水管理・国土保全

  

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瀬田川の歴史

先人たちの足跡 ~奈良時代から江戸時代~

【行基の大日山掘削計画(奈良時代)】
 浸水が長期に及ぶことに苦しんでいた琵琶湖周辺の農民が瀬田川の改修を僧・行基に懇願しました。行基は瀬田川に大きく張り出していた大日山を切り取ろうとしましたが、下流の氾濫を恐れて計画を断念しました。このとき山頂に大日如来をまつり、この山を削ればたたりがある、との言い伝えを残しました。

【河村瑞賢の大普請 元禄12年(1699年)】
 幕府の命を受け、工事の指揮をとった河村瑞賢は、瀬田橋から現洗堰までの東岸を切り取ると同時に、黒津八島の洲を崩して2つの島とし、水の流れをよくしました。

【藤本太郎兵衛親子の活躍 寛政1年~天保2年(1791年~1831年)】
 高島郡深溝村(今の新旭町)の庄屋、藤本太郎兵衛の親子三代にわたる努力により、自普請による本格的な川浚えが実現しましたが、流れを飛躍的に改善するものではありませんでした。

【「シジミ取り」と称した江戸時代の川浚え】
 琵琶湖の水害に悩まされてきた沿湖住民が幕府に請願したが軍事に関することや土砂流出による下流淀川の河床上昇と舟運への影響を考慮し許可されませんでした。そのため、住民はシジミ取りを名目として河底を掘るようになりました。


瀬田川洗堰操作規則制定までの道のり

河村瑞賢が黒津八島を崩した時の施工平面図


藤本太郎兵衛の像



明治初期の浚渫と明治29年の大洪水

明治元年(1868)の大洪水を契機として、大津県による大規模な瀬田川浚渫が実施されました。明治22年(1889)5月から9月にかけては、琵琶湖水位が2mにもおよぶ高水位が続いたことと、国鉄東海道線の瀬田川橋梁の架橋開始が重なったため、住民が橋梁撤去の請願運動を行い、滋賀県知事や住民有志による直轄工事の陳情が重ねられました。一方、下流住民が瀬田川浚渫反対を訴え大きな問題となりましたが、内務省は、明治26年(1893)下流淀川に影響のない範囲の浚渫を実施しました。

 明治29年(1896年)は雨の多い年で、7月から水位が高い状態となっていました。9月には10日間で1,008mmを記録する豪雨があり、琵琶湖の水位はB.S.L.+3.76mに上昇し、湖周辺に未曾有の大災害が発生しました。
 明治29年(1896年)の大洪水により、琵琶湖周辺にあるほとんどの市町村が浸水による被害を被り、無害水位に低下するまでに237日を要しました。特に彦根市の80%、大津市の中心部は全て浸水したとされています。当時の洪水位を記録した石標等が各地に残されていますが、生活再建を諦め、多くの人が海外への移住を余儀なくされました。



明治二十九年大洪水浸水区域之図


明治29年洪水の痕跡柱(大津市瀬田)



瀬田川洗堰設置と瀬田川浚渫

【日本初、上下流一貫の改修工事「淀川改良工事」】
明治18年(1885)の大阪市内の大洪水を契機に治水対策の気運が高まり、明治29年(1896)に河川法が制定され、これに基づき内務省が本格的な河川改修計画「淀川改良工事」が決定されました。淀川放水路、瀬田川洗堰設置など、上下流一貫の抜本的な治水対策が着手されました。
 

【瀬田川洗堰設置と瀬田川浚渫 明治38年(1905年)】
 瀬田川に関連する工事は、琵琶湖からの流出量を増大させる瀬田川河道掘削および大日山の掘削、淀川の洪水調節のため琵琶湖からの流出量を制御する角落とし式の瀬田川洗堰を明治38年(1905)に設置でした。
 32門の堰で、角材を抜き差しすることにより流量調節を行いました。
 瀬田川洗堰は、琵琶湖沿岸の浸水被害軽減のため平常時の水位を低下させる河道掘削を可能としました。
 また、洪水時の琵琶湖の水位上昇は、下流淀川の水位上昇に比べて緩慢であるという自然の地形、水利上の特性を活かし、下流淀川の洪水時には放流量を制限する目的をもっています。



