水管理・国土保全

  

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猪名川の歴史

猪名川の歴史

川辺郡多田庄(現在の川西市)は摂津源氏の本拠地です。平安~戦国時代にかけ神崎川合流部である尼崎市神崎は、河港都市として栄えました。

上流の川辺・能勢・豊島郡から切り出された材木を筏に組み猪名川を利用して運搬していました。また、天明4年(1784年)には猪名川高瀬通船が、伊丹市下河原村と尼崎市戸之内村との間に開かれ、流域の村々に米や薪炭などを運搬していました。

猪名川の名前の由来は、天平3年に書かれた住吉大社神代記に説話が載っています。これによると、古くからこの地方に住みついていた山直阿我奈賀という者の名前、「あがなが」がなまったものと書かれています。


猪名川の名前の由来




特有の歴史、先人の知恵の活用

■旧石器時代(2万5千年前~1万3千年前)~縄文・弥生時代(1万年前~2000年前)
 猪名川沿いには多くの遺跡が発見されていることから昔からたくさんの人が住んでいた事がわかります。中でも最も古い遺跡は、川西市の西南部にある加茂遺跡で、今から25,000~15,000年以上前のものと考えられています。

■古代【古墳時代~奈良時代】(3世紀末~7世紀)
 猪名川流域のことを名づけた「猪名県(いなあがた)」という地名が歴史のうえで出てくるのは、日本書紀によるものです。この頃の猪名県は、大陸や朝鮮半島から渡ってきた特殊な技術をもった人々が生活していた地域であったと考えられており、こうした人々を帰化人といい、彼らの進んだ文化は、今までの農耕技術に大きな変化をもたらせたと考えられています。平安時代の記録には、為奈野牧(伊丹市荒牧付近)や豊島牧(箕面市牧落付近)という放牧地の地名がみられ、大きな力をもった貴族たちの遊猟地になっていたと考えられています。

■中世【平安時代~室町時代】(7世紀末~16世紀末)
 農業が盛んになるにつれ、各地を治めている貴族が土着して、豪族を従え武力を持つようになり、川辺郡多田庄(川西市)は、摂津源氏の本拠地として有名です。また、平安時代から戦国時代にかけて、神崎川との合流点の神崎(尼崎市)は、河港都市として栄え、橋や渡船場があり関所が設けられていたそうです。

■近世【安土・桃山時代~江戸時代】(16世紀末~19世紀中頃)
 時代が移り、ますます農業が大切になると、洪水が人々の生活に大きな害をもたらすようになります。近世に入り、堤を築いたり、川ざらえ、開削工事など数多くの土木工事が行われていたそうです。また、川辺・能勢・豊島郡の村々から切り出された材木を筏に組んで、猪名川に流して運ばれていたそうです。天明4年(1784)に猪名川高瀬通船が、下河原村(伊丹市)と戸之内村(尼崎市)との間に開かれ、流域の村々に米や薪炭などを運ばれていたそうです。


加茂遺跡


田能遺跡の復旧住居



猪名川にまつわる民話・伝説

■星月夜の織姫〈池田市〉
 約五百年前、牡丹花肖柏という歌人がいたそうです。
ある日、肖柏は、猪名野の五社神社の境内にある古墳の中で、呉織、穴織という女に会い、二人は千年ほど前に、百済から筑紫につき、瀬戸内海をへて、難波津から武庫川をさかのぼって猪名川についたといわれています。ある夏に、天皇に献上する布を、翌朝までに織り上げなければならなかった二人は、夜の暗闇に困惑し、五月山の上の流れ星に願ったところ、暗い夜空が、満天の星空となり、その星明かりで布を織ることが出来たといわれています。
 二人を奉った呉服神社、穴織神社は、人々に親しまれ、肖柏が巡り歩いた織姫縁の後は、池田の地に大切に残されています。

■四斗だるの用水〈尼崎市〉
 昔、尼崎の塚口や御園の辺りは水の便が悪く、百姓達は、殿様に猪名川から水をわけてくれるよう願い出る一方で、水路工事にとりかかりました。水をひく許可がなかなか下りなかったそうです。庄屋の息子の三平が掛け合うと、「新しい取水口を作れば、それだけ隣村へ流れる水が少なくなるので、許可は出来ない」と言われ、このままでは村人が餓死してしまうと考え、三平は殿様の命に背き、村人を集め、猪名川の土手を崩し、四斗だるの底を抜いた管で、作りかけの水路とつないだそうです。水は田畑を潤し、秋には豊作となったと言い伝えられています。
 三平は、この時すぐに責任をとり土手で自害したとも、また、秋の収穫の頃、殿様の怒りを買って、京都四条河原で、斬罪になったとも言われています。


織姫が上陸した唐船ヶ淵


三平供養塔



西国街道 / 猪名川と古歌

■西国街道
 猪名川と交差する街道に京都の伏見から箕面、伊丹を経て西宮に至る西国街道があり、西国諸大名が参勤交代の道として頻繁に利用され、往来は東海道に次いで第二位の座を占めていたそうで、古く平安時代には京へ上る道としても利用され、曲がりくねった道筋や道端の道標、石仏など当時をしのばせる風情が今も残っています。

■猪名川と古歌
 猪名川は、猪名野とともに古歌に好んで歌われており、「夫木和歌集」では後法性寺関白や藤原堅隆、「古今和歌集」では紀貫之、他にも「万葉集」や「後拾遺和歌集」などで多くの歌人が猪名川をしのぶ歌をよんでいます。


西国街道


猪名川の古歌



猪名川の河川改修

猪名川は、古くは蛇行(曲がりくねった)した河川で、洪水の度に水害を繰り返していましたが、昭和13年7月の「阪神大水害」をきっかけに本格的な改修事業に着手しました。洪水を下流に流れやすくするため、昭和33年から戸ノ内捷水路(蛇行した河川を直線化する)工事、昭和40年から利倉捷水路工事を実施しました。さらに、昭和53年5月には、猪名川が総合治水対策の特定河川に指定され、その大きな柱として、川西・池田地区の改修促進が進められ、平成23年度に完成しました。


捷水路工事箇所


捷水路工事改修前後



一庫ダム

■洪水と渇水への対応
 急増した人口と、科学技術が開発した資産を増大・集中させる猪名川沿川は、治水上のより高い安全性とともに、差し迫る都市水(工業用水・水道用水など)を必要とし、洪水を貯留し、渇水のときに貯めた水を川に補給する多目的ダムが有効とされ、猪名川の支流・一庫大路次川に「一庫ダム」が計画され、昭和43年8月から調査に入り、昭和59年3月に完成し、それ以来、流域の水害を軽減するとともに約60万人の水道用水を生み出しています。

■知明湖(一庫ダム湖)の由来
 多田銀山で知られている知明山は、銀銅を産する奇妙不思議な山として、古くは奇妙山と称され、奈良時代に聖武天皇が夢で伊勢皇太神のお告げを受け、東大寺大仏鋳造の銅をこの奇妙山神教間歩(坑道)で掘ったと言い伝えられています。この名をとって、伊藤龍太郎川西市長が一庫ダム湖を「知明湖」と命名したものです。


一庫ダム位置図





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