水管理・国土保全

  

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地域と北川

地域の中の北川
お水送り

北川の支川遠敷川の中流域に位置する「鵜の瀬」は、奈良東大寺二月堂への「お水送り」神事で有名です。毎年3月2日、小浜市の遠敷明神を祀った神宮寺で「お水送り」の神事は始まります。お堂で修二会(しゅにえ)が営まれた後、7mもある大護摩(おおごま)に火がつけられ、その火を松明に移し、山伏を先頭に神宮寺から鵜の瀬までの約1.8kmを松明行列が進みます。鵜の瀬でも河原の護摩壇(ごまだん)に松明が焚かれ、住職が「ただ今より、二月堂へ香水を送ります」と送水文を読み上げ、修二会(しゅにえ)に供えてあった香水が竹筒から遠敷川に注がれます。その10日後、二月堂の「お水取り」のために若狭井で香水が汲み上げられます。

このいわれは次のようです。
「二月堂の創建者である実忠和尚(じっちゅうおしょう)が天平勝宝4年(752)、東大寺の修二会に全国津々浦々の神を招きましたが、若狭の遠敷明神だけが魚釣りに夢中になっていたため、遅れて駆けつけました。そのお詫びに、本尊に供える閼伽水(あかみず)を若狭から送りますと申し出ました。遠敷明神が二月堂近くの大岩の前で祈願したところ、たちまち岩が真っ二つに割れ、白黒二羽の鵜が飛び立ち、その跡から清水が湧き出ました」という由来から、若狭井と名付けられ、また鵜を放った場所を鵜の瀬と呼ぶようになりました。

奈良東大寺の二月堂で毎年3月12日の深夜に行われる「お水取り」には二月堂真下の若狭井で汲まれる香水が用いられますが、遠敷川の鵜の瀬が水源で、地下水脈を通じてつながっていると信じられています。



お水送り


奈良東大寺の若狭井に通じる信じられている「鵜の瀬」

熊川宿
熊川は室町時代に戦略的な要地として足利将軍直属の武士沼田氏が山城を構えたところであり、さらに浅野長政が小浜城主となったとき、交通・軍事の要衝として天正17年(1589)、熊川に対して諸役御免の布告を発し、この地の特別な発展を図りました。この政策は受け継がれ、熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄してきました。

「熊川村誌」によると、当時の多いときには20万駄の米・肥料・魚などの上り荷が熊川宿を経由したと記されています。牛馬平均2俵半の荷付けで1年間のうち240日働いたとしますと、1日1000頭の牛馬を必要としたことになります。

熊川文書「御用日記」享保14年(1729)の覚書によれば、越後・宮津・田辺・峰山・豊岡・出石などの蔵米、カレイ、アゴ、アジ、タラ、能登イワシ、能登サバなどの塩で処理したものや四十物、干し魚、その他たばこ・厚紙・半紙・木地・ごま・鉄・銭など他種類に及んでいます。いかに熊川が商業交通の中継地して栄えていたかを、窺い知ることができます。

宿場は、荷物運送の中継地としてだけではなく、休憩や宿泊の機能も有していました。大名や役人、貴人が休憩宿泊する本陣としては、熊川町奉行所を充てたようです。また、酒井家の菩提寺空印寺住職は、問屋十一屋久左衛門が進めた旅館に泊まり、これを本陣としたとされています。熊川では、民間の本陣や脇本陣は設けられませんでしたが、問屋や一般商家も休憩宿泊の機能を果たしていたようです。

熊川宿は、国道303号の南測に約1.4kmにわたる旧街道沿いに、約1.1kmの区間に伝統建造物群が軒を連ねています。

この建物群の前を街道に沿って前川が流れ、かわとがあり、小さな水車風の小芋洗い器がかけられて、速い流れにクルクルと廻り風情をかもしだしています。


伝統的建物


熊川宿の伝統建造物群




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