淀川改良工事(明治29年~明治43年


旧瀬田川洗堰(南郷洗堰)



瀬田川洗堰の改築

【大正6年(1917年)10月洪水時の混乱】
 下流の淀川の大塚地区堤防決壊箇所の復旧工事中に洗堰は放流制限を余儀なくされ、それによって琵琶湖の水位が更に上昇しました。
 この間、滋賀県民決起大会が開かれるとともに、洗堰周辺は続々と関係者が詰めかけて不穏な空気が漂い、ものものしい警戒のもとで関係者間の協議が行われるなど、非常に緊迫した状態が続きました。また、各政党の有力者の視察に加え、天皇・皇后の視察までも行われるなど、大きな問題に発展しました。

【瀬田川洗堰の改築 昭和36年(1961年)】
 旧洗堰は、32門と門数が多い、人力で角落としを抜き差しする構造であったため、大正6年(1917)洪水や昭和28(1953)年洪水において、操作に時間を要するなどの課題が顕在化しました。
 そこで、瀬田川の河積拡大と合わせ、洪水時に敏速・かつ確実に流出量を調整するため、昭和36年(1961年)、淀川水系改修基本計画の一環で、瀬田川洗堰が機械化されました。
 これにより、洪水時の瀬田川の流下能力が飛躍的に増大し、湖岸の浸水被害が軽減されることになりました。


新瀬田川洗堰


旧洗堰と建設中の新洗堰



琵琶湖・淀川の治水システムと瀬田川洗堰

【瀬田川洗堰設置後の上下流対立と操作規則】
 明治38年(1905年)に瀬田川の洗堰(旧洗堰)が築造されるとともに瀬田川の浚渫により、瀬田川の流下能力は向上しましたが、長い間上・下流の利害の対立があったことから操作規則は制定されませんでした。
 昭和36年(1961年)に現在の瀬田川洗堰を築造することになった後も操作規則が制定されず、淀川の洪水及び渇水のたびに、操作をめぐっての混乱が発生しました。
 平成4年(1992)4月琵琶湖総合開発事業のうち、琵琶湖開発事業が完了することに伴い、下流利水者に対して、琵琶湖から補給を行うため、瀬田川洗堰の操作規則が制定されました。
 この操作規則においては、関係府県知事の同意を得て、天ヶ瀬ダムの洪水調節時と淀川本川の洪水時には、洗堰のゲートを全閉することが明記されています。

【琵琶湖・淀川水系の治水システム】
 淀川水系の河川は、木津川、桂川等の流量が先に増大し、続いて淀川本川がピークを迎え、その後ある時間差をもって琵琶湖水位がピークを迎えるという特性があります。
 この特性を活かし、下流部が危険な時は、下流の洪水防御のために瀬田川洗堰は放流制限もしくは全閉操作を行います。その後、下流部の洪水がピークを過ぎた後、上昇した琵琶湖水位を速やかに低下させるために瀬田川洗堰を全開して琵琶湖からの後期放流を行います。




琵琶湖水位と淀川流量の関係


洪水時の琵琶湖からの放流イメージ


①雨量により、宇治川・木津川・桂川、そして淀川の水位が上昇しはじめます。
➁琵琶湖の水位はほとんど上昇しませんが、下流の水量がピークを迎えます。このため洗堰の流量を制限します。
③下流の流量が減少しはじめます。琵琶湖では水位が上昇し続け、洗堰を開け琵琶湖の水位を下げます。



琵琶湖総合開発事業の概要

琵琶湖総合開発事業は、琵琶湖総合開発特別措置法に基づき、わが国で初めて地域開発と水資源開発を一体的に進めた事業で、昭和47年(1972)12月に着手し、平成8年度(1996年度)末に終結するまでの25年間(四半世紀)をかけ総事業費約1兆9000億円を費やした大プロジェクトです。
 湖岸治水を含む淀川水系の治水と下流域への都市用水(毎秒40m3)を新規に供給するために水資源開発公団(現水資源機構)が行う「琵琶湖開発事業」と、その他の関係機関が琵琶湖及びその周辺で実施する「地域開発事業」の二つの柱から成ります。




琵琶湖総合開発事業の事業分担


琵琶湖流入河川改修(放水路整備)




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