水管理・国土保全

  

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熊野川の歴史

川のみち 熊野川
あらゆる人々を受け入れる聖なる地・熊野
深く険しい山々が幾重にも連なり、その山間を縫って幾筋もの支川を集めながら近畿地方最長の熊野川が流れる聖地、熊野。近寄り難い厳しい大自然のこの地に、人々は神々を見いだしました。平安時代以降、日本全国から様々な人々が惹きつけられた熊野三山。

「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの多くの人々が訪れたのは、熊野の神が悩みや苦しみから人々を解放し、さまざまな願いをかなえてくれると信じられてきたからです。

また、老若男女、身分や貧富の差などを問わずあらゆる人々を受け入れる包容力に魅力を感じたからではないでしょうか。その包容力は自然崇拝、浄土信仰、密教、修験道といった多神教的な性格によるものと思われ、それらを融合しながら独自の宗教世界を生み出してきたといえます。


熊野川にかかる雲海


紅く染まる熊野川


熊野三山と聖なる地・熊野
熊野三山と総称される熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。もともとはそれぞれ独自の信仰を持っていたようです。三社の信仰の起源はそれぞれ自然崇拝からはじまったのではないかと考えられますが、特に熊野本宮大社と熊野速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があったと思われます。熊野本宮大社はもともと大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座しており、熊野川を神聖な場所として崇(あが)め、洪水鎮圧のために祀(まつ)っていたのではないかと考えられます。

また熊野速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから、川を神として崇敬し、かつ川のはん濫を鎮める役割を担っていたのではないかと考えられ、速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係がうかがえます。さらに速玉大社の例大祭である御船祭は、熊野川河口から約3km上流に位置する御船島を神の宿所として、その周囲を神幸船で回ることにより魂を鎮める神事とされています。このことからも熊野川は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきました。

そして、熊野三山は、地理的に近かったことと、いわゆる本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)(仏や菩薩が人々の救済のために神の姿を借りてこの世に現れたという考え方)に基づいた神仏習合の思想の影響を受けて、互いに神仏を祀り合い、関係を深めるようになり、巡拝が行われるようになりました。


熊野本宮大社


熊野速玉大社


地域の暮らしをささえてきた熊野川
河川の利用については、舟運が古くからあり、中世(平安~鎌倉時代)の熊野御幸にはじまり、江戸時代に入ると流域の材木の筏流しや炭、農作物の運搬における三反帆などの舟運利用が活発となり、その後、プロペラ船も活躍し、昭和初期まで続いていました。昭和30 年代に国道の開通やダムの建設により、舟運は衰退していきましたが、観光船などに形を変えて利用は続いています。
河口付近の右岸にある池田港は、熊野詣における伊勢路からの参詣で熊野川を渡る「鵜殿の渡し」があった場所で、昭和10 年の熊野大橋仮設後も「池田の渡し」として残りました。幕末には丹鶴丸(洋式軍艦)が建造され、明治から大正時代には、材木や木炭輸送の拠点として活況した港でもあります。




<昔の熊野川河口の様子>熊野川河口と池田港〔大正初期〕

流域の人々の交易拠点・川原町
現在の新熊野大橋付近には、かつて川原町と呼ばれた町が存在し、現在の新宮市船町(熊野速玉大社の前面)あたりの川原に、最盛期には200軒を超える家が建っていたと言われています。川原には3本の道路が造られ、その道路の両側に軒を並べるようにして町が形成されていました。町には、宿屋、鍛冶屋、雑貨屋、米屋、銭湯、理髪店、飲食店、履物屋などがあり、上流から筏を流してきた筏師や川舟の船頭たちで賑わっていたようです。

興味深いのは、これらの建物すべてが容易に組み立て・解体ができる構造になっていたことです。「川原家」(かわらや)と呼ばれ、川原町に住む人々は、大雨が降り洪水の危険を察知すると即座に家を解体し、安全な高台に避難しました。そして、水が引くとまた川原に家を建てていました。組み立てやすく、解体しやすい構造は、家が流されないための知恵であります。

こうして栄えた川原町も、陸上交通の発達とともに衰退、1950(昭和25)年に完全に消滅し、現在の川原には何の形跡も残っていません。しかし、地元の新宮高校の建設工学科では実習で川原家を造っていたり、熊野速玉大社の境内では、お土産物屋として活用されています。


<昔の川原町の様子>川原町〔大正初期〕





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