な地盤沈下により、木曽三川の河口部を含む濃尾平野は、海抜ゼロメートル以下の面積が日本一となってしまいました。この様な状況を考慮しつつ、平成の改修として高潮堤防を含む堤防整備と浚渫などの工事を実施してきました。


木曽岬町の井戸の抜け上がり状況









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