水管理・国土保全

  

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地域と大和川

古代より都として栄えた大和川流域

大和川上流部には、古代、藤原京や平城京などの都があり、日本の政治・経済・文化の中心的な地域でした。このため、法隆寺をはじめ、飛鳥歴史公園等の文化遺産が数多く残っています。また、大和川下流部には、日本最古のダム形式の人工池である狭山池があり、古事記や日本書紀に築造の記録が見られるなど大和川流域は、たくさんの歴史文化を育んできました。

古来より大和川は舟運にも活用されていました。日本書紀には遣隋使の小野妹子とともに来た裴世清(はいせいせい)ら一行が難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬川から三輪山麓の海石榴市(つばいち)に上陸、飛鳥の宮に至ったと記述されています。また万葉集には、藤原京周辺の農民たちが舟で初瀬川を下り、佐保川をさかのぼって平城京の建設に参加している姿が詠まれています。

このように、いろいろな時代に大和川は舟運として利用されてきましたが、近世以降は鉄道の敷設をはじめとする交通網の整備により舟運は衰え、現在は水量の不足も加わり利用されることはなくなりました。


剣先舟




近代以降の大和川周辺地域の変遷

明治の殖産興業政策で日本の近代工業化を牽引した産業のひとつに紡績産業があります。大阪、奈良にも明治10年代から、近代的な紡績工場が立地しました。

その背景には、1704年に大和川の付け替えにより旧川筋に新田が開発され、その多くが主に綿を栽培し全国に知られる名産となった“河内木綿”に加え、鉄道という当時の先端的な交通・流通による大阪との強固な結びがあったためです。大阪は紡績産業を大きな柱に発展しましたが、ここにその下地が生まれたといえます。しかし、流域の綿作は安価なインド綿に対抗しきれず、明治20年~30年代に衰退し、一面に季節はずれの雪が積もったような大阪の景色は明治末期~大正に入ると見られなくなりました。このため綿を失った流域の農家はそれに替わる農作物を模索し、河内ではブドウ、ミカンなどが栽培され、流域の農業は、交通網に支えられ大都市圏に隣接するメリットを十分に生かした都市近郊型を特色として発展していきました。


河内木綿のカイマキ


現代も続く祈り
大和川や曽我川など奈良盆地を流れる多くの川が合流する付近に廣瀬神社というのがあります。この廣瀬神社は治水の神様として祀られています。
この廣瀬神社は治水の神様として祀られています。この神社ではお祭りが行われますが、田人と牛に扮した者とが出て、田作りの所作をする時に、参拝者・田人・牛が砂を掛け合い、周辺はすさまじい砂が舞います。このことから「砂かけ祭」と呼ばれます。砂は雨になぜらえ掛け合いが盛んであるほど雨が多く降ると言われており、古くからこのお祭りは豊かな実りを祈願し毎年行われています。



「砂かけ祭」(廣瀬神社(奈良県河合町))




都市における憩いの場

また現在の大和川は、市内を流れる都市河川のため、高水敷は都市部の貴重なオープンスペースとなっており、近年、河川及びその周辺は、地域の方々にとってレジャーやレクリエーションの場として欠かせない空間となっています。大和川の大阪府域には14の河川公園があり、スポーツや釣り、散策など人々の憩いの場として親しまれています。また堤防や河川敷はマラソン大会や花火大会など様々なイベントの場として活用されています。


河川敷の利用


河川敷の利用





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