”ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは”
大和川は、古来より人々に愛され、多くの歌に詠まれています。また、大和川流域では川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいた一方、常に洪水の危険もつきまとっていました。
かつて、大和川は石川との合流付近から西北に流れ、幾筋もの支川に分かれて淀川へ注いでいましが、川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天井川となっていたため、何度も洪水に見舞われました。
このため、大和川の治水には、多くの人々が取り組んでいます。古くは788年に和気清麻呂が石川との合流付近から今の天王寺付近を通し大阪湾へ流そうとしましたが、完成には至りませんでした。また、江戸時代に入ってからは、河村瑞賢が安治川の改修・大和川の浚渫・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画。3年がかりで改修工事を行いましが、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、年貢を納めることができない村が出るまでにいたり、幕府は付替工事に本腰を入れることになりました。大和川の付け替えが実現し、現在の川筋になったのは1704年。工事着手までの間、新しい川筋の人々らの強い反対もありましたが、度重なる洪水や中甚兵衛らの陳情により1704年2月に着手、工事はわずか8ヶ月間で完成しました。
この付替工事により失った家や田畑の土地(潰れ地)は約270haになりましたが、古い河川や池は新田に生まれ変わり、その潰れ地の4倍近くの約1000haに及んだといわれています。しかし、旧流域の新田開発という多大なメリットが得られた一方で、新川筋の左岸一帯は排水不良地となり、洪水被害に悩まされることとなりました。また、新大和川が運んでくるおびただしい土砂は堺港の埋没をまねき、中世に自由な港湾都市として栄華を誇った堺の町は、港湾としての役割を果たせなくなっていきました